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第19話一緒に
夕方が待ち遠しい。
そんなことを思う日がくるなんて、思いもよらなかった。
少し前まで、夕方が、夜が怖かった。
蒼也が来るんじゃあ……と思うと気が気じゃなかった。
だけど今日は違うんだ。
蒼也じゃなくて、奏さんと一緒の時間を過ごせる。
そう考えるだけで俺の心は弾み、講義内容は右から左にすり抜けていった。
夕方、六時過ぎ。
五限目までの講義を終えた俺は、医学部棟のカフェテラスの椅子で奏さんを待った。
耳にイヤホンをつけ、手袋をした手をその耳に当てて。
目を閉じて時間が経つのをひたすら待った。
待っているときの時間の経過は、とても遅く感じる。
音楽を聞いているけれど、全然曲は耳に入らない。
お昼の時、奏さんは後で話そう、と言った。
好きな相手、という言葉を、彼は確かに口にした。
人に好意を向けられる。
その事実がむず痒い。
俺なんかでいいんだろうか。
奏さんはアルファなのに。
俺なんかじゃなくって、オメガだっているだろう。
アルファとオメガには、運命の番がいるっていう話がある。魂が呼応し、惹かれあうらしい。
でも俺は、ベータだからそんなのないし、オメガにはなれない。
たとえアルファを好きになり、まかり間違って付き合うとかなっても、相手に運命の番が現れたら捨てられる、という恐怖を抱き続けることになる。
そんなの、耐えられるだろうか?
どうせ捨てられるなら、最初から好意なんて抱かない方がいいだろう。
でも……俺の中で芽生えつつあるこの想いを、抑えられることなんてできるだろうか。
ごちゃごちゃと考えていると、肩を叩かれた。
はっとして顔を上げると、奏さんが微笑んで手を振った。
「あ……」
俺は慌ててイヤホンをとり、ケースにしまう。
やばい俺、きっと今顔が紅いだろう。
「お待たせ」
という言葉に、俺は顔を伏せたまま首を横に振る。
「い、いいえ。そんな、待ってないですから」
「七時、過ぎちゃったけど大丈夫?」
え、嘘。
言われて始めて俺は時計を探し、きょろきょろと辺りを見回す。
カフェテリアにある時計は確かに七時を過ぎていた。
窓の外はすでに闇が支配している。
「あ……」
待っている時間は時が経つのは遅い、って思っていたのに。いろいろ考えていたらこんなに時間が経っていたのか。
「早く行こう」
と言い、奏さんは俺に手を差し出した。
その手を見て俺は一瞬迷い、ゆっくりと手を出してその手をぎゅっと、握りしめた。
何を食べたいか聞かれて俺は何も答えられず、奏さんの行きたいところでと言ったらパスタ屋に行くことになった。
奏さんの運転する車に乗り、店へと向かう。
この間の日曜日も乗せてもらってるけど……車の中でふたりきり、というのは内心落ち着かなかった。
俺はいつも背負ってるリュックを抱きしめて下を俯く。
俺、今どんな顔をしたらいいんだろうか。
「いつもイヤホンしてるけど、何聞いてるの?」
「え? あ……えーと……い、色々です。あんまりテレビ見ないから……動画で人気なやつとか適当に入れてます」
俯いたまま俺は答える。
実際、俺のスマホに入っている音楽はめちゃくちゃだ。
ボカロ曲にアニソン、はやりの曲やゲーム音楽も入っている。
「あ、あの……奏さん……は?」
「あぁ僕? 僕はクラシックが多いかな。その中でも激しめなやつ」
クラシックで激し目、という意味がよくわからず、俺は首を傾げて奏さんを見た。
俺の勝手なイメージだけど、クラシックって静かなものだと思っていた。
激しいのってなんだろう?
「そういう曲が、あるんですか?」
「わりとあるよ。『怒りの日』とか、『新世界より』とか」
「なんか、授業で聞いたことあるような……」
たぶん聞けばわかるんだろうけれど、俺はクラシックには全然明るくない。
そういえば、年末とかに聞く「第九」はわりと派手目な気はする。
「まあ、そこまでこだわりがあるわけじゃないけど」
そんな話をしているうちに店に着く。
平日の夜、と言う事もありそこまで店は混んでいなかった。
待つことなく席に案内され、注文を済ませることができた。
その間も俺の心は落ち着かない。
聞きたいのに、話したいのに。
さすがにこんなところで聞けない。
俺はさっきからまともに奏さんの顔を見ることができなかった。
テーブルを挟んで座っている今も、俺は奏さんの顔を正視できてない。
「緋彩」
名前を呼ばれ、思わず身体が震える。
「な、な、なんでしょうか」
顔をあげられないまま、俺は答えた。
「ずっと下、むいてるけど大丈夫? 何かあったの」
あった。
何かあり過ぎだ。
俺は目だけあげて奏さんの顔を見る。
彼はテーブルに両肘をつき、俺を不思議そうな顔をして見つめている。
やめてくれ。
俺を見つめるのは……やめてほしい。
いや、それは無茶か。
どうしたらいい、俺。
「その……あの……昼に話したこと……気になって」
絞り出すように言い、俺は口を閉ざした。
「昼に話したこと……あ。手の話の時の事?」
その言葉に、俺は小さく頷く。
好きな人の手、と、奏さんは確かに言った。
「あの……この間の事もそうですけど……本気なのかなって……思って」
「本気じゃなくちゃ、キスもしないし、好きな相手、とも言わないよ」
真面目な声音に、俺はゆっくりと顔を上げた。
奏さんの顔が視界に入る。
優しい笑みを浮かべて、彼は俺を見ている。
その顔に俺は恥ずかしくなり、また俯いてしまう。
自分から振ったとはいえ、この話題はレストランでする話じゃない。
俺は何を言ったらいいかわからず、俯いたまま固まってしまった。
「ねえ、緋彩。僕はこの力で親にも親しい人にも疎まれたんだよ。今まで恋人がいなかったわけじゃないけど……僕が触れると力が抜けて、ただの人になってしまうから嫌だっていって、フラれたこともあるし」
そ、そんなことでフラれる?
俺には信じられなかった。
あぁでも、この力はあるのが当たり前だから、力が吸い取られて凡人になるのなんて耐えられないか。
この町に住まないと、この不思議な力は身につかない。
そして、この町の住人の多くは心の中で自分たちは町の外の人たちと違う、という思いを持っている。
だから力を奪われるなって、恐怖でしかないんだろうな。俺は、こんな力無いほうがいいし、蒼也の力が俺に通じなくなったらどんなにいいかと思ってしまうけど。
「俺は……こんな力無いほうがいいから……奏さんに、俺の力が通じないのはすごく、嬉しいです」
「そう思ってくれる人がいるのが、僕には嬉しいんだよ」
この人はアルファなのに。
その力のせいで疎まれてきたとか信じられない。
アルファとオメガは人口の一パーセントもいないと言われている。
だから、特別なのに。
「俺なんかで……いいんですか」
絞り出す声で言うと、頭にそっと、手が触れる。
すっ……と力が抜けていくのがわかり、俺はゆっくりと顔を上げて奏さんを見た。
彼は微笑んで言った。
「僕が触れても、君は嫌な顔しないし、僕を必要としてくれるでしょ? 僕は君といたいって思ってるよ」
蒼也の暗い執着とは全然違う。
人に好意を向けられるのってこんなに恥ずかしくて……こんなにドキドキするものだったのか。その想いを向けられて、俺の中に嫌悪は全然ない。
蒼也とは、違うんだよな……
料理が運ばれてきて、匂いに空腹が刺激される。
ご飯を食べ終えたら俺は……家に帰らなくちゃいけないのか。
蒼也がいつ現れるかわからない、あの家に。
「奏、さん」
フォークを握りしめたまま、俺は奏さんを見つめ、震える声で名を呼んだ。
「何?」
「あの……この後……家、いっても、いいですか?」
「明日は水曜日だし、遅くなるから早めに家、帰ったほう……」
「お、俺は……もう少し一緒に……いたいんです」
語尾を強めて言うと、奏さんは一瞬驚いた顔をしたあと優しく微笑み、頷いた。
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