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ヤヌスに捧げる高揚
ギリシャかローマで信仰されていた、背中合わせの顔を持つ神。つまりはああ言うものだとロッドは思っていた。己の頭の中には、全く異なる二つの人格が居座っている。
昔の失敗談はその場を和ませたり、警戒心を解くのに役立つが、流石に話せないネタもあった。小学生の頃、近所に住むご婦人が母とアパートの玄関で立ち話をしていた時の話。彼女が押してきた乳母車を覗き込めば、そこにはあどけない顔で大きな目を瞬かせる赤ん坊が。
ちょっと中庭でカートを押してあげてもいい? 子供の無邪気なお願いを断る大人はいない。意気揚々と、自分の胸位の高さにある持ち手を握りながら、ロッドは本気で思っていたのだ。こんなに可愛い生き物には生まれて初めて出会ったと。丸々した顔一杯に笑顔を広げ、こちらに手を伸ばしてくる姿を目にすれば、嫌が上にも心が温かくなった。
なのに、脳の別の部分は語りかける。これをひっくり返したら絶対面白い。ちょうどお誂え向きの場所もあるし。
住民の誰かが庭の隅に埋めた雪だるま型のプラスチック池は余り手入れがされておらず、緑色の藻が薄雲のように水中を漂っていた。その中へ向け、カートをそろそろと傾けている後ろ姿を目にした親達は、子供がうっかりはしゃぎ過ぎ、バランスを崩してしまったと思ったのだろう。ロッドはやんちゃだが優しい子だ。赤ん坊に池の中を見せてやろうとしたに違いない。
慌てて強い力で腕を掴まれ、思わず泣いてしまったのは後悔や恐怖故では更々なかった。もっとも、世間が期待するほどサイコなことを考えていた訳でも無い。大抵の子供は、自分のやりたいことをやらせて貰えないと機嫌を損ねるものだ。
夜間裁判所に引き出されることも覚悟していたが、警官はあっさりと檻の鍵を開けた。同房者の羨望の眼差しを浴びながら、ブタ箱を出て行くのは何と爽快なことだろう。
「運が良かったな。被害者は被害届を取り下げた」
「最初から誤解だったのさ」
「自分で酔って転んで酒場の床にぶつけたから鼻が潰れて、奥歯も折れた挙句片目に青痣を作ったそうだ。珍しい事故だと思うが、目撃していた警官もそう供述を変更した」
「暗かったから見間違えるのも仕方がない」
やたらと消毒薬の匂いがきついエレベーターへ乗り込んでから、その警官は初めて元被疑者に一瞥を投げかけた。同じ位の年頃で、ある一面では共通点を持つ(とロッドは彼と話し始めた瞬間に確信していた)目の前の男に、ロッドは悪印象を抱かなかった。だが、歯車が噛み合うことは永遠にないのだろう。権力の行使する側と行使される側の距離は、絶望的に隔たっている──肩が触れ合うような位置に立つと、その背中からは、日々の労働で蓄積された煤煙を思わせるもの、それと汗、2つの匂いが押し寄せてくる。
受付前のベンチに座っていたフィンレイには、出来る限り普段通りの口調で声をかけ、手を掲げてやる。
「お前にしては気が利いてるじゃないか。どんな手を使ったんだ」
伏せられていた目が持ち上がったのは一瞬だけで、すぐさま再び膝へと戻されてしまう。閉じることを忘れたように見開かれた目が、ああ、とかまあ、とか曖昧に粘つく独白と余りに乖離し過ぎている。
それでロッドは大まかなことを悟った訳だが、その場では指摘をしなかった。だから、フィンレイも、隠しきることが出来ると淡い希望を抱いたのかもしれない。警察を出るまでは平静なふりしようと、抑制する努力を続けていた。つまり側から見れば十分あからさまだった。ハンドルを握らせるのが不安だったので帰りはロッドが運転したが、それでもう、取り乱す事の出来る免罪符を与えられたと思い込んでしまったのだろう。モーテルの部屋へ戻った時には、惨憺たる有様だった。
「くそったれ、あのおまわり! よくも、よくも……殺してやる」
空き巣へ入る時、ガラスを割ろうと自分からパンチを叩きつけておいて、手が血だらけになったら痛い痛いと泣き喚く究極の間抜けの要領だ。
「よく鼻薬を嗅がせられるだけの手持ちがあったな」
「金だけで済む訳ないだろ!! あんたも最悪だ、あのアホみたいな顔……一緒にいたおまわり、何て言ったと思う?」
「俺にもお前位の子供が居るとかか」
「お前と同じくらいの歳の恋人がいるから、便宜を図ってやってもいいって!! 喉が痛い、あんたよりずっとデカかった。あり得ない、カポジ肉腫になるかも!!」
一気にそう喚き立てたのは、余り息継ぎを挟めば、呼吸をするたび崩落が大きくなるからだろう。スニーカーを脱ぎ捨てようと跳ね回る動作は、怒りと胃の内容物を散々攪拌して、大混乱へ導いたに違いない。汚れくたびれた靴が床の上で動きを止めたのと入れ替わりに、フィンレイは転がるようにしてバスルームへと飛び込んだ。盛大にえずいている音は、芝居掛かったものから本物の嘔吐へと変わる。
きっかり5分待ってから、ロッドはこの客室の中で唯一照明のついた場所へ足を踏み入れた。便器を抱える為精一杯丸められた後ろ姿は、もうどこへも身を潜められない背丈となったにも関わらず、かくれんぼを続けたがっている子供を思わせる。
差し出されたトイレットペーパーは何度千切って顔を擦っても破れる。とうとう鼻水を完璧に拭いきることが出来ないまま、フィンレイはよろよろと立ち上がった。そのまま立ちはだかる存在を突き飛ばすようにして肩でぶつかり、すれ違う体躯に、ロッドは言った。
「まあとにかく……助かったよ。感謝してる」
フィンレイの口から、予測していた罵詈雑言が戻ってくることはない。靴を拾い上げると、そのまま両手にぶら下げたままドアへと向かう。
「帰る」
「何だって」
「もううんざりだ。家に帰るよ。2ヶ月後には親父も仮釈放らしいし、保証人のサインをして貰える」
「待てって、フィン」
足早に追いかければ相手の歩調も早まると分かっていたのに、ロッドは殆ど駆け出さんばかりの勢いになっていた。相手がドアノブへ飛びつくすんでのところで羽交い締めにし、部屋の奥へと引きずり戻す。
フィンレイは本気で暴れた。うっかり殴ってしまったかと思った。だが顎を染める青痣は、以前にトラブルへ巻き込まれた時、袖無しのネルシャツを身につけたトラック運転手へつけられたものだと思い出す──今回はたまたまロッドが厄介事を引き受けたが、奴が揉め事へ飛び込むことだって、0だとはお世辞にも言えない。
素足で床を蹴りまくり、しゃにむに身を捩る力強さは一人前の大人と呼ぶにふさわしい。本当に一発かましてやって、大人しくさせても良いのかも知れない。脳裏を掠めた言葉は声に出ていたらしく、フィンレイは鼓膜を破裂させる勢いで金切り声を張り上げた。
「やってみろよ!! あのヒルビリーにしてみせたみたいに!!」
「馬鹿だな、お前を傷付けたいなんて、この俺が思うはずないだろう」
それは間違いなく本心だった。腕の中の厄介な存在を黙らせる為に、ありとあらゆる手段を思いつき、実行出来るのと同じく。
「俺はお前の名付け親なんだから」
この大義名分を、これまで何度都合良く掲げてきた事だろう。
「なら俺の為になることしてくれれば良いじゃないか! あんたなんかどうせ、何にも出来ない、はみ出し者のクズだ!!」
フィンレイが余りに至極真っ当なことを訴えるので、思わずロッドは歓声を上げてしまった。トマトよりも真っ赤に染まった横顔から、幼子の癇癪を想起する。
大事に、まるで手の中に入れた小鳥の如く扱ってやらなきゃならない。何せ今や彼は立派にやることをやり遂げられる相棒だし、窮地を救ってくれた。これまで作ったことのなかった、唯一無二の存在だ。そう理解しているのに、強烈な勃起を止めることが出来なかった。それが益々フィンレイの憤りを煽り立てたらしい、当然の話ながら。
興奮して相当荒っぽく抱いたし、フィンレイも殴ったり蹴飛ばしたり噛み付いたり引っ掻いたり、派手に抵抗したが、最後は泣いて悶えていた。或いは悶えて泣いていたと言う方が正しいのかも知れない。余りにも悲しげな嗚咽を漏らすものだから、まるで赤ん坊とファックしているような気分になった。
あの赤ん坊は、ロッドがどれだけベビーカーを傾けても一向に泣かず、ずっとニコニコ笑顔を振りまいていた。正直言って、面白さは半減していた。わざわざ親に制されずとも、手を止めていたかも知れない。きっと止めていた。
「お前は良くやったよ。本当に立派だ、誇らしい。さすが俺の名付け子だ。俺の……」
どれだけ甘くそう吹き込んでも、しゃくり上げは収まる気配がない。不規則に吐きつられる息の臭いは精液に酸っぱい吐瀉物が混じり、控えめに言って酷いものだった。
だがまだ最悪ではない。このガキとぶつかり合うたび、深淵の底は更新されて深くなっていく。もう這い上がって来れなくなる所まで到達するのは、一体いつのことなのだろう。
暫くは無理そうだと落胆すら覚えながら、ロッドは柔らかい肉の中へ腰を乱暴に叩きつけた。
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