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2. 夜の常連客
アルバイト先の喫茶店は、付近のビルで働くサラリーマンや、ご近所さんを中心に、長いあいだ繁盛している老舗のお店だ。高校卒業の際に叔母の紹介で雇われて、以来ずっと働かせてもらっている。
店が裏通りにあるからか、こぢんまりとしていて静かな雰囲気に尻込みしてしまうからか、大学の近くにあるにも関わらず、学生の客は意外にも少ない。
それはつまり学内の知り合いと遭遇する可能性が低いということでもあり、僕にとっては好都合だった。働く姿を友達に見られるのは気恥ずかしいし、居心地の良いこの店を独り占めしたい気持ちもあったから。
閉店間際。常連のご夫婦を見送り、お客さんが0になった店内で掃き掃除を行っていると、ふいにドアベルが鳴った。マスターの目配せを受けて、急ぎ足で店の入口に向かう。
扉の外に見えたのは、予想していた通りの人だった。
びしっとした黒スーツに、青い文字盤の高そうな腕時計が今日もきまっている。
「いらっしゃいませ。回さん!」
「ああ。まだやってるか」
「ええ。ご注文は」
「いつもの」
「かしこまりました。じいちゃーん、ブレンドコーヒーとホットサンド」
「はいよ」
マスター、通称じいちゃんが僕に返事をしつつ手を動かす。というか、正確には、僕が注文を聞くよりも前にもうコーヒーを淹れ始めていた。
回さんが何を頼むかなんて、聞かなくても分かりきっているんだろう。
回(まがり)さん。
無口で無愛想で眼光の鋭い、オールバックと頬の傷が特徴的な男性だ。年は三十代ぐらいに見える。
回さんは決まって、週に一度、閉店間際に店を訪れる。それで大抵、店の一番奥の席に座って、いつものメニューを頼み、煙草を一本吸うと、マスターと話をして帰っていく。
マスターとはどうやら旧知の仲らしく、閉店後、僕が退勤した後も、店に残って二人で何やら話していることが時々ある。
初めは回さんの迫力に圧されて接客もままならなかったけれど、今では差し障りなく会話ができるぐらいには、回さんに慣れてきていた。
「回さん、新聞読まれますか?」
「ああ」
彼がよく読んでいる経済新聞を手渡せば、回さんは片手でネクタイを緩めながら、空いている方の手で新聞を受け取った。
肘をついて気だるげに新聞をめくる様子が、いかにも大人の男性という感じでサマになっている。
「なんだ」
僕の視線が煩わしかったらしく、ぎろりと睨まれた。いや、正確には、ただ見つめ返されただけなんだろう。回さんは壊滅的に人相が悪いから、怒っていない時も怒っているように見える。そして、めったなことでは怒らない。
それに気がついたのはつい最近のことだ。
きっかけはお盆を持つ手を滑らせて回さんの服にお冷やをこぼしてしまったこと。僕は頭を下げながら、慰謝料だなんだと最悪の事態を想定していたが、回さんは顔色一つ変えず「構わない」の一言で終わらせてしまった。
実はものすごく器の大きな人なのかもしれない。
「……いえ。申し訳ありません。難しそうな内容だと思って」
「そうか」
「はい」
会話はいつものようにすぐ途切れ、コーヒーを用意する音とラジオだけが部屋に響く。
あんまりべらべらと話しかけても迷惑になるだけだろう。
特に何をするでもなく、ぼーっとラジオに耳を傾けていると「直角くん。できたよ。持っていって」とじいちゃんから声がかけられた。
「あ。はーい」
トレイを受け取り、回さんのテーブルに運ぶ。
回さんはトレイをちらりと見ると、まずコーヒーに口をつけた。それから、がぶりとホットサンドに食らいつく。はみ出そうになった卵を器用に頬張り、ペーパーナプキンで指を拭く。数度咀嚼したかと思えば、ふたたび口を開き――
「や、いい食いっぷりだね」
じいちゃんが僕の心を代弁するかのように言った。
「どうも」
対する回さんは短く返事をして食事を続ける。
じいちゃんはもはや仕事モードではなくなったのか、カウンターから出てくると、回さんの近くの席に腰を下ろした。
「元気だったかい?」
「まあ、ぼちぼちです」
「ずいぶん久しぶりだね」
「……最近仕事がごたついてたもんで」
「そうか。最近暑かったろう。バテてないか?」
「ええ」
「ああ、そうだ。ホットサンドの新作があるから食べてみてくれないか?蜂蜜チーズ味」
「どうも」
回さんはホットサンドにかぶりつきつつ、おざなりな相づちを打った。至極そっけない応答に、じいちゃんはやれやれと肩をすくめる。ただし、口元は笑っているので、回さんの冷たい反応を内心面白がっていそうではあった。
「どうだい?口に合うといいんだが」
「……甘ぇ」
「それだけかい。相変わらずつれないね。回さんは」
「すんません。こういう性分なもんで」
ホットサンドをあっという間に平らげた回さんは、ブレンドコーヒーを口に含む。
「ったく。涼しい顔しやがって。可愛くないねえ。かなたくんもそう思うだろ?」
いきなり話をこちらに振られて目が飛び出そうになった。回さんと雑談をするのは僕にはまだハードルが高い。誤魔化し笑いでお茶を濁そうとしたが、回さんとばちりと目が合い、何か言わなければという気にさせられた。当たり障りなく、かといってちょっとくすりとくるような返しは無いか。
「でも、回さん、ご飯を食べてる時は可愛いですよね。ハムスターみたいで、なんて……」
ちょっとした冗談のつもりで放ったのは、虎の尾を踏むに等しい一言だったらしい。回さんの目がかっ開き、手が止まったのを見て、思わず言葉が尻すぼみになる。ただ一人、じいちゃんだけが愉快そうに笑っていた。
「だとよ。褒めて貰えてよかったな、回さん」
「ちょっと!じいちゃん!申し訳ありません、失礼なことを言いました」
回さんはむせながら、半分ほど残っていたお冷やを一気飲みする。すかさず空いたコップにお冷やを注ぎつつもう一度謝ってみたのだが、ぷいとそっぽを向かれてしまった。回さんは僕の声が聞こえていないみたいに、肘をついて店の外を眺めている。
いよいよ機嫌を損ねてしまったのではないか。
冷や汗をかきつつ、回さんの後ろ姿を見ていると、一人だけ楽しそうなじいちゃんが助け舟を出してくれた。
「ははは、もう閉店だな。かなたくん、上がっていいよ」
――彼は照れてるだけだから気にしなくていい。悪かったね。
耳打ちされた言葉とじいちゃんの茶目っ気たっぷりの笑顔に多少は励まされた。回さんと付き合いの長いじいちゃんが言うのだから、本当に問題ないということだろう。そうとなればこれ以上店にも居づらいので、さっさとお暇することに決めた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。お先に失礼します」
ボールペンをエプロンのポケットにしまいつつロッカールームに向かう。壁時計はもう21時半の辺りを指していた。……もう少し夜が深くなると、”彼ら”との遭遇率が上がるから急いだほうが良さそうだ。"彼ら"は大抵夜行性で、人気の少ない道に現れやすい。僕がアルバイトの時によく使う、公園通りの道なんてまさにそれだ。
春先に出くわした、素肌にトレンチコートをまとった男を思い出してげんなりする。そういえば、彼も公園前の道路に佇んでいたのだった。
やっかいな記憶を打ち消すように、ばんとロッカーの戸を閉める。
身支度を済ませて「お疲れ様です」と声をかければ、じいちゃんはひらひらと手を振ってくれた。一方、回さんの返事は案の定特に無かったが、これに関してはいつもそうなので気にしない。
店の入り口のドアノブに手をかけ、街路灯にぼんやりと照らされた道路を見る。道はひっそりと静まり返っていて、目立った人影はなかった。
ああもう、いかにも出そうな雰囲気だ。お化けではなくて、”彼ら”が。
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