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1. 何事もない日々
ずっと待ってた。
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夜9時。
その日のバイトを終えて、ようやく家についた。
コーポ竹丸2階の一番奥の206号室が自分の部屋だ。
鍵を開ける前に、扉を数度ノックする。
一人暮らしの住まいだ。返事がくる訳が無いのは分かっていたが、いつからかこうすることが癖になっていた。
いきなり無遠慮に部屋を開けてしまったせいで、部屋の中にいるかもしれない“誰かさん”と鉢合わせになってしまうのは避けたい。
一呼吸おき、中から何も物音がしないことを確認してから扉を開ける。
「ただいま」
案の定、返事は無かった。
玄関周りには変化は見られない。続けて、廊下、台所、洗面所を周ってみたが特に変化は無さそうだ。
もしかしたら、今日は「来ていない日」なのかもしれない。それは本来ならば安心するべきことなのに、ほんの少しだけ残念に思っている自分がいて、何だかおかしくなった。
背負いっぱなしのリュックを下ろそうと居間に行ったところで、テーブルの上のビニール袋が目に止まる。これは僕が置いた物ではない。あの人が置いていった物だ。
こみ上げる嬉しさを忍びつつ、コンビニのロゴが入ったビニール袋をのぞいてみる。
その中には、煮物のタッパー・お菓子・などの食品と一緒に、メモ用紙が一枚入っていた。
『お帰り。お疲れ』
「……ただいま」
声はあの人にも届いているのだろうか。
いつものように“誰かさん”からもらったメモ用紙が汚れてしまわないように取り出して、小物入れにしまい込む。小物入れはずいぶん窮屈になってきていて、フタを閉めるときは中身が出ないように注意する必要がある。
そろそろ、もう一回り大きい箱を買ったほうが良いかもしれない。
『誰かさん』の字は、パソコンで打ち出した明朝体をそのまま手書きにしたみたいに達筆で機械的だけれど、書いてある内容は温かくてやわらかい。
手紙の山を見ていると、自然と顔がほころんでしまう。『誰かさん』の存在を感じてから間もない頃、毎日思い悩んで怯えていたのが嘘みたいだ。
僕はここで見知らぬ『誰かさん』と一緒に一人暮らしをしている。
***
最初に違和感を覚えたのは、ここに住み始めて半年ぐらい経った時だ。
冷蔵庫に戻し忘れたはずの牛乳が、家に帰るとちゃんと冷やされていたり、付けっぱなしで出かけたはずのテレビが消されていたり、無くしたはずの自転車の鍵が玄関で見つかったり、買い忘れていたと思っていたシャンプーの詰め替え液が洗面台に置いてあったり。
自分が無意識に行動していたのか、それとも、まるで他の誰かが自分を助けてくれたような。
そんなあいまいで小さな幸運が立て続けに起きた。
初めのうちは気のせいかと思っていたが、似たようなことが週に4度も5度も起きると、さすがに疑問が湧いてくる。
家の中に誰かが入り込んでいると確信を得たのは、久しぶりに晴れた梅雨のこと。
溜め込んでいた洗濯物を干して出かけたら、にわか雨が降った。早く取り込まなければ、コインランドリーで洗濯し直す羽目になる。あそこまで大荷物を抱えて行くのは面倒だし、給料日前に余計な出費をしたくない。
大学から慌てて帰ってきた僕は、目を丸くした。
ずぶ濡れになっているべき洗濯物が、無造作にベッドの上に置かれている。
いくら何でもこれはおかしい。
本当ならそこですぐ然るべき所に相談するべきだったのだろうが、その時の僕は混乱していてとにかく頭が回らなかった。
恐る恐る部屋を見回ったが、特に荒らされたところや、奪われたものは無い。
あえて言うならばお気に入りのハンカチが1枚見当たらなかったが、自分がどこかに忘れてきてしまった可能性も捨てきれないし、盗むほどの価値があるとは思えなかった。
結局その日は、朝が来るまでファミレスのドリンクバーでしのいだことを覚えている。
初めは、姿の見えない誰かが自分の部屋に居るのだと思うと、ひたすらに怖かった。
相談は誰にもできない。
音信不通の両親は除外するとして、世話になっている叔母達に迷惑を掛ける訳には行かない。かといって友人達に話して、引かれたり、余計な心配をかけたりするのは嫌だ。
それに、明確な証拠や被害も無いのに、こんなことを話したところで誰が信じてくれるのだろうという思いもあった。
アルバイトのシフトを増やしてもらったり、大学の図書館に入り浸ったり、あるいは叔母や友人の部屋に泊まりに行ったり、なるべく部屋から離れるようにはしたが、それでも部屋に戻らなければいけない時間はやってくる。
逃げては部屋に戻り、逃げては部屋に戻り……そんな日々を繰り返した結果、僕は考えることをやめた。
別に何かが壊されたりだとか、盗まれたりだとか被害があったわけじゃない。
僕が何も無かったことにすれば、平穏な暮らしは変わらないままだ。
それに、なんだかんだいって自分は『誰かさん』にお世話になっている。今更出ていかれたら困ると思ってしまうぐらいには、その存在は当たり前になっていた。
一年も経てば交流する機会もそれとなく増え、今では晩御飯のおかずを交換し合ったり、おすすめの本や映画のDVDを貸し合ったりする仲になっていた。
ただ、置き手紙を初めて僕から送り返した時に『いつもありがとうございます』と書いたら、『もう少し警戒心を持った方がいい』と返事が来たときは、ずっこけたくなった。
一番の不審者である『誰かさん』にだけは言われたくない。
***
水曜日は週の中で一番忙しい日だ。
大学の授業が1時間目から5限目までぎっちり詰まっているし、その曜日に入れる人が他に中々いないため、いつもバイトを入れている。
『誰かさん』から貰ったパンを朝食に、急いで朝自宅を済ませて部屋を出ると、階段下に見知った人を見つけた。
高い背を丸めて、黒いゴミ袋を持って眠たそうに歩いている。
「おはようございます!円山さん!」
下に降りるまで我慢しきれず二階から呼びかけると、円山さんはぺこりと会釈して返してくれた。
階段をカンカンと鳴らして、一階まで駆け足で向かう。コーポを出てすぐ左のゴミ捨て場の前に、円山さんは立っていた。
「……おはよう。直角くん、今日も元気だね」
目元が隠れるまで伸ばした前髪を弄りながら、円山さんが呟く。
寝て起きてそのまま出てきたのか、寝ぐせが
円山さんは、隣の205号室にひと月ほど前に引っ越してきた人だ。
僕よりも頭1つ分はありそうな身長に、くっきりとした端正な顔立ちをしている。
もっとも、猫背と髪型のおかげで、それらを実感する機会はあまり無い。
年齢は僕の2~3個上ぐらいの、職業不詳のお隣さんだ。
こんな風に話すようになったのは、円山さんが越してきてすぐのこと。
アパートの駐輪場の、僕の自転車の前で立ち尽くしていた円山さんに、声を掛けたのがきっかけだ。
突然話しかけられた円山さんは驚きながらもぽつぽつと事情を教えてくれた。聞けば、車の鍵を無くしてしまって途方に暮れていたらしい。
鍵は朝のゴミ出しの際に落とした可能性が高いが、ゴミ捨て場では見つけられず、そこまでの通り道にある駐輪場も、ダメ元で確認していたのだという。
捨てられた子犬のようにしゅんとした姿に胸が傷んで、気がつけば鍵探しを手伝っていた。
結局、円山さんの車の鍵は、彼の上着のポケットにあったというオチだったのだが、それ以来円山さんのことが気にかかって、ついちょっかいをかけてしまっている。
円山さんはふわふわとしていて掴みどころがなく、なんだか放っておけない人だ。その反面、年下かつただの隣人の僕に話しかけられても邪険にしない、優しいお兄さんでもある。
「……直角くんは、今日も学校だよね?」
「はい!学校とアルバイトです!円山さんは?」
「……俺は、ゴミ出しして、それから、家で仕事」
円山さんが手に持っていたゴミ袋をちらりと見る。
持ち手が千切れてしまいそうなほど入っていたのは、トニックウォーターの空き瓶だ。
半透明の緑のビンが擦れ合い、がちゃりと音を立てる。
そういえば、今日はビン・缶の回収日だった。
捨てなければと思っていたのに、ゴミ袋をベランダに忘れてしまっていた。
部屋まで取りに戻るのはちょっと面倒だし、そんなことをしていれば大学に着くのが遅刻ぎりぎりになる。
あいにく一時間目の教授は出席には厳しいことで有名な人なので、少しでも遅れるわけにはいかない。
どうしたものかと考えていると、円山さんがこてんと首を傾げた。
「……直角くんは、ゴミ、捨てなくていいの?」
「うーん……持ってくるの忘れてました」
「……そっか。取りに、戻る?」
「いえ、諦めちゃいます。そんなに量は無いので、来週にしようかな」
「……そう」
「はい。それじゃあ、行ってきますね!」
「……うん、行ってらっしゃい」
円山さんに手を振り、駐輪場まで走る。
自転車のペダルに足をかけて振り返ると、円山さんがひらひらと手を振っていた。
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