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骨 8

     ◇  貴一は篠宮だったものを両手で持ち、空へと高く掲げる。  いつも土の中に埋まっていては、満足に呼吸もできまい。  ただでさえ、生意気で扱いにくい生徒たちの相手をしていたのだから、きっと周りの視線が気になって、さぞ苦しかったのだろう。  背中を縮めてきょろきょろと周囲を気にする篠宮は愛しかった。  八年もの年月は長いようで短い。  貴一にとって、今年は特別だった。  あんなにも遠かった篠宮の歳を追い越したのだ。  ようやく、篠宮よりも優位に立てる。  篠宮に大人として接することができる。  先生と生徒の関係ではなく、ごく普通の恋人同士になれる。  このときがくることを願って、貴一は篠宮の一部を埋めたのだ。  ――自分だけの、篠宮音也という存在を求めて。  篠宮への鬱屈した情愛はいつしか執着を超えた崇拝へと変化し、貴一の心を病ませていった。  篠宮の一部を土中深くに埋め、大量のイチョウの葉で隠し、目測で大イチョウとの距離を測る。  そこに篠宮が眠っている、という認識だけで、貴一は興奮した。 「先生……」  肉が腐り露出した骨は、人工的に漂白された標本のように白く、まるで篠宮そのものを思わせるほどに美しい。  もしかしたら篠宮の本体は、さえない外見ではなく、この骨なのかもしれない。  いや、きっとそうだろう。  思えば篠宮に心惹かれたのは、彼の骨の存在に興味をもったことがきっかけだったのだから。 「……ああ」  性器がうずく。 「音也……」  篠宮の年齢を越えるまで、名前呼びはしないと決めていた。  おとや。  なんと心地の良い響きだろう。  だがその感動すら長続きしないほど、貴一は一年ぶりの篠宮との逢瀬に酔いしれていた。 「音也……あなたをもっと愛したい……」  貴一は弓のようにしなやかな尺骨に舌を這わせ、深く口づける。  篠宮からの施しはないが、土中に埋まっていたぬくもりが心地よく、その柔らかさに貴一は夢中になる。  唾液が枯れても、貴一は篠宮を愛し続けた。  次に逢うのは一年後と決めているから。 「――……いやだ」  篠宮との間でルールを決めたのは他ならぬ自分自身だ。  それなのに年々自制が利かなくなっている自分自身の欲望に、貴一は気づいていた。 「繋がりたい……」  突然の喪失感。  貴一は腕に抱いたはずの篠宮の姿に目をやる。  肉体がない。  そこにあるのは小石や流木のような自然物で、それが篠宮音也であった印は、どこにも見当たらない。  貴一の脳裏に、あるひとつの仮説がよぎる。  ――彼は本当に篠宮音也なのか。  暗がりの中で貴一が見つけたのは腕の一部だ。それを篠宮のものだと断定できる明白な証拠はどこにもない。  だが貴一には確信があった。  赤黒い肉片から突出する綺麗な骨は、きっと篠宮のものだろうと。  貴一は信じたかった。  篠宮の死を自分だけが知り、自分だけが篠宮と未来永劫一緒にいられるのだ、と。 「音也……音也……」  尺骨を投げ出し、貴一は無我夢中で土を掘る。  九月だというのに額からこぼれた汗が首を伝い、貴一の身体を濡らす。黒く美しい髪が乱れても、貴一は構うことなく掘り進める。  篠宮はこのイチョウの木の下のどこかに眠っている。その身体が骨になっても、朽ちることなく、貴一の来訪を待ちかねている。きっと。きっと――。  土は硬かった。貴一の爪は割れてしまった。だがそれでも貴一は捜索を続ける。あらかた掘り進めても何も見つからなけば、また次の場所を。  篠宮はきっと待っている。  貴一は脚の感覚がなくなるまで、大イチョウの下を掘り返し――ようやくあるものを見つける。 「……骨だ」  常人には海岸に打ち捨てられた、ただの白い小石に見えるそれを見つけた瞬間、貴一は己の考えが間違っていなかったことを知る。  小指ほどの大きさしかないそれを、貴一は震える指でつまみ、眼前に掲げる。 「先生の、骨だ」  貴一は恍惚の表情を浮かべる。篠宮のものと思しき小指ほどの骨を、耳元に持っていくと、あの日に聴いたサティのグノシエンヌがよみがえった。 「たららーらーらー」  ぽろろんと篠宮が鍵盤に指を乗せる。その指が骨となって、今、貴一の手元にあるのだ。 「たららーらーらー……らららーらー……」  篠宮の魂は、きっと骨に宿っていることだろう。  きっと。きっと――。 「僕、グノシエンヌを弾きこなせるようになったんです……きっと先生よりも、上手に弾けますよ」  ――思考の隅で……あなた自身を頼りに……舌にのせて……。  楽譜に書きこまれた奇妙な注意書きを、はじめは気にも留めていなかった。 「僕はいつも先生のことを考えていた。どうしたら先生に振りむいてもらえるのか。どうしたら先生が、僕を見てくれるのか。でもそれだけじゃだめだったんですね。だから僕は、あの頃グノシエンヌを弾けなかった。そんなときにあなたとのふたりきりの時間を手にして――僕は気づいたんだ」  グノシエンヌの旋律が鳴りやむ。  貴一は夜空を見上げ、暗闇の中、自分と篠宮とがふたりきりであることを、改めて確かめる。 「僕はあのとき――先生に聞けばよかったんだ。どうしたら上手に弾けるようになるか。どうしたら先生のように弾きこなせるようになるのかを。僕は先生を頼ればよかったんだ。もっと甘えればよかったんだ」  篠宮のグノシエンヌは緻密かつ繊細。氷の彫刻のように冷ややかだが儚くて脆い曲調だったが、貴一は違う。  もっと荒々しく、生々しく、人間の本質を内側から暴き出すような、激しいものだ。 「僕はサティに嫉妬した。でも、僕は感謝もしている。こうして、先生と一緒にいられるのだから。言ったよね、先生。グノシエンヌが弾けるようになったら、僕の好きにしてもいいって」  ねじ曲がった思考のまま、貴一は篠宮に語り語りかける。それに被さるように、サティの指示が聞こえた。  ――舌にのせて。 「――たららーらーらー……たららーらーらー……らららーらー……」  貴一は舌をあんぐりと突き出す。  そして小石ほどの大きさの白いものを、舌にのせ、ごくりと飲みこんだ。  了

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