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第21話

***  ここ数年の冬は暖かく雪自体見ることが少なくなったせいか、2月の終わりに積雪10センチの大雪は、南関東ではかなり珍しかった。夜半から降り続いた雪は未明に上がり、凍結した道路を滑らないよう気をつけて進みながら、颯太はもう一度地図を確認する。  大学のある海辺の町から在来線で2時間の小都会。高層ではないが5階建て程度のビルが連立するビジネス街も、午前7時という時間では本格的に動き出すまでには、まだ少し間があるようだった。 「あった……」 『丸和金融』とか『トータルコーポレーション』とか、なんだかうさんくさい会社の看板がいくつかかかった4階建てのビルを見上げ、颯太は足を止める。  彼の現状は聞いているしロングで引いて撮られたものながら写真も見ているので、実物が目の前に現れてもそれほど驚きはしないだろうと思っていたが、胸の鼓動は今からもう忙しなくなっている。  ビルの脇手の扉がいきなり開き人が出てくる気配に、颯太はとっさに街路樹の陰に身を隠した。出てきたのはグレーと言うよりはネズミ色と言った方がしっくりくるくたびれた作業着姿の、60がらみの色黒のオッサンだ。肩からモップやら何やらもろもろが入った清掃道具バッグを下げているのに、全く重そうにしていない。  オッサンは入口の前のシャーベット状に雪が残る歩道を見てチッと舌打ちすると、出て来た扉の奥に向かって声をかける。 「おーい、トオノちゃん! ここ雪かきもやっといてくれや!」  返事は聞こえなかった。それでも、颯太の心臓はさらに激しく打ち始める。 「それ終わったらゴミ出しも頼むな! 俺次んとこ行ってっから!」  オッサンはそれだけ伝えると雪に悪態をつきながら歩き出し、隣のビルへと入って行く。  颯太が拳を握り締め、大きく吸った息を吐き終えたところで、再びドアが開いた。 「っ……」  写真と同じ、そしてオッサンとお揃いのネズミ色の作業着と帽子。軍手に大きな雪かき用のスコップといったその姿は、まるっきり彼に似合っていなかった。それでも、その究極にイケていないユニフォームすら、彼の生来の美しさを損うには至っていない。相変わらず颯太のご主人様は、誰よりも気品があって綺麗だ。  こみ上げてくる熱いものを必死で押し殺し、颯太は一歩を踏み出した。  スコップで予想よりも器用にシャーベット状の泥雪をすくい始めた光彦は、少し手を止めふぅと息を吐くと、唐突に気配を感じたのか、振り向いた。  颯太を認め不思議そうに首を傾げたのは一瞬で、白い頬は見る見る赤く染まって行く。そしていたたまれないといった恥じらいの表情を隠すように、パッと背を向けてしまう。 「ああもう……まいったなぁ、ホントに」  心底困ったといった声が届いてきた。久しぶりに聞く声に、たまらず駆け寄り抱き締めたくなる。  やっと、みつけた。 「何まいってんだよ」  内心の動揺を抑え、わざとぶっきらぼうに言って数歩進み出る。 「カッコ悪いとこばっか見られてさ。これでもう守るイメージも全部なくなっちゃった。大放出もいいとこだよ」 「なんで? 額に汗して働く姿、すげぇカッコイイじゃん。めちゃめちゃクールだよ。前の商売よりずっといいと俺は思うね」 「ごらんのとおり、ビルの清掃員やってるんだ。お給料いいからね。体力いるけど、やってみると結構面白いんだよ」 「綺麗になるとみんなに喜んでもらえるしね。やりがいあるよね」 「驚かないの?」 「知ってたもん」  しばしの沈黙。相手は背を向けたまま俯いている。会えたら言いたいことは山ほどあったのに、胸がいっぱいで言葉が出てこない。 「どうしてわかったの? 僕がここにいること」 「悪いけどブタちゃん貯金を使わせてもらって、プロの人を頼んだんだ。人探しのさ。足りなくて足が出たよ。どうしてくれんの?」 「うわ、なんとなく君は絶対人を頼らず自力で探すだろうと思って舐めていた。まさかそこまでやるとは。しまったなぁ」 「犬だけに鼻が効くから? でも犬だけに プライドもないから、なりふりも構わないんだわ。あなたをみつけ出すためならなんだってする。ていうか、あの翌日にいなくなるってのはひどいだろ。せめて他の日にしろよ」 「え、それって問題?」 「大問題ですよ。あれじゃ俺がすげぇ下手くそだったから、逃げられたって思うじゃん。トラウマになったらどうしてくれんだよ」    光彦がアハハと笑った。久しぶりに聞く笑い声に、胸がジンと熱くなった。 「いやいや、同性が初めてのわりには四重丸の出来だったよ」 「四重丸じゃ花丸じゃないじゃん。もっとランクアップさせてよ。俺はいつでもお相手する気満々ですよ」 「うわぁ、朝っぱらから何という破廉恥な発言を。おまわりさーん、ここに変な人がいます!」 「その変な人の飼い主はあなたです。……あのさ、どうでもいいけど、そろそろ観念してこっち向きなよ」  ずっと向けられている背がピクリと震えた。 「でも……汚れてるから。きっとガッカリするよ。そして幻滅してそのまま帰ってしまうという、またしてもみじめな捨てられパターンが僕を待っている」 「もー、ゴチャゴチャ言ってないで向くのっ」    待ち切れなくなって、頑なな両肩を掴むと無理矢理クルリと体を反転させた。困ったように眉を寄せ目を逸らした光彦の頬は、一体どこを掃除してきたのか煤で薄黒くなってしまっている。それをそっと親指で拭うと、相手はさらにばつ悪そうに俯いた。 「嘘つき」  ちょっと恨みを込めて言うと、クエスチョンマークを浮かべた怪訝な瞳が上げられた。 「置いてかないって約束したじゃねぇかよ。忘れたのかよ」  左の小指を一瞬立てる。海で交わした約束。光彦は思い出したように手を打った。 「ああ、そう言えば」 「そう言えば、じゃねぇよ。ちょっとさぁ、忘れんぼすぎやしませんか? あなた」 「あのね、覚えてはいてもいろいろな事情で守れなくなる約束っていうのも、世の中にはあるんだよ」 「何それ、オトナの屁理屈みたいなこと言っちゃって。そんな約束ねぇよ。約束ってのは守るから約束なんだろ?」 「秤にね」 「うん?」 「秤にかけたんだよ。君の幸せと僕の幸せを。僕にとって大事なのは前者だった、そういうこと」 「俺の幸せは俺自身が決めるから、あなたは考えてくれなくていいんです。大体こっちの希望はもう言っただろ? 一生そばにいさせてくださいって。その答えまだちゃんと聞いてないけど、今聞かせて」    光彦は困惑したように瞬くと、微かに首を横に振った。 「ハチ公……前に飼ってた本当の犬のハチ公だけど、子供のときから一緒ですごい仲良かったんだよね」 「うん」 「工場の経営が苦しくなってきて、結局飼えなくなって知人にあげてしまったんだ。仕方のないことだとわかってたけど、僕は悲しくてずっと泣いてた。しばらくしてどうしても会いたくなって、その知人の家まで行ってみた。ハチは庭にいて……」 「よかったね、会えたんだ」 「僕に吼えかかってきた。不審者だと思ったんだろうね。もう僕のことなんか完全に忘れちゃって、新しいうちの犬になってたよ」  胸がズキンと疼いた。  もう十分だと思った。この人はこの年で人の何倍も大層痛い目にあってきて、もう十分じゃないかと思った。 「あー、そりゃあバカ犬だわ。言っとくけど、俺とそんなのを一緒にしないでよね」  わざと冗談めかして言うと、光彦は少しだけ笑った。寂しそうな笑顔に胸が詰まる。 「僕の捨てられ体質の始まり。飼い犬にすら捨てられてしまった。でも、それでいいかと思ったんだ。ハチにとって新しい生活が幸せなら、それでさ。僕は幸せだった頃の思い出を、大事に温めて生きて行こうって」 「で、俺のことも思い出にしちゃおうって思ってたわけ? ずいぶん勝手じゃない。あなたについていきたいっていう俺の気持ちはどうなるの?」 「あ、もしかして、怒ってるんだね」 「そうだよ。今頃わかった?」 「確かに僕は君に無断で姿を消した。もう二度と会わないつもりだった。でも、よく考えてみてほしい。君が一生を捧げようとしているのは、暗い過去と莫大な借金を背負ってる上に、売春して退学になったろくでなしなんだよ?」 「それが何?」    光彦は伏せていた顔をおもむろに上げた。どこか怯えを含んだ頼りない瞳が、わずかな驚きと共に震えている。 「みんな去って行ったのに、君の気持ちはどうして変わらないんだ? そんなことってあるのか? もしも本当にあるとしたら、それは……」  奇跡だよ、と声は付かずに唇だけが動いた。 「さぁ、どうしてだろうね。でもしょうがないだろ、愛してんだから。高級娼婦でも清掃員でも借金まみれでも関係ない。俺は全部ひっくるめた遠野光彦が好きなんだ。暗い過去持ちで借金まみれだと幸せになれないのか? 冗談じゃねぇよ。俺が誰よりも幸せにしてやるよ。それで将来銅像建っちゃうくらい、世界一の忠犬だって言わせてやる!」    光彦が笑った。初めて見る泣き笑いみたいな複雑な顔だったが、これまでで一番飾り気のない素の笑顔に見えた。 「君は……もう、僕の犬なんかじゃない。君は、僕の……」  最後まで言い終える前に、抱き寄せて震える唇を塞いだ。キスしてしまってから聞き逃したのを惜しかったと思ったけれど、もう1秒だって我慢できなかった。 「そばにいて」  ためらいを捨てた腕が背に回され、離れた唇がはっきりと耳元で囁いた。 「一生、僕のそばにいてください」  少しだけ恥じらいを込めて告げられた一言をしっかりと受け止め、嬉し涙で霞んだ瞳で見上げた雪明けの空はどこまでも青かった。  最高の天気。最高にいいことが続きそうな予感。もう占いなんか見なくてもわかってる。水瓶座の運勢は、この先ずっと星3つに違いない。 ☆END☆

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