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エピローグ 少しだけ前進

位置について。よーい……」  ピッ、と笛が鳴り、子供たちがおぼつかない足取りで走り出す。10mほどのコースだが、ひとりが途中で立ち止まって泣き出した。朝陽は真剣な表情で駆け抜けて、ゴールで待っていた佐希子の胸に飛び込んだ。  水澤はビデオカメラを回しながらふたりの姿を目で追っていた。隣で応援している同い年くらいの男がびっくりするほどの大声を張り上げている。自分もこれくらい応援しなくてはいけないのかなと水澤は困惑した。朝陽が出る種目はあといくつだろう。 「パパ!」  佐希子に手を引かれて、手作りの金メダルを首に掛けた朝陽が歩いてきた。 「パパ、あさひ、いちばんだよ!」 「頑張ったね」  水澤はもう2歳になった息子を抱き上げた。  10月にしては汗ばむほどの陽気だが、突き抜けるように高い空は秋のそれである。佐希子に誘われて水澤は朝陽の通う保育園の運動会に参加した。元夫が行って良いのかと人目が気になったが、佐希子は「仲良しのママ2人にしか話してないし、みんなドライだから大丈夫よ」とさばさばしたものだった。確かに、みな我が子にカメラを向けるのに夢中で、結婚指輪をしていない男に興味を示すわけもなかった。  園庭の真ん中では、年上のクラスの表現活動をやっている。鮮やかに色分けされた大きなまるい布の端を持った子供たちが、輪になって整然と歩いている。 「変わったダンスだね」 「パラバルーンっていうんだって」  水澤は回転する色の列をぼんやりと眺めていた。子供たちの表情は真剣そのものだ。水澤の腕に抱かれてきょろきょろしている朝陽も、数年後にはあんなにしっかりするのだろうかと不思議な気分になった。 「次の次はまたうめ組だわ」  プログラムを見ながら佐希子が言った。 「うめ組って朝陽のクラス?」 「そう」 「渋い名前だね」 「この保育園、けっこう歴史があるから……あ、親子競技だわ」 「なにそれ?」 「親が参加するのよ。おんぶdeリレーだって」  内容が容易に想像できる競技名だ。 「朝陽、パパとママどっちにおんぶしてもらいたい?」  佐希子が訊ねる。当然、ママを選ぶだろうと水澤は思っていた。定期的に会っているとはいえ、普通の家庭のような父子関係は築けていないだろう。  朝陽はほとんど迷うことなく水澤に顔を向けた。 「パパ!」 「えっ……」 「パパがいい!」  佐希子は笑い出した。 「俺でいいの?」 「いいじゃない。あたしこういうの苦手だし、よろしく」  朝陽に手を引かれ、水澤は困惑しながら集合場所に歩いていった。  金メダルをふたつ首から下げて、朝陽はご機嫌である。水澤は朝陽を背負って走り、どうにか一等賞を得たのだが、少しひねったのか足首になんとなく痛みがある。 「お疲れさま」 「明日は筋肉痛だろうなあ……」  運動会は正午過ぎには終わってしまった。クラスメイトらしき家族に手を振って帰路につく。朝陽を真ん中に手を繋いで歩いていると、仲の良い家族にしか見えないだろうなと水澤は思った。 「ママー、おなかすいた!」  朝陽が大きな声を上げる。まだまだ元気そうだ。 「そうだね、いつもはもう給食食べてお昼寝してる時間だめもんね……ヒロくん、今日はこれから予定あるの?」  佐希子が訊ねた。空いていると答えれば、食事に誘われるのだろう。3人でファミレスも悪くは無い。  しかし、水澤は断ることにした。 「ごめん、今日は予定があって」 「あ、そうなの」  佐希子は気分を害したという様子もなく、あっさりと引き下がった。 「じゃ、朝陽はママとハンバーガー食べに行こっか」 「えー、パパは?」 「パパはお仕事なんだって」 「つまんないー」  朝陽は口をへの字に曲げて立ち止まった。泣きそうな目をしている。 「もー、朝陽ってば……こうなると大変なのよね」  佐希子はため息をつく。水澤はしゃがんで息子の目を見た。 「朝陽、今度パパとママと水族館行こう。大きなサメがいるよ」 「えっ、ホント?」 「あら、パパ朝陽がサメ好きなの覚えてたのね。じゃあ、今日はバイバイだけど、今度はお出かけしようね」 「うん、パパ、バイバイ!」  水澤と佐希子は顔を見合わせて苦笑した。  といってもすぐにバイバイしたわけではなく、しばらく朝陽のとりとめのないお喋りを聞きながら歩き、ハンバーガーショップの店先でようやくふたりと別れた。駅は目と鼻の先で、水澤は歩みを早めた。 「水澤さん」  背後から声をかけられぎょっとして振り返ると、駅で待ち合わせをしていたはずの男の笑顔があった。 「小野塚……どうしたんだ」 「いやー、待ち合わせの時間の間違えて1時間も早く着いちゃったんですよ。ヒマなんでウロウロしてたら運動会やってる保育園があったんで、つい覗いちゃいました」 「それは止めとけ。不審者扱いされる」 「えー、世知辛い世の中だなあ」  水澤は肩をすくめた。 「水澤さん、しっかりパパやってたじゃないですか」 「……見てたのか」  多分、保育園の園庭で水澤の姿を見つけて、ずっと後をつけていたのだろう。おとなしく駅前の喫茶店で時間を潰していればいいのに。 「水澤さんに会えるの久しぶりだから、つい」  謹慎が解けた小野塚はあっさりと職場復帰し、多少の陰口はあるのだろうが新しい部長の下で仕事をこなしている。  水澤も支社での仕事がすっかり板につき、新しいプロジェクトチームの一員としてだいぶ忙しくなった。  そして、ふたりはお互いの家を行き来して、何度も夜を共にしている。水澤ははじめのうちこそ困惑していて、小野塚に半ば強引に押し掛けられるような感じだったが、受け入れることにもうすっかり慣れてしまった。  しかし水澤は、小野塚に自分の気持ちをはっきりとは伝えていない。無理強いしない小野塚に体も心も甘えて過ごしていた。  ここ半月ほどはお互いに仕事が忙しくて、連絡はメッセージのやり取りだけだった。ようやくまともに休日が過ごせそうなので、運動会のあとでランチをしようと約束したのである。せっかく水澤さんが都内に行くのだからと、小野塚までわざわざ出てくる形になった。 「せっかくの休みなのに、飯くらいでこんなに遠出しなくても」 「せっかくの休みだから、でしょ」  小野塚はスマートフォンを水澤に見せた。 「ほら、ここ。隣の駅だけど、ちょっと気になるラーメン屋なんです」 「この時間だと並んでないか?」 「ラーメンだから回転早いですよ」 「……ま、いいけど」  駅につくと構内に人が溢れている。電光掲示板を見ると、運転見合わせの文字が浮かんでいた。 「あー、車両故障だって。しばらくかかりそうだな……どうする?」  水澤は小野塚を見た。 「一駅くらいなら俺は歩けますよ」 「……それが、さっき足首をちょっとひねっちゃってさ。あまり歩きたくないんだ」 「えー、早く言ってくださいよ。じゃ、その辺の空いてる店に入りましょう」 「せっかく来て貰ったのになあ」 「気にしないで」  ふたりはごった返す駅を出た。小野塚がさっきよりゆっくり歩いてくれているのがわかった。  水澤は思い切って口にしてみた。 「君が隣にいるのが普通になった気がする」 「え」  小野塚は手で口を押さえた。 「凄く嬉しい言葉なんですけど……なんでふたりきりのときに言ってくれないかなあ。抱き締められないじゃないですか」 「そんなことされたら照れるから、だよ」  水澤は小野塚の胸に身を預けている自分を想像した。もうなんどもしていることなのに、やはり気恥ずかしかった。  fin.

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