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第3話

 弓を引いている時ほど世界から音が消えたと感じることはない。自分の呼吸の音と、キリキリと擦れる独特な音しか聞こえなくなる。自分が思ったタイミングで全てを離して、矢が的に届いた時の鋭い音がした瞬間、俺は初めて意識的に息を吐く事ができる。  弓道は中学の頃からやっていたから、高校に入っても成り行きで続ける事にした。この高校の弓道部は人数こそ少ないが、結構本格的にやっているらしく、部活は毎日のようにあった。そして俺は一応、経験者という事で、既に先輩のメニューに加わっている。ついでに大会への推薦もされている。 「大門くん、お疲れ様。はい、タオル」 「ああ……どうも」 「今日もいい感じだね。やっぱり選抜入ると思うよ」 「どうも。……恐れ多いです」 「本当だよ! 自信持って!」  タオルで汗をぬぐいつつ、先輩には精一杯の愛想笑いを返しておく。本当は、目立たずそこそこの位置でこそこそとやっていきたいのだが、弓道部は女子の割合の方が多いため、なんというか……良く言えば気が利く人が多くて、悪く言うと目敏い人が多い。気がする。  俺が物珍しい男の後輩だからだろうか、俺の周りには必ずと言っていいほど色んな人がやってくる。おまけに経験者だから、同級生の女子からは、効果的な基礎練を教えて、などと言われる始末だ。ぶっちゃけ全部面倒だけど、女社会ってこういうものなんだろう。男の先輩も何やら肩身が狭そうにしていた。  俺は友矢みたいに、初めて会った人と誰とでも秒で仲良くなるなんて無理だ。質問されても、モソモソ答える事しかできない。それでもみんな根気強く俺に話しかけたり世話を焼いたりしてくれるから、優しいというか何というか。  友矢もそういう、アン○ンマンみたいな事をやるフシがある。そして俺は一番近くでそんな友矢を見ているからこそ、そういう優しさは全部拾って受け取ってあげたいって、思ってるんだけど。やっぱり俺に人との会話は難しい。  こういう時、友矢はなんて返してたかなぁ、なんて、ぼんやり考えながらグラウンドの奥を見る。友矢はテニス部だから、グラウンドよりさらに奥のコートに居るはずだ。ここからじゃ声すら聞こえないけど、きっと今も元気よくコートを走り回ってんだろうなぁ。  友矢の試合、また見に行きたいな。ていうかもう恋人なんだから、それくらいの権限はもう既に俺のものだよな。普通に。うわ、それは素直に嬉しい。すげー楽しみかも……  その瞬間、すぐ近くのグラウンドからなんか悲鳴が聞こえた。よく見たら女子のグループが数人、弓道場付近に溜まっていて、こちらを見ながらヒソヒソ話している。  ……やべ、ニヤけてたの見られたかな。  そんな感じで、もはや関係を進めるというより既成事実にニヤニヤするという、大変に浮かれポンチをしていた俺だが、その部活関連が、思ったよりも忙しくなってしまった。俺だけ。  やっぱり俺は大会の選抜メンバーに選ばれてしまったのだ。一年の代表みたいな感じになっちまったし、やるからには勝ちたいし、先輩に迷惑をかける訳にもいかない。そのため、シンプルに練習量を増やすことになった。イコール、友矢と一緒に登下校することが、できなくなって、しまった……  朝早く学校に行って自主練、部活が終わった後も自主練。友矢はもともと寝汚い方だから、俺のクソ早起きに付き合わせる訳にもいかない。現にソレを伝えた時は「わかった! 頑張れ!」って笑顔で送り出されてしまった。  あまりにもアッサリと朝と放課後の時間が無くなり、俺はちょっと、いやかなりショックだ。寂しい。しかし友矢はあまりにもいつも通りで、何なら元気に応援してくれる。それはそれで嬉しいけど、少しくらいは寂しいとか思ってくんねーかなって、俺はちょっと……いや、かなり期待してたんだけどな。  やっぱ無いか。そういうアレ。  だったら、応援してくれる通りの結果を出すしかない。という訳で、心を切り替えた俺は部活をメチャクチャ頑張っていた。弓を引くときだけは無心になれるから、精神統一も兼ねて頑張った。大会まで残り一週間を切っている。もう無我夢中だ。  その日、中心を射る感覚を掴みたくて夢中になっていたら、的が見え辛いことに気づいた。気づくと付近に人気はなく、辺りはすっかり陽が落ちていたのだ。 「お疲れ様。気合い入ってたね」 「あ……はい」  弓道場に残っていたのは、俺と、記録を書いている部長の二人だけらしい。部長は鍵閉めの担当でもあるから、どうやら俺の自主練終わりをずっと待っていたのだろう。……まずい。  この部長もア○パンマン……いや、女子だからメロンパンかな。とにかくそういう人種だ。いつも俺に気を遣ってくれる。だから今日だって、俺の練習を何も言わずに見守ってくれていたのだ。 「すいません、部長、俺、すぐ片付けてきます」 「ううん。大丈夫。……待ってるから」  ぽつりと、静かに落とすような部長の言葉に、俺はふと足を止めた。というか、ソレが視界に入ってしまった。よりによってこのタイミングで……いや、でも、これはちゃんと言わなきゃダメだ。  俺は覚悟を決めて部長に歩み寄る。記録を書いていた部長の顔が上がって、首元から髪の毛がこぼれた。そして、俺としっかり目があった。 「あの、部長」 「……な、なに、大門くん」 「今日は、俺が鍵、やります」 「え、」 「すみません、どうしても今日中に矢を見ておきたくて……ほら、ここ。羽がもうダメかもしれません」 「あ、え、そ、そっか、そうだね」 「これ以上残ってると本当に暗くなりますし……明日、必ず部長よりも早く来ます……だから、お願いします」 「あの……どうしても、それ、今日やらないとだめ?」 「はい、明日もあるので」 「…………わかったわ」  部長は何故か小さくため息を吐くと、書いていた物をそそくさと片付け始めた。どうやら仕事中ではなく、本当に俺を待っていただけだったらしい。俺は正直言って冷や汗モノだ。どうしよう。大迷惑じゃないか。おい、こういう時はなんてフォローすればいいんだ、友矢……! 「……大門くん」 「はい」 「大会、がんばろうね! また明日!」  俺が心中で友矢に助けを求めている中、部長は微かに笑顔を見せて、すぐ部室から出て行ってしまった。ついに静かになった部屋で、俺はため息を一つ溢す。……なんだか疲れた。さっさと矢の調子を確認して、早いとこお家へ帰ろう。  全てが終わった時は、初夏とはいえ周りが見えないくらいの暗闇だった。俺はしっかり鍵を閉めてから、静まり返った校門へ続く道を歩く。  すると、その道中で不思議な灯りを見つけた。 「……ン?」  小さな灯りはスマホの画面のようだ。俺は羽虫のように、ついその方向へ吸い寄せられてしまう。そして、近くに寄った瞬間、気づいてしまった。そこに信じられない人間が居るではないか。 「と、ともや……!?」 「おー、おつかれー」  壁に寄りかかるようにして立っていたのは、大きなテニスバッグを背負った友矢だった。暗闇にたった一人、スマホを片手に立っている。 「は、え、なんで!?」 「腹減ったー。帰ろうぜ!」 「いや、帰る、けど」  びっくりして現実かどうか自らの身体で確認してしまった。しっかりほっぺたは痛い。一体、友矢はいつからここに居たのだろうか。部活が終わってから2時間は超えている気がする。え、本当にその間、ずっとここに居たのか!? 「別にいいだろ。待ってたって」  そんな俺の疑問を見抜いたかのように、小さな声で友矢が呟いた。今の一言、一体どんな顔をして言ったのだろうか。今、友矢の顔色が確認できないのは、友矢が変な方向を向いているからだ。  しかし俺は、なんだかぐぁーっとなってしまった。ジュッて沸騰したみたいに、何かが込み上げてきた。友矢、待ってたのか。本当に。2時間も。一人で…… 「うおっ!」  気づいたら、俺は思い切り友矢を抱きしめていた。丸い頭を抱きかかえるように、ガバッと。  あ、やべ。 「間違えた……」 「はぁ!?」 「いや、間違えてないけど……」  許可取る前に行動しちゃったし、このタイミングは、合っているのか。間違えてないか俺。はじめてのハグ、というより拘束。校門近くの草むらって何だ。俺ぜったい汗臭いじゃん。今は夏の草の匂いしかしないけど。本当に草の匂いがすごいけど。友矢の匂いというより、夏の草の匂いだぞ、これ。  心臓が、うるさい。 「……」  どれくらいの時間が経っていたのだろうか。腕の中で友矢が、もぞ、と動いたから、俺もソロソロと離れてゆく。あいにく暗闇でも目が慣れてしまったのはお互い様なのだろう。相変わらず友矢は変な方向を向いていて、ちょっとずるい。いや、俺の顔の方も見られなくて良かったけど。 「……帰るか」 「……おう」  自分がこんなに衝動的な行動をするとは思わなかった。素肌の、あったかくてちょっとじめっとした感じとか、汗の匂いと草の匂いが混ざった感じとか、なんか……すごかったな。言ってて何だけど、多分、ハグをするなら今より良い場所とかタイミングとか、あったよな。  あ、これ、告白する時も同じこと思ってた気がする。俺って奴は……  俺のせいで変な空気になっちゃったから、とりあえず無言で家に向かって歩いてゆく。心臓の鼓動はさっきからうるせえし、気を抜くとニヤケそうだけど、それでも足は動かした。  ふと、友矢の腕がぶつかった。横に並んで歩いているからよくある事だけど、俺は咄嗟にさっきの温もりを思い出してしまい、心臓が跳ねた。  すると、次の瞬間、俺の右手がぎゅっとあったかい温もりに包まれて、俺は今度こそ声が出るかと思った。いや、ちょっと出た。  これ、間違いなく、手、繋いでるだろ。  思わず横を見たら、俺の視線に気づいた友矢はニヤッと笑って、 「仕返し」  と言ってきた。  手汗が、すげえ。  恋人って、すげえ。  友矢は吹っ切れたのか何なのか、フッツーに今日あったことをベラベラ喋り出して、でもしっかり手は繋がれていて、俺は相槌のたびに口から心臓が飛び出るかと思った。  ちょっとぶつかりながら歩く感じとか、相変わらずどこからでも漂ってくる夏の草の匂いとか、溶けそうなくらい熱い右手とか。  俺は今この瞬間を、一生忘れられないのだと思う。  いつも通りだけどちょっと違う道のりを歩いて、気づいたらあっという間に分かれ道だった。手を繋いで歩くだけで、こんなに景色が違く見えるなんて知らなかったな。 「じゃ……また明日な」 「……ん」  もごもごと口を動かしていた友矢は、何か言いたそうだったが、珍しく言葉が出てこないらしい。するりと手のひらの力が抜けて、繋がれていた手が解かれる。名残惜しいけど、友矢とはまた明日も昼休みには会えるからな。今日はこの思い出を胸に…… 「イッ!」 「また明日!!」  友矢は何故か最後、俺に腹パンを食らわせて去っていった。え? なんで?  呆然と見送るしかない俺だったが、逆にこの痛みが現実を感じられて、なんかちょっと嬉しかった。いや、マゾじゃねえけど。  俺は今日、友矢とハグして手を繋いで帰った。あの友矢と、ハグして手を繋いだのだ。これは夢じゃない。夢じゃない!  その日の晩、俺は夢を見た。  今日の出来事をリプレイ再生するかのように、俺は友矢と手を繋いで一緒に帰っていた。あの別れ道に差し掛かった時、俺たちは同じように立ち止まった。また明日な、と言い合った後、夢の中の俺は友矢に向かって……キスをしていた。むぐむぐと動いていた友矢の口元へ、チュッて。 「あ……!!!!」  俺は思わず飛び起きた。頭を抱えて髪の毛を掻きむしって項垂れた。  そうか、その手があったか……っ!

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