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第1話

 学生立入禁止の屋上へと続く鉄扉を勢いをつけて一気に押すと、視界いっぱいに青空が飛び込んできた。夏のはじめの爽やかな風が、高山(たかやま)颯太(そうた)の頬を優しく撫でていく。  最高の天気。最高にいいことが起こりそうな予感。その上朝刊の今日の運勢でも、水瓶座は星3つの絶好調ときている。  だからきっと、うまくいく。  そのほとんど根拠のない強い信念を唯一の武器として、颯太は今『戦場』である屋上へと一歩を踏み出そうとしていた。  1メートルにも満たない低目の防護柵に腰を下ろし、長い脚を向こう側に投げ出した淡いブルーのシャツの華奢な後ろ姿が見える。  現在の気温、推定24度くらい。早くも半袖Tシャツの颯太と対照的に、真夏でも禁欲的なまでに長袖でとおすその人は、25メートル下の地面でも遥か遠くのビルでもなく、ただ抜けるように青い空を見上げていた。    長めの黒髪はサラサラと風に流れ、赤みの極端に薄い象牙めいた白い頬を際立たせている。霞がかった潤んだ瞳は、汚い現実世界ではなく美しい夢だけをみつめているようで、紅さの目立つ唇は何か言いたげにほんの少し開かれている。  所属するラグビー部の新入生でもガタイがよく骨太で、整ってはいるが荒削りな感じに見えてしまう男らしいワイルドな風貌の颯太とは、すべてにおいて正反対だ。  見かけも中身もまるで別世界の生物には、挨拶一つするだけだって相当な勇気がいる。そうしてただ座っているだけでも、そこはかとない気品を滲ませる背中を目の当たりにすると、なけなしの勇気も萎えそうになる。  しかし今日は、最高についている予定の日なのだ。だから、びびってはいられない。  深く息を吸って吐いてを3回繰り返してから、颯太は結界を踏み越えるごとく決然と一歩進み出た。 「あのー、こんにちは」  心の中で活を入れたわりには、みっともない小声になってしまった。  相手は振り向かない。もしや声が届かなかったのだろうか。 「あのー、遠野(とおの)光彦(みつひこ)先輩! おくつろぎのところ誠に申し訳ございませんが……」 「騒がしいなぁ」  しゃっちょこばって張り上げた声を、気だるげな甘い声が遮った。 「そんなに大声出さなくても聞こえてるよ。理工学部工学科1年、高山颯太」  背中を向けたままのその人は涼やかな横顔を向けようともせず、紅い唇でいきなり颯太の学部とフルネームを告げる。心臓がドキリと跳ねた。 「あれっ? なんで自分のこと知って……」 「目立つもんねぇ。お調子者のお祭りキャラで、体も声も大きいもんねぇ。500メートル先からでも見分けられるよ、うん」 「や、俺別にゴジラとかじゃないですから」 「その理工の有名人クンが、僕に何か用かな」 「はぁ。そのぉ、ベタな展開であれなんですけど、俺先輩のこと、す、好きなんです……」  男らしく「あんたが好きだ!」とズバッとコクってポーッとさせてやる予定が、なぜこんなモジモジ乙女になってしまうのか。当初の計画がいきなり狂いまくりで、颯太は内心あわてる。 「ふぅん、そうなんだ」  とどめに憧れの人にはあっさりと流され、ガックリと肩を落とした。  派手に驚いてほしいとか、ましてや頬を染め恥じらってほしいとか贅沢は言わないが、あまり呆気ないのもちょっと寂しい気がする。 「僕と寝たいならお金持ってきた?」  肉欲などという生々しいものとは無縁に見える清楚で涼やかな横顔から、仰天ものの台詞が飛び出すが、想定内の問いなので驚かない。 「あ、いや、違うんです! お客さんとかそういうのじゃなくて、今日は別にお願いがあって来ました」 「お金くれないなら、お呼びじゃないんだけどなぁ」 「まぁそうおっしゃらずに話だけでも。お願い、というか提案なんですけど、先輩、俺のことボディガードとして雇いませんか?」 「ボディガード……って、何?」  疑問をあらわにした、綺麗な顔が振り向いた。黒目がちのふわっと霞んだ瞳が、初めて正面から颯太を捉える。 「だっ、だから、ボディガードですよ。ほら大統領とかが悪いヤツにワーッと襲われたときに、ガッとかっこよく助けに入る……や、あれはSPってのか?」  大学生とは思えない超感覚的で貧困な語彙の説明に、文学部一の秀才は露骨に眉を寄せる。 「君って日本語崩壊してるね。いや、言葉の意味と言うか、役割自体はわかるよ。でも君が僕のボディガードをするというのは、具体的にはどういうことなのかな?」 「俺入学してからずっとあなたのこと見てきて、ですね、あなたがそういうご商売……あっ、すみません!」  失言に青くなり口元を抑える颯太に、美しい人は声を立てて笑う。 「いいよ、確かに商売だから。で?」 「そ、そのぉ、つまりそういうことをされてると、危ない目に遭うことって多いでしょ? イカレたストーカーに付きまとわれたりとか、変質者に襲われかかったりとか」 「うーん、そうね。一緒に死んでくれって包丁突き付けられたこととかあるね」 「ほらやっぱり! だから、そういうけしからん変態どもから守りたいんです! 俺柔道2段だしラグビーやってるし、見かけどおり強いですよ。絶対雇い得!」  憧れの人は綺麗な瞳を不思議そうに見開いて、颯太をじっとみつめ、一言。 「お金払えないよ?」 「も、もちろん無報酬で! 俺の方が志願して来てるんですから」 「ふぅん、お金目当てじゃないのか。そうすると、何目当て?」 「えーっと、つまりですね。俺はあなたが好きだから、守りたいっていうのが第一で。それにほら、ボディガードになれば、ずっと先輩のそばにいられるでしょ?」  でかい男が赤くなって照れまくる図は、到底可愛いものではないだろう。想い人は珍獣でも見るように颯太をマジマジとみつめる。 「一緒にいたからって、ただではさせてあげないよ?」 「わ、わかってますっ。だから、そうじゃないんですって。俺あなたのそばにいて、あなたのこともっと知りたいってだけなんです」  そう、知りたい。知りたくてたまらない。  知りたいのは、その霞んだ瞳のみつめている先だ。ついさっきも青い空に視線を投げながら、本当の彼の目は全く違う場所を見据えていた。それがどこなのか、気になって仕方がない。その謎を解いてみたいのだ。 「ふぅん……」  そういうのってありなのかね、とつぶやき、雲の上の存在は少し首を傾げたようだった。そして、再び視線を空に移す。  しばし流れる沈黙。やっぱだめかと肩を落としかけたとき、 「ここから下見てるとさぁ」  涼やかな声が届いてきた。  先輩は『下見てると』と言いながら、相変わらず柔らかな眼差しをただ空に上げていた。 「はい?」 「うっかり飛び降りちゃいそうになるんだよね。そういうの、わからない?」 「って、な、何物騒なこと言ってんですか!」  あわてて相手の方に駆け寄ろうとしてつんのめる颯太に、美しい人は笑って片手を振る。 「や、降りない降りない。降りないけど、はずみでさ。もういいや、さよならしちゃってもとか思ったら、パッと飛べちゃいそうな気もするんだよねぇ」 「ちょっ、ヤバイってそれ! 絶対下見ないでください! 絶対ですよ!」  謎が多すぎる存在だけに、気まぐれで本当にえいっと飛び降りてしまわないとも限らない気がして、颯太は青くなりつつしつこいくらい念を押した。  あわてふためく颯太を軽やかに見て、憧れの人はふふっと笑う。    からかわれたのだろうか。わからない。とにかくその神秘の微笑は、初心で単純な体育会系の男を惑わすには十分だ。 「あ、でも、そっか……先輩は飛び降りてもどうせ落ちないか……」  心の中でつぶやいたつもりだったが、口に出してしまっていたらしい。相手が小首を傾げた。 「ん? どうして?」 「だって、実は羽根があるんでしょ?」  天使には当然羽根があるものだ。    ごく自然に言ってしまってから、柄にもないポエムな発言に我ながらゲンナリしてしまったが、相手はキョトンとしてからハハハ、とおかしそうに笑った。 「ないよ、そんなの。あればとっくにお空に旅立ってます。落ちるよ、僕なんか。そりゃもうストーンと威勢よく、地の底までね」  何と言って反論したものかと眉を寄せる颯太に、気のせいか幾分温かみのある優しい眼差しが向けられた。 「ねぇ」 「は、はい?」 「君って面白いね。なんか、一緒にいると楽しそうな予感」 「あ、楽しいですよ! 俺ボケもツッコミも両方いけますから、絶対退屈させません! ていうか、先輩はボケ専門って感じだけど」 「ん? それあまり褒められた気がしない」 「いーや、俺なりに最高の褒め言葉なんです」  夢心地の瞳の人は、また宙をみつめ少し考える素振りを見せてから、名案を思いついたというように瞳を輝かせる。 「そうだ、君のことハチって呼んでいい?」 「もしやコードネームですか? だったらなんかもうちょっとカッコイイ、ジークフリートとか、ファントムとか……」 「贅沢言わないの。ハチ公は世界的に有名な忠犬だよ? 昔うちで飼ってた秋田犬の名前もハチ公だったんだ。ボディガードっていうより、君大型犬みたいだから。それでよければ飼ってあげようか」 「もちろんOKですとも!」  思わず直立不動になる。犬だろうがなんだろうが、ありがたく承ろう。この際、人としてのプライドなんてクソくらえだ。  羽根のない天使はひらりと柵のこちら側に降りると、おもむろに颯太に近付き自然に目の前に立った。吸い込まれそうな漆黒の瞳が、緊張のまま直立不動が解けない颯太をまっすぐ見上げてくる。 「その代わり、条件があるよ。余計なことまで知ろうとしないでね。番犬は主人を守っても、主人の心の中に踏み込んできたりしないだろう? どう?」 「ラジャー!」  それが彼の希望ならそうしよう。その謎を知りたくて、暴きたくてたまらないけれど、大切な人が望まないことはしたくない。 「よしよし、いい子」  憧れの人はふわりと微笑むと、畏れ多くもその神聖な白い御手を伸ばして頭をフワフワと撫でてくれた。爽やかな中にちょっと優しい甘さのある、とてもいい匂いがした。 「じゃあ、これからよろしくね、ハチ」  朝刊の占いもバカにしたものではない。水瓶座の運勢星3つは、正しく大当たりだったじゃないか。

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