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第5話
「いつもは、そうでもないんだけど。あんたがいると気がゆるむのかな」
「かわいい子犬じゃないですか。ふたりでやんちゃをしていることも聞いてますよ」
佐和紀の言葉に、真幸は微笑みを浮かべた。コーヒーカップを口元へ運ぶ。
佐和紀は髪を一振りして煙草を口にくわえた。ひとくち吸って答える。
「してないよ。そんなこと。ちょっとした遊びだ」
それを人は『やんちゃ』と呼ぶのだが、佐和紀は認めない。
「ケガには気をつけてください」
「あいつの顔、きれいだもんなぁ」
「いえ、佐和紀さん、あなたのほうが何倍もきれいだし、価値がある。岩下さんが泣きますよ」
同情した真幸が眉尻を下げる。佐和紀はいたずらっぽく肩をすぼめてみせた。
「泣かせてみたくない? カッコつけてる男が泣くのって悪くないじゃん」
「……美園も、ですか」
「泣き顔なんて本当は見てないよ。泣いてるみたいだなと思うだけだ。……意外にメゲるんだな。さっきはそうでもなかっただろ」
「知世くんの手前、みっともないところは見せられないじゃないですか。あの人に、どうぞよろしくお伝えください」
「待ってる、って?」
佐和紀の問いに、真幸は身体を固くした。美園との関係は複雑だ。仲を取り持ってやるとは言ったが、周平と佐和紀のような夫婦には到底なれない。
どんな関係がふたりの望みで、どんな関係がふさわしいのか。それもまだわからなかった。まったくの手探りだ。
そのとき、ふいに真幸が動いた。ぐっとあごを引き、決意を滲ませた表情でこくりと首を縦に振る。
「そうしてください。会える日が楽しみだって、伝えてください」
テーブルの上で組んだ指がわずかに震え出し、真幸は慌てて拳を引いた。
「すぐに、会いにくるかもね~」
佐和紀がからかうと、テーブルの下で拳を抑え込む真幸は苦笑した。優しくされるより、からかわれるほうが気楽になれるタイプの男だ。
「それは困るんですけど」
真幸が言い、煙草を揉み消した佐和紀はテーブルに頬杖をつく。深緑色の袖がずり落ちて肘に溜まる。
「なにが困るんだよ。好きなんだろ」
「好きだから一緒にいられるってわけでもないでしょう。あの人といると、なにかをしないといられないんです。わかりますか? 俺は『女』になれないし、あの人は俺を『女』にしようとして……失敗したんです」
「ふぅん。なるほどね」
頬杖をついたまま、佐和紀は真幸の表情を眺めた。
石橋組の組長となっている美園は実力のある男だ。粗野だが、胆力がある。同じ男として、真幸の自尊心は刺激されてしまうのだろう。
「俺はないなぁ、そういうの」
「……岩下さんにあれだけ気を使わせていれば、そうでしょう」
「美園に周平ぐらいの優しさがあればいいの?」
「浩二(こうじ)さんは心が狭いんです。嫉妬深くて独占欲も強い。それを無理に抑えているのがわかるから……、面倒っていうか」
「面倒……」
「あっ、言わないでくださいよ。気にしますから」
「なんか、かわいいよな。そういうの。……わかる」
「え?」
真幸がおおげさに身を引く。佐和紀はハッとした。
「いや、そういう『かわいい』じゃない。美園に対してでもない。男ってさ、そういうところがある、と思って。周平だって面倒なんだよ。嫉妬も独占欲も、ぜんぶをエロいことで消化しようとするから」
「かわいいじゃないですか」
「他人事かよ」
「他人事です」
顔を見合わせて、どちらともなく笑う。
「そういえば、すみれさんが、知世くんのことを心配していたんですよ」
「うん? すみれ?」
着物の帯からシガレットケースを取り出し、ショートピースをくちびるに挟む。自分でマッチをすって火をつけた。
真柴の婚約者である斎藤(さいとう)すみれは、銀座キャバレー事件のとき知り合ったホステスだ。ヤクザだった父親の転落に巻き込まれ、身も心も傷つけられた過去がある。年齢はまだ若く、二十歳になるかならないか。知世と同世代だ。
「ふたりは境遇が似てるんですか?」
真幸に問われて、佐和紀は首を傾げながら煙を吐き出した。
「そう言ってた?」
「知世くんの必死さがわかるって話だったと思います。ふたりの送別会のときに少し話しただけなので、詳しいことは聞かなかったんですが。もしかしたら、さっきの態度の理由に繋がるかもしれませんね」
「さっきの知世。やっぱり変だったよな」
「いつも一緒にいる佐和紀さんもそう感じたのなら、間違いはないでしょう」
佐和紀の会話に入りたがることは珍しくない。三井が一緒なら、ふたりの掛け合いで心がなごむ。だから、佐和紀も横入りを許しているのだ。
しかし、ときどきタイミングが悪く、佐和紀が叱ることもあった。そんなときは静かに身を引いて控える。いつまでも引きずるような性格でもなかった。物覚えがよく、常に前向きなのが長所だ。
だからこそ、叱責に落ち込んだ雰囲気だったことが気にかかる。
「普段の行いが積み重なって、自省がきつくなっている可能性もありますから」
真幸の口調は冷静だ。佐和紀は煙草をふかしながら首を傾げた。
「自省ってなに。俺の言い方がきついのか……」
佐和紀が問い返したそのとき、喫茶店のドアが開く。新しい客が入ってきたのが視界の端に見えた。見るからにガラの悪い集団だ。
固太りの中年ふたりが中心にいて、前後を若いチンピラ四人が固めている。中年の男たちはスキンヘッドがきらりと光る強面だ。
あっと思うまでもなく、向こうが佐和紀に気づく。若いチンピラと離れ、早足で近づいてくる。
「お邪魔します」
大滝組配下の暴力団幹部である寺坂(てらさか)と杉野(すぎの)だ。佐和紀と真幸のそばに立ち、深々と頭をさげた。佐和紀は眉をひそめる。
「本当に邪魔。挨拶はいらないから、向こうに行けよ。こっちがカタギだったらどうするんだ」
真幸を示して言ったが、財前の店で働いていることは知られている。
寺坂と杉野は、佐和紀の親衛隊に立候補したいと言い出したグループの一員だ。佐和紀は承認していないが、彼らは勝手に先回りしてあれこれと働いている。真幸や財前の暮らしについても、さりげないフォローが入っていた。
不機嫌な顔を向けた佐和紀に対し、杉野が申し訳なさそうに身を屈める。
「先週、うちの若いヤツがご迷惑をおかけしたそうで」
「あー、あれ。おまえのとこのヤツだった? 普通の不良だと思ってヤッちゃった。ごめん。ケガ、したよな……」
「こちらは自業自得です。ご心配なく。御新造さんに、おケガはありませんでしたか」
「それも自業自得だし……。っていうか、わざわざ謝らないで欲しいんだけど。俺の旦那に言ってないだろうな」
「もちろんです。下のヤツらにも、あえて言い聞かせておりません。もしなにかありましたら、すぐにご連絡ください」
「報復とか、ありそう?」
目を輝かせた佐和紀の顔に、たっぷりと五秒間は見惚れ、杉野だけでなく寺坂もあたふたと汗をかく。
「それだけはありません。そっちについては言い聞かせました」
「あー、そう。別にいいんだけど、相手にはならないな。威勢はよかったけど見かけだけだ。行儀よくさせるか、鍛えさせてやるか。どっちかにしてやれば?」
「わかりました。ありがとうございます」
ふたりはまた深々と頭をさげ、佐和紀たちから離れていく。
「噂の親衛隊ですか」
キョトキョトとまばたきを繰り返した真幸が苦笑いを浮かべ、佐和紀はたいして吸わないうちに終わってしまったショートピースを睨んだ。
「知世に絡んできたから、ふたりでちょっと遊んでやったんだよな」
「そんなに強いんですか、知世くんは」
「ケンカ慣れはしてるな。真顔で殴ってるから、俺に付き合ってるんじゃない? 楽しくはなさそうだ。引き際も知ってるし、頭いいよ」
「見た目からは想像できませんね。佐和紀さんの好きなタイプですか。弟分としては」
「抱いてもいいけどねー」
軽い冗談で笑い飛ばした佐和紀は、消えたはずの寺坂に気づいた。身を屈めたまま動きを止めている。聞いてしまったのだろう。
「旦那に言う? タレコミしたら点数あがるかも」
流し目を向けると、ゆでだこのように赤くなる。
上部組織の幹部の点数よりも、佐和紀からの好感度をあげたい男だ。あたふたしながら、煙草の箱をテーブルの上へ置く。
「いえいえ、まさか。煙草がないように見えましたので、私の好みですが、どうぞ。……冗談を真に受けるほど、バカではありません」
世話係がいないことに気づき、佐和紀の煙草を心配したのだろう。差し入れを引き寄せると、またスッと身を引いた。
周りの客たちはなにごとかと振り返っているが、真相は想像もできないはずだ。
「真に受けないとか言って、真っ赤になるんだから、な」
煙草のビニールを剥がして、一本取り出した。佐和紀の一番好きな銘柄はショートピースだが、普段に吸うフィルター付きの煙草にこだわりはない。
「あの子が、こうなるなんて」
真幸がぼそりと言う。佐和紀の子どもの頃を思い出しているのだ。
幼かっただけでなく、過去の記憶がところどころ抜けている佐和紀は思い出を共有できない。黙ってマッチをすった。懐かしい匂いがして、火がついた。
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