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第4話

 ざんばらに伸びていた髪を整えた現在は、見違えて肌つやもいい。きちんと食べ、眠って、適度に働いている証拠だ。  佐和紀はなにげなく真幸の手元を見た。働きながらリハビリを続けている真幸の指は、右も左もぎこちない動きをする。おそらく、以前にも骨折したことがあり、両手指に古傷を持っているのだろう。  それが拷問の果ての負傷だと誰が想像するだろうか。  四十歳を手前にして、やや童顔でアクのない清潔な顔立ちをしている。笑顔になれば、目尻にしわが寄る普通の男だ。 「美園と連絡は取ってるのか」  ふいに尋ねると表情に陰が差し込んだ。ひやりとした静けさが、佐和紀に伝わってくる。 「佐和紀さんが、取っているんでしょう」  言われて、佐和紀は深いため息をついた。 「俺の仕事じゃないだろ」  真幸とは一ヶ月に一度の頻度でしか会わない。横浜に匿って数ヶ月。美園について話すのは、これが初めてだった。  もしかしたら興味がないのかと思うほど、真幸は沈黙を守る。美園については口にしない。それが本人といるときでさえ同じなら、心を砕いているヤクザが不憫になる。 「足のつかない連絡先は知ってるよな?」 「用事がありません。向こうは、俺よりもっと忙しいし……」 「……知世」  佐和紀が声をかけると、静かに座っていた青年はびくりと背を揺らした。 「俺ですか。このタイミングで……?」  ため息を飲み込んだ知世は、片側だけ長い前髪を耳にかけるようにして、真幸へ視線を向けた。苦笑めいた薄笑みを浮かべる。 「ええっと……、真幸さん……。忙しいからこそ、声を聞きたいって、思うんじゃないですか。向こうは、心配もしてるだろうし」 「……ここで匿ってもらっていれば安全だ。なにかあれば連絡は行くはずだし」 「声を、聞きたいって……、それは……」 「いい年した男が、そんなこと、思ってるかな。君は若いから、そうかもしれないけど」 「佐和紀さん。俺には無理です」  くるっと振り向いた知世は、泣き出しそうに顔をしかめる。その肩をポンポンと叩いて、佐和紀は身を乗り出した。 「もう何ヶ月も経ってる。春だって来たんだ。……会いたいだろ?」  煙草を指に挟んで、テーブルに肘をつく。真幸はうつむき加減になった。  赤く燃える火種の先端を見つめた目元ではまつ毛がわずかに揺れ、くちびるがわなわなと小刻みに震える。 「佐和紀さん、泣かさないでくださいよ」  知世が慌てたが、真幸は泣いていない。くちびるを手のひらで覆い、両肩を大きく上下させながら深呼吸をしただけだ。 「京都で美園を見かけたら、真幸が会いたがってたって言うからな」  目を見開いた真幸が、ぶるぶると首を振った。  佐和紀は煙草を灰皿に置き、着物の衿をしごく。 「ダメ。俺は言う。それとも一緒に行くか?」 「……佐和紀さん、やめてください」  真幸の声は消え入りそうに小さく、心もとない。この声を聞かせたくないから、美園に連絡を取らないのだ。 「おまえとあいつの仲を取り持つって、約束しただろ」  佐和紀が言うと、隣に座った知世がのけぞる。 「え。本気だったんですか」 「当たり前だろ。やるって言ったら、やる」 「でも、佐和紀さん……」  そのまま言葉を飲んだのは、問題の関係が、見るからにこじれているせいだ。  若さゆえの行き違いならまだしも、出会って十年以上経っても噛み合わない真幸と美園は、もはや中年同士になっている。 「美園みたいなヤクザがさ、肩を震わせて泣いてるのを見たら、おまえ、放っておけないだろ」 「それ、本当なんですか?」 「なんでそこで、俺に疑いの目を向けるんだよ」 「そういうタイプに見えないんです。美園さんのことですよ」 「岡崎(おかざき)と同じタイプなんだから、同じに決まってるだろ」  大滝組若頭の岡崎弘一(こういち)は、佐和紀の元・兄弟分だ。 「あの人を泣かせてるのは佐和紀さんじゃないですか」 「俺が相手だったら納得するのか」 「それは……まぁ……」  くちごもった知世は、気遣うように真幸へ視線を向けた。佐和紀と真幸では外見の出来が違う。そう思っていても口にしない。分別のある若者だ。 「おまえの気持ち、伝えてくるからな」  うつむいた真幸に、佐和紀はもう一度断言する。 「でも、不意打ちで会いに来るようなことは、させない。タイミングを見るから」 「タイミングって……」 「知世、ちょっと黙ってろ。おまえ、最近、タモツじゃなくて、タカシに似てきたんじゃないか」 「え。嫌です」  分別と好奇心がせめぎ合う年頃の知世は、眉を歪めて即答した。髪の長い陽気な男がここにいたら、騒がしく憤慨しただろう。  いなくてよかったと思いながら、佐和紀はそのまま知世に目配せした。 「じゃあ、黙ってろ。……真幸、うちの旦那経由で、美園から金を預かってる。自由になる金がないと困るだろうってことだけど、どうする。っていうか、この金を用意してる美園の気持ち、わかってる?」  言ってみたものの、佐和紀も初めは理解していなかった。  普通に渡すなと周平に託された金は、十万円だ。  どうして普通に渡してはいけないのかと聞くと、逃げるには充分だからだと言われた。それを承知で、美園は金を与える。逃げて欲しくはないが、ほかに愛情を示す手立てもないからだ。 「……財前さんに、預けてもらえませんか」 「わかった。知世、あとで店に届けてくれ。……大金持ったら、やっぱり飛ぶのか」  飛ぶというのは、逃げるという意味だ。  ようやく口元から手を離した真幸は、いつもそうするように首を左右に振った。 「金は預けてあると伝えてください。欲しいものはなにもないし、すべて揃っています。毎日が平和で、静かで……、満足しています」 「美園ってさ、おまえのために足抜けしようとしたことあるだろ。周平はしくじったって笑ってたけど」 「俺は望んでいませんよ、そんなことは。無理でしょう。美園が抜ければ石橋組はおろか、阪奈会(はんなかい)ごと危うくなる。それを見捨てられる人じゃない」 「亭主に、責任の重い仕事のあるほうが、おまえも都合がよかったんだろ」 「……佐和紀さん」 「俺はおまえのこと、ほとんど知らないよ。聞いても理解できない。でも、おまえにはおまえの人生があるし、好きだからってだけで、なにもかも捨てたら不幸になるしかないよな。それは理解できる。だから、このままカゴの中に入っていられそうか、ちゃんと考えておいて。そこんとこがはっきりしないと、取り持ちようがない」 「答えが出ると思いますか」 「いいんだよ。はっきりしてなくても。いま、どうしたいか。それだけだ。あとは、あっちの出方もあるだろう」 「よく、わかりません」  知世が言葉を挟んでくる。 「……黙ってなさいって、言っただろ」 「すみません」  ふっと伏せる目元にさびしげな雰囲気があった。知世も自覚している『処世術』だ。  そればかりが原因ではないが、乱暴者で名を馳せた佐和紀も、三井にするようには知世を小突けない。 「すみません、佐和紀さん」 「怒ってない」  そう答える一言が冷たく聞こえるのか、知世は過剰なほど肩をすぼめて小さくなる。  佐和紀と顔を見合わせた真幸が声をかけた。 「知世くん、さっきのお金を、財前さんの店へ届けに行ってきてくれないかな。いるはずだから」  言われた知世は佐和紀を見る。 「ここで待ってる」  うなずいて返すと、ジャケットのポケットに封筒があることを確認して立ちあがった。すっと店を出ていく。  背中を見送った佐和紀は、窓越しに姿を追った。

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