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ジョン・ドゥに懺悔はしない
先程繋げられたモルヒネの輸液バッグをちらと一瞥し、男は呟いた。「何とか間に合ったらしいな」
潰れていない右眼はガソリン由来の煤煙や飛び込んできた細かい破片で充血し、未だ霞んでいたから、判別までに少しの時間を要する。その間に奴はパイプ椅子を引き寄せ、入り口に頷いて見せた。警官は未だ頑張っているらしい。
これほどまでに無駄な税金の使い道があるだろうか。焼け爛れた左半身はもう感覚すら残っていない。肺は辛うじて自力呼吸を続けていると言う有様。確かどちらかの脚の膝から下は切断されたはずだし(まだ骨がぐしゃぐしゃになったかのような痛みは感じられるものの、もう暫くすれば脳が神経の幻覚を生かそうとする努力を放棄してくれるだろう)逃走する意志を奮い立たせろと言う方が無理な相談だった。そう言えば、もう勃つものも勃たない。掠れた笑い声を立てれば、突っ込まれたカテーテルの違和感を改めて意識する。
「何だジョン、生きてたのか」
すらすら出てきた名前の在処は、恐らく本来思い出すべき場所ではなく、遥かカブールの市街地だった。言いようのない懐かしさが胸を満たす。例え目の前でジハード狂いのガキが自爆し、その血肉を浴びても、汚れた顔のまますぐに次の指示を怒鳴れるクールで利口な男。ああ言う奴は実のところ、意外と感傷的なのだと言うのがフィクションならばお約束の設定だった。
ところがジョンは違う。瀕死の元戦友に尋ねられても、ベッドを見下ろす目は冷やかで、振られる首は感情の欠片も窺わせなかった。「いいやロッド、フィンは死んだよ」
この質問を鸚鵡の如く誰彼構わずぶつけているのだと、今回もまた口にしてから気付く。俺はとうとう気が狂ってしまったらしいと、ロッドはついに認めざるを得なかった。
フィンレイが死んだことを一番に知ったのは彼自身だった。何せあのガキが運転していた車の助手席に乗っていたのだから。
「お前とは逆で、右半身がカリカリに焼け焦げていた。どっちにしろ、火に巻かれる前にはこと切れてただろう。首の骨が折れてたからな、多分衝突した拍子に。それに何発か撃たれてた。32口径だ」
お前、あいつを置いて燃える車から飛び出しやがったな。そう口にした時、ようやく言葉付きに詰る色が浮かび上がる。シャツの胸ポケットを弄っているのは煙草を取り出そうとしているからだろう。結局すぐさま、全面禁煙のルールを思い出したらしい。胸の前で組まれた逞しい腕で、褪せた刺青があのガキと同じ文様だと、今になって気付く。
「俺が助けようにも、あいつはもうくたばってた」
「ああ」
ジョンは頷いた。
「お前について家を出て行った時点でな」
謝る必要は無いと、お互い理解していた。息子を亡くした父親は、怒りなど露ほども感じていないらしかった。冗談でなく、奴の中ではとっくの昔に、フィンレイは死んでいた。戦場で、刑務所で、親子の情けに関する感覚はすっかり鈍麻してしまったようだ。らしくないな、と思ったのは、まだ自らの中には少しばかり甘ったるいものが残っているせいだろう。この男のことが、案外好きだった。奴の息子に向けていたとはまた違う感覚で。
「お前はあいつの名付け親だ。俺はお前に、あいつを守る役を任せた。どうしてあんな真似を?」
漫然とした悲しみに浸るロッドへ、ジョンは問いかけた。いつだったか、ベビーベッドの中のムスリム・ベイビーに、FNスカーで4発撃ち込んだと報告したロッドへ向けたのと、寸分違わぬ顰めっ面で。
あの時と同じく、疲れて頭が上手く動かない。包帯から僅かに覗いた肌を、完璧に管理された空調の温風が撫でていく。じくじくと膿み続ける傷口と違って、酷く乾いて感じるが、だからこそ逆に重傷を負っているのではと勘違いしてしまう。
「お前が判断を間違えたってだけの話だろう」
痛む喉から放った声はきいきいとみっともない嗄れ方で、自らでも不快な程だった。聞き届けたジョンはもっと気を悪くしたことだろう。それが正答だと分かっているから尚のこと。
また犬の吠え声じみた笑いを上げることで、奴に何とか理解させたかった。フィンレイは最後の瞬間、父親よりも名付け親を愛していたのだと。違う形かもしれないが、その大きさはお前に向けられたものを遥かに上回っていたのだと。
そして間違いなく、俺はあいつを愛していた。肉も骨も残らず貪り食う勢いで。例え世間がどう思おうと知ったことでは無い。誰も介入など出来はしなかった、させはしない。
愛情という責任をとっとと放棄していた男は、まるで気味の悪い、けれどすぐに叩き潰すことの出来る虫を目にしたかのように肩を少し竦めた。
「もう行かないと。エメットがウエストポイントから帰ってくる」
「誰だって」
「フィンの兄だよ。来年には卒業だ」
そう言えばそんな奴が居たな、と今になって思い至るが、実感は一向に湧いて来ない。濃密な道行きの間、フィンレイは一度としてその名を口にしたことがなかった。何だかんだと鼻っ柱の強いガキだった。自分の上位互換なんて、口にするのも忌々しい存在でしかなかったに違いない。奴が不要だと言うのならば、それで良かった。自らにとっても、さして意味のない情報だったと言うことだ。事実が示している通り。
それにしても、親父も弟も前科者なのに、よくもまあ士官学校などに潜り込むことが出来たものだ。書類選考で弾かれる可能性だけでは無い。幾重にも重なる十字架は、今後の進路へ重くのしかかることだろう。それでも敢えて、苦難の道を選んだのだ。褒めてやるべきに違いない。
実際、ジョンはその息子の名を乗せる時、唇を途轍もなく誇らしげに捻り歪める。
「あいつは弟と違って努力家だからな。フィンだって、やろうと思えば何でも出来たんだ、真面目にコツコツ努力していれば」
「残念だよ」と呟きは、些か薄っぺらさは否めないものの、間違いなく真実として口にされる。もう笑う気力すら残っていなかった。生存バイアスという考え方が馬鹿げていることならば、軍という何事も極端な機構にいた人間として一番よく理解しているだろうに。
フィンレイはこの男を父として愛していた。この男も、出来損ないの息子を別に嫌ってはいなかった。だから席を立つ時、じっとベッドを覗き込んできたのだろう。ひたと合わされた飴色の目は大きい。見かけは余り似ていない親子だが、この瞳の色だけは、気分が悪くなるほど生き写しだった。
「殺されるかと思ったか。だが俺は、もうお前の尻拭いで手を汚すなんて、金輪際しないぞ」
「分かってるさ」
その一言を口にするだけで何度か咳き込まねばならないほどなのだ。横隔膜が上下するだけで胸が裂けそうになる。それでもロッドは、せめて言い返さねば気が済まなかった。
「生き残った息子を大事にしてやれ……フィンは、俺が責任を持って連れて行く」
名付け親の責に於いて。あの子供へ伸ばした手を、決して離さなかったけじめとして。
ジョンはドアの前でもう一度、肩越しに振り返った。疎ましげな眦の細められ方が、これまたフィンレイそっくりで、胸を掻きむしりたくなる。これ以上爪を立てたら傷口から心臓が露出するかも知れない。いっそのこと、そうなってくれた方が、どれだけ幸せだろう。
「フィンは死んだんだ」
殺してくれ、と自分の意思と無関係に独りごちたのは、ドアが閉められてからのことだったので幸いだ。
迎えは望めない。あの薄情で気ままなガキの事だから、きっと先に行っているか、どこかでしゃがみ込んでぐずぐずしているに違いなかった。
まあ、そこまで感傷的になる必要はない。機会はきっと、幾らもしないうちにやってくる。血管が冷たくなるようなモルヒネの薬効をようやく実感しながら、ロッドは乾燥し始めた目を閉じた。次こそは両方共の瞼を開かず済むようにと、真面目腐って祈りながら。
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