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第2話

*** 『文学部独文学科3年の遠野光彦先輩は、学内で男娼のバイトをやっている。1回のお値段は10万だ』  3ヶ月前、その話を学内闇情報屋として名を馳せる友達から聞いたとき、颯太はとにかく唖然としてしまった。  ヤローがヤローに体を売るなんてこと自体からして、心身ともに健康優良児の颯太にとってはまず理解の果ての衝撃だ。しかしそれでも、しょせんは他人事。入学以来ラグビー練習に明け暮れ彼女はいないが性向的にも健全で、同性愛なんて異世界のことだったし、どこのどいつが学業そっちのけで淫靡な道を突っ走ろうと知ったことではないはずだった。  ただ驚いたのは、1回10万というその高額なお値段だ。バカにすんな、そんなのアンジェリーナ・ジョリーにだって払いたくないわい、と、情報屋の友人にその場で思い切り突っ込まずにはいられなかった。  果たして本当にそれだけの価値のある面なのか。  ぜひとも拝んでやらないと気がすまないと、野次馬的興味で独文学科のゼミ室を覗きに行ってしまったのが、颯太の運の尽きだった。いやむしろ運の付き始めと言うべきか。  噂の人物を一目見た瞬間、体が宇宙空間にポンと放り出されたような浮遊感に包まれた。周囲のすべての存在が消え、 地球上に彼と2人で取り残されたような感覚は、颯太が生まれ落ちてから初めて味わう甘い衝撃だった。  西向きの窓辺に長い脚を組んで座り、淡い夕陽を浴びてヘッセを原語で朗読する件の遠野某のその姿は、がさつな颯太の目には天上人のごとく神々しく映った。  20歳の男というギラギラした生々しさが全くない、清潔感溢れる聖らかな風貌。全身に満ちる物静かで穏やかなオーラ。顔形は特別目立つほどの派手さはなく地味に整っている印象だったが、平伏して頭を撫でてほしくなる癒し系の気品が内から滲み出ている。  ことに特徴的なのはその目で、真っ黒な瞳がやけに大きく、どこか焦点が合っていない微妙な霞み具合がたまらないのだ。  確かに大枚10万はたいてでも、その隠された淫らな素顔を暴きたくなる――そんなよからぬ妄想にかられる人物だった。  理屈抜き、一目で惚れた。  それまで自分の性向をノーマルだと疑わなかった颯太だったが、同性に惹かれたという事実にそれほどのショックは感じなかった。  悶々と思い悩むよりは、いっそきっぱりと受け入れてまず行動、というのが颯太の信条だ。  敵の攻略には基本相手を知ることからと、思い立ったら一直線、颯太はその日からストーカー並に遠野光彦の行動を逐一チェックし始めた。そして見かけからは想像もつかない下世話な噂は、どうやら事実らしいと認めざるを得なくなった。  情報屋の話だと、成績優秀な彼は奨学金をもらっているらしい。学費の心配はないのだから適当に普通のバイトでもすれば、遊ぶ金くらいは十分稼げるはずだ。  一体なぜ、そんなに金が必要なのだろう。  高級品には全く興味のない颯太だったが、彼の身につけているものがすべて有名ブランド品であることは、なんとなくわかる。ブランド好きが昂じて、というヤツなのだろうか。  どうも釈然としなかった。そんな単純な理由だけとは、どうしても思えないのだ。  その秘密は遠野光彦が一人でいるときに時折見せる、遠い眼差しにあるような気がした。それに気付いてしまえば、今度は知りたくてたまらなくなった。  興味や好奇心だけではなかった。彼のその虚ろな眼差しの中に救いようのない孤独を見、それが颯太の胸をも引き絞り、切なくさせるからだった。  颯太とて、交際費稼ぎに人並みにバイトはする。10万程度の金は自宅アパートの押入れの隅に隠した、レトロなブタの貯金箱に現ナマプールしてある。金で彼を買おうと思えば、そうすることはできた。  その白磁の肌に触れ思う存分貪ってみたいという渇望は、自分の中にも確か存在した。  だがひととき体を手に入れても、その心は覗けない。ただの『客』では意味がないのだ。  身の程知らずと言われようと、『特別な位置』が欲しかった。彼の心の痛みを少しでも和らげる、そんな存在になりたかったのだ。

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