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フェブルウスは10度見る
散々やられたフィンレイがベッドで死んだように横たわっている間、ロッドは最大限の親切さを発揮する。風呂に湯を張っておいてくれたし、近くのピザハットへ行って食い物を調達しようと出かけていきすらした。注文はつけなかったが、きっとフィンレイの好きなチキンBBQを買ってきてくれるに違いない。
好意は有り難い、と感謝すべきなのだろう。でも熱い湯に浸かりたくなかったので、バズタブの栓は抜いてしまい、20分ほど冷水のシャワーを浴びる。後ろ手に回した指をアナルへ突っ込み、散々中出しされた精液を掻き出す作業に、体の節々が悲鳴を上げた。
何とか服を身につけ、テーブルからリモコンを取り上げ、よろめきながら古ぼけたカウチへ身を沈める。この着地点へ到達するまでの間に、今こそ逃げ出すべきだ、と理性は何度も訴えかけてきた。なのに脚は棒になったかの如く動かない。嵐に巻き込まれた渡り鳥の気分。今や体力だけではなく、気力すらズタズタにへし折れていた。回復するまでには、少なくとも明日の朝まで掛かりそうな気がする。
あのお巡りは本当に最悪だった。何となく親父に似ていたから、余計に気分が落ち込むし、萎縮させられる。時と場合によってむやみやたらと威圧的になるところなんか本当にそっくりで、糾弾されているかのように感じた。ああいう態度を取られると従ってしまう。障害者用トイレの床へ跪かされたことも含め、まるで畜生になったかようで、自分に腹が立つ。
そして牧場主とは、家畜が己の為に死ぬのを当然と思っているものだ。
下げるだけ下げた設定温度のエアコンディショナーは、間違いなくやるべきことをやり遂げていない。熱いよりも冷たい方が耐えられる自らにとって、全く忌々しいことに。
でも消防士になったら、嫌でも熱いところへ飛び込まなければならない。出来るのかな、と今になって不安がわき起こる。
なるようになるさ、と思っておけばいい。これまでと同じように。そうでないとやって来れなかった。もしも慎重な性格を持ち得ていたならば、母親と繰り広げたあの大喧嘩の際、名付け親に電話しなかったし、誘われて寝ることもしなかっただろう。
早く何か口に入れ、胃に落とし込みたい。嫌なことを忘れたい。欲求が膨らみ、食べ差しの菓子でもないか部屋の中を漁ろうという衝動が抑えきれなくなった矢先に、高い足音が舞い戻ってくる。
受け取った箱を開き、殆ど飛びかからんばかりの勢いで貪り始めたフィンレイを、ロッドは奇妙なもののように眺めていた。いつもと違う目つきは不機嫌を煽り立てる。「何だよ」
「いや別に。そう言えばガキの頃から好きだったもんな」
そんな古い記憶からの発想で、これを買ってきたのか。叫び出したいのか、泣き出したいのか自らでも分からなくなり、結局フィンレイは「座ったら」とぶっきらぼうに傍らのカウチを顎でしゃくった。ついでに臑を裸足で蹴ってやったら「お前、風呂入ったんだろう」と本気で驚いた声が飛び出す。
「これだけ冷房入れてたら当たり前か。北極みたいになってるぞ」
「知るかよ。俺は寒い方がいいんだ、ほっとけってば」
頑丈な相手の脚が、攻撃にびくともしなかったことを癪に思ってからのことだ。自らの足が氷のように冷え切っていると意識したのは。
ロッドは自然な動作で、その場へ膝をついた。だらしなく絨毯の上へ投げ出されていた右足を両手で取り上げる。男らしく厚い骨張った手に性的な色合いは一切なく、本当に血行を促すためだけの目的で動いた。指から始まって股へぐっと親指を潜らせ、それからひんやりした甲を手のひらで包み込む。その間踵を掲げ支えている左手の温みが、腹立たしい位に心地良い。
またおっぱじめようとしたら、すぐさま顔を蹴っ飛ばしてやるつもりだった。けれど見下ろす表情は、あくまでも真面目腐ったまま、動くことがないのが逆に恐ろしい。
踝の骨から足首に向けてぐっと押し上げられる頃には、フィンレイも悟っていた。もしも昨晩、逆の立場になり、自らが豚箱へぶちこまれていたら。目の前の男も同じように、ありとあらゆる手段を講じて自らを助けようとしてくれていただろう。もちろん自らより遙かにスマートな手はずではあったろうが、少なくとも置き去りにして逃げたりなど、絶対にしなかったはずだ。この関係が維持されている間は。
甘辛いバーベキューソースは味蕾で蓄積されると、甘みの方が強調された。指にこびりつく、細くしつこく糸引くチーズを舌先で切る。残滓を前歯で削り取りながら、フィンレイは男の脂ぎった旋毛を黙って見下ろしていた。
反対側も同じようにマッサージされる頃には、腹もすっかりくちくなっている。意地汚くもう一切れだけちぎり取ってから、四角い箱を足下へ屈み込む頭越しに、テーブルへ投げ落とす。
「もう大丈夫だよ」
自分でも気味が悪くなるほど優しく心のこもった声が、本心から溢れ出る。まるで自らの台詞へ呪われたかのようだった。腹へ腕が回され、額を押しつけられても、突き飛ばす気すら起こせない。
もうしばらく、ジャンクフードを咀嚼する音が、絞られた通販番組の甲高い音声に混ざる。やがて空々しい拍手の音だけが部屋へ満ちるようになると、ようやく聞こえてきた。エアコンの排気音の中から、穏やかな呼吸が。
「ロッド」
ソースで汚れた唇のまま、フィンレイはそっと尋ねた。
「寝てるの」
「いや……」
彼が続けて何かを言おうとしたことは間違いない。けれど口は噤まれる。自分の声よりも、もっと大事なものへ耳を澄ませているかのように。
邪魔されたくないと思っているのは確かなものの、それをやらかすのがお前なら構わないと言われれば。普通は躊躇する。腹に乗せられた重みが、膨れた胃を圧迫する。吐きたいと思ったが、それは心の問題で、身体は全くけろりとしていた。寧ろ、今ここでそんな体力を消耗する方が馬鹿げていると、冷静に計算してしまう。
今日は数えきれない程のチャンスがあった。何なら警察署で奉仕を終わらせた後、そのまま立ち去れば、十分に義理を通したことになったはずだ。けれどフィンレイは、そうしなかった。一度も生かそうとしなかったのだ。
まさか死が2人を分かつまで、とは言わないはず。でもこの男はいつになったら、見限ろうとするのだろうか。
「さっきはパニクってごめん」
毛玉がちくちくする背もたれへ身を預け直しながら、フィンレイはすっかり意気消沈して言った。
「あれは良くなかった。仕事では絶対にしないよ」
「お前、家に帰るって言ったよな」
少し呆けたような耳触りの口調が意外で、視線を1930年代風応接セットのテレビ画面から僅かに落とす。
「お前がそんなことを考えてるなんて気付かなかった」
「キレてたから……本心じゃない」
「いや、ああ言う時は本心が出るもんだ」
爪先が再び冷えていく。まだ口の中に残っていたチキンの胸肉は、すっかりほぐれていた。もう味もしないから、いい加減飲み込むべきなのに。
「帰りたいか」
少し考えてから、フィンレイは黙って首を振った。拘束する腕の力が強まる。
「まあ、そうだよな。今更帰ったところで、誰もお前を待ってなんかいないさ。お尋ね者の息子なんか」
「それでも待っててくれるのが、親ってもんじゃないのかな」
「お前は本当に甘っちょろい奴だよ」
そうかも知れない、と悔しさを飲み込み、認める時が来た。家族に迷惑をかけたく無かった。父親は多大な犠牲を払ってやっと出所へ漕ぎ着けたし、苦労してきた母親には心安らかでいて欲しい。兄貴はもうすぐ学校を卒業するから、人生を滅茶苦茶にしたら、自らのことを一生許さないだろう。不肖の弟を可愛がってくれてはいるが、父に似て、とてつもなく苛烈な面がある。フィンレイ自身が、父から受け継ぎたいと思っていた美徳は、全て彼が持っていってしまった。別に今更羨ましいとは思わないが。
そう、もう何事も今更。結局のところ、いく場所はどこもない。ならばここにいるのが一番良いのではないかと、改めて思えてきた。
もう一発位なら付き合ってやっても良いかも、とむくむく頭をもたげて来た欲望に、けれど絶対に一発で終わらないだろうと警告が突っかかる。
どう転ぶかは神のみぞ知る。動く気配のない頭を油にべたつく手でそっと撫でてやりながら、フィンレイは相手の次の行動を辛抱強く待ち続けた。
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