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第20話帰る? 帰らない?
家は安全な場所じゃない。
来ようと思えばいつでも蒼也はうちに来られる。
そう思うと、家にいて落ち着くことなんてなかった。
大学だってそうだ。
安心できるのは奏さんの前だけだ。
奏さんには、蒼也の力が通じない。その事実は大きい。
夕食の後、俺は奏さんの車で彼の家に向かう。
奏さんのマンションまで大十分少々くらいだろうか。
本当なら週末、奏さんの家に行くはずだったのに……大丈夫だろうか、おれ。
今日はバイトがないとこ、蒼也にバレているし、家の前で待っている可能性は十分にある。
この間の……土曜日のことを思うと帰るのが怖いのは事実だ。
もし蒼也が来ていたとして、遅くなれば諦めて帰る可能性に賭けたかった。
「家に、いたくないの?」
遠慮がちなその問いかけに、俺は頷く。
「はい……あの……家は、蒼也が……弟が来るかもしれないから」
「この間、彼が来たんだっけ」
「はい。俺が……ちゃんと抵抗していればあいつは俺に手を出せないのに」
言いながら、俺は手袋をした両手を見つめる。
この手袋を外すだけでいいんだ。蒼也の前で。
それはわかっているけれど、もし傷つけてしまったら……母親にどんな目に合わされるかわからないと言う恐怖はずっと俺の中にある。
「あれから……会ってはいないの」
「会ってないです。俺から連絡するから待て、ってこの間言ったんですけど……でも、まだあいつと向き合う勇気、俺にはないから」
向き合ってちゃんと話をして、俺への執着を辞めさせればいいんだけど……そんな簡単にはいかない。
「別に、焦らなくてもいいんじゃないかな」
車はマンションの駐車場に着き、エンジンが止まる。
「でも……」
呟き、俺は奏さんの方を向く。
彼もこちらを向いて、俺の手を取った。思わず手を引きそうになるけれど、耐えて俺は、震えながらその手をそっと、握り返した。
「僕の事、気にしてるの?」
それはそうだ。
俺は、奏さんに惹かれている。
でも蒼也とのことが何も解決していないのに、本当に俺は奏さんの事を好きになっていいんだろうか?
その問いかけの答えを俺は出せていない。
「俺は……蒼也とのこと何にも解決してないのに……いいのかなって思って」
すると奏さんは俺の腕を引っ張ると、顎に手を掛けて上向かせた。
暗闇の中で視線が絡む。
間近に奏さんの顔がある。
やばい、心臓が破裂しそうなくらい早く鼓動を繰り返している。
「僕は君が好きだよ。君と弟がどうであろうとその感情は変わらないよ。この間電話で話した時、僕がどれだけ感情を動かされたか。どうすれば僕は君を僕だけの物にできるのかずっと考えてるんだ」
改めて好き、と言われて顔中が紅くなるのを感じた。やばい、血液が沸騰しそうなほど恥ずかしい。
「かな、で、さ……」
「アルファは、独占欲が強いんだ。彼が君に手を出すのがわかっていて、今のまま君をあの場所に住まわせ続けるのは嫌で仕方ないんだよ」
静かな口調だけれど、その中に混じる感情に気が付いて俺は震えた。
奏さん、蒼也に嫉妬してる?
「家に連れて来たら帰したくなくなっちゃう。土曜日の夜、僕が帰った後弟が現れたんでしょ? しかも心を操られて抱かれて。それを思うと僕だって君を家には帰したくないんだ。でも、そうしたら僕は絶対に我慢できなくなる。君は人に触られるのが怖いでしょ? 僕は君を傷つけたくはないし、嫌われたくもないから。一緒にいたい想いはあるけど、でも傷つけるのはもっと嫌だ。ねえ、緋彩。それでも君は、このまま僕の部屋に来る?」
奏さんの顔が苦しげに歪む。
この人、こんな顔するんだ。
アルファの執着心の強さはよく知ってる。
だから蒼也は俺の拒絶を無視して、俺を抱き続けたんだから。
震える唇を、奏さんの人差し指がそっと撫でた。
「君相手じゃあ、抑制剤も効かないしね」
苦しげに笑い、奏さんは呟く。
発情したオメガを前にしたとき、アルファもその匂いに惹かれてしまうという。
望まない関係をもたないように、オメガに発情抑制剤があり、アルファにもそういう薬があるらしい。
蒼也も常時持ち歩いていた。
「俺には緋彩がいるのに、発情したオメガなんかに惑わされたくないから」
などと言って。
でも俺はオメガじゃない。だから俺相手に欲情したとして、それは薬がどうこうという問題じゃない、てことだろうか。
全く効かない、ということはないと思うけれど……いいやそれ以前に奏さんは、俺相手に欲情してるってことなのか……?
「彼が君を抱いた。僕と会ったあとに。それを思うとおかしくなりそうだよ。僕が君に触れるたびに、君は怯えた顔をするし今だって震えてる。強引なことはしたくないし、ゆっくりと関係を作って生きていと思うけど……君の弟がしていることを僕ができないのがもどかしいよ」
そうか、俺と、蒼也とのことがあるから奏さんは余計に俺を抱きたくなるって事か?
俺としてもゆっくり時間を掛けてトラウマを克服で来たら、と思っていた。
でも、蒼也は強引だ。俺に恋人ができたと言っても現れたんだから。
ならどうしたらいい。
「この間、蒼也は……奏さんが帰らなかったら姿を現さなかったって言っていて……」
震えながら言うと、唇が近づくほどに顔が近づく。
やばい、奏さんの目が怖い。
「なら余計に僕は君を帰せなくなる。早く緋彩にマーキングして、誰も近づけないようにしたいよ」
マーキングってつまり抱きたい、ってことだよな。それとも、うなじを噛みたい、ってことだろうか?
俺は、土曜日に蒼也が帰った後、奏さんの事を考えながらオナニーしたのを思い出す。
俺だって、奏さんが欲しい。
でも……それって奏さんに素肌を触られるってことだよな?
大丈夫だってわかっていても、不安が大きい。
「奏……さん……」
「……やっぱり帰った方がいいよ。無理強いはしたくないから」
そう言いながらも、奏さんは俺から離れようとはしなかった。
静かな車の中に、俺の鼓動が大きく響いている。
帰りたくない、と言ったのは俺だ。もし帰って蒼也がいたら……俺はどうなるのか容易に想像できる。
抵抗したとしても、きっと俺はあいつに力をつかったという嫌悪感に苛まれるだろう。
それならこのまま帰らないで奏さんと……考えるだけで身体の奥底が熱くなっていく。
セックスにいい想い出なんて何もない。
いつも蒼也は俺を強引に抱いてきたから。
でも奏さんなら……そんな記憶を上書きできるだろうか?
俺は意を決し、震えながら言った。
「俺は……それでも……奏さんと、一緒にいたい……です」
「緋彩……」
切ない声で俺の名を呼ぶと、奏さんはそっと、俺に口づけた。
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