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第一章【10】

「失礼します」  授業が終わった放課後、矢神はすぐに校長室を訪ねた。 「ああ、矢神先生、お忙しいところごめんなさいね。どうぞかけてください」 「はい……」  促されるまま、ソファに座る。少し緊張していた。昼休みに遠野の言っていたことが頭から離れず、不安が付きまとっていたのだ。午後の授業に集中できなかったのも、そのせいだろう。  あんな男の言うことを気にするなんて――。  矢神は奥歯をぎりっと噛み締めた。 「さっきね、営業の方からお饅頭を頂いたんだけど、矢神先生、甘い物は大丈夫かしら」 「いえ、私は……」  矢神は断わろうとしたが、校長は返事を聞かぬまま、お茶と一緒に饅頭が乗った皿を目の前に出してくる。 「ここのお店のすごく美味しいのよ。食べてみて」 「ありがとう、ございます……」  食べる気分ではなかったが、そう答えるしかなかった。 「新入生も学校にだいぶ慣れてきましたね。少し浮かれてくる頃かしら」  穏やかな表情のまま、校長は矢神の向いに座った。 「そうですね……」  背筋を伸ばし、更に姿勢を正した矢神は、何を言われるのかとそのことばかりが気になって、会話が頭に入ってこなかった。 「でも、矢神先生なら、そんな浮かれている生徒にもきっちり接してくれますものね」 「努力しています」  答えがおかしかったのか、校長はくすっと笑う。 「矢神先生、そんなに緊張なさらないでください。たいしたお話ではないのよ」 「そ、そうですか」  その言葉を聞いて、肩の力が抜け安堵のため息が漏れた。それと同時に、校長が話し始める。 「二年A組の授業を矢神先生は受け持ってますよね。すごく優秀なクラスだと聞きました」 「成績もいいですし、みんな真面目でいいクラスですね。やはり担任の榊原(さかきばら)先生のおかげだと思います。話というのは、二年A組のことですか?」  早く本題に入りたくて、急かすように自分から話を振ってみた。校長は笑顔でゆっくりと頷く。 「ええ、その榊原先生ですが、昨年にお父様が倒れたのはご存じでしょう」 「はい、そう伺いました」  父親が倒れ、そのために榊原先生は学校を何度も休んでいた。矢神は、代わりにA組のホームルームを受け持ったこともある。 「お父様は元気になられたそうなので安心していたんですけど、榊原先生、教師を辞めてご実家の家業を継がれるそうなの」 「え!? 教師を辞められるんですか?」  あまりの驚きに、思わず身を乗り出しそうになった。 「せめて担任を受け持っている今の生徒が卒業するまででも、とお願いしたんですが、榊原先生もずっと悩んでいらしたようで……」 「そうなんですか……」  教師を続けて二十年になる榊原先生には、矢神もいろいろな指導やアドバイスを受けていた。  生徒だけではなく、一緒に働く教師にもまっすぐで厳しい。しかし、必ず明るくフォローしてくれる。 そのせいか、厳しく指導するという印象はほとんどなく、みんなから慕われる教師だった。そして榊原先生自身も、教師という仕事に誇りを持っていた。  だからこそ、そんな榊原先生のことを矢神は目標にしていた。事情があるにしても、とても残念なことだった。 「それで、後任を榊原先生と相談していたんですけど」 「はい」 「矢神先生にお願いしたいんです」 「……え、私、ですか?」  榊原先生の話から突然自分の話題になったので、内容を理解するのに少し時間がかかった。 「榊原先生のご指名です。私も、矢神先生にお願いしたいと思ってました」  校長はたいした話ではないと言っていたが、十分にたいしたことある内容だ。 「ですが、私に担任が務まるかどうか……」  膝の上で拳を握った。喜ばしいことのはずなのに、素直に喜べない。 「もしかして矢神先生、今回担任を外されたと思っていましたか?」 「……はい」 「確かに彼のことは少し騒ぎになってしまいましたが、矢神先生は頑張ってくださいました。今回担任にしなかったのは、お疲れのご様子だったので、一年は休んでいただこうという考えでした。 ですが、榊原先生が辞められるとなると話は変わってきます」  優秀な教師の後任に抜擢されるなんて信頼されている証拠。だが、それが返ってプレッシャーになっていた。  榊原先生だったから、今の二年A組がある。自分が担任になれば、何ができるのか、どうなるのか、まるで想像がつかない。今まで榊原先生が築き上げてきたものを自分が全て壊してしまうんじゃないか。  そんな不安の方が大きかった。 「少し、考えさせてもらってもいいですか?」 「いいお返事を期待しています」  矢神の返事を待っているとはいえ、校長が既に決めている以上、断わることは皆無だ。受けるのが当然のことだろう。  迷うことはない――昔の自分なら。  今は違った。また退学者を出してしまったらどうしようと頭の中で木霊する。恐いのだ。自分のせいで他人の人生が変わる。そういう位置に自分はいるということを改めて実感していた。  だから、なるべく生徒から遠いところにいたい。そう願ってしまう。  ただ現実から逃げているだけなのはわかっていた。これでは、教育者失格だ。 「矢神さん、ご飯冷めちゃいますよ」 「え?」  顔を上げれば、目の前に遠野の姿があった。彼の声で現実に引き戻される。家に帰ってからもずっと、矢神は頭を悩ませていたのだ。 「さっきからぼーっとして大丈夫ですか?」 「ああ……」  取り繕うように、テーブルの上に並んでいた箸と味噌汁の器を取って口に運んだ。 「やっぱり校長先生のお説教だったんですね。笑顔で厳しいこと言うところが苦手なんですよ」 「説教じゃないよ……」 「そうなんですか? オレ、頼りないですけど、愚痴るだけでもすっきりすると思うんで何でも言ってくださいね」 「ん……」  言うつもりはなかった。そもそも遠野に相談したり、愚痴ったりしたら、面白おかしく流されそうな気がして。  だけど、遠野の作った野菜たっぷりの具だくさんの味噌汁が妙に上手くて、自然と口から言葉が出ていた。 「榊原先生が辞めるみたいで、その後任を頼まれた」 「すごいじゃないですか。榊原先生が辞めるのはちらっと聞いていたんですが、矢神さんが後任なら頼もしいですね」 「まだ返事はしていない」 「どうしてですか?」 「……うん、ちょっと考えるところがあって」 「日向くんのことですか?」 「何で!?」  遠野の口からその名前が出てくるとは思わなかったから、驚いて軽く咳き込んだ。 「あ、違ったらすみません」  日向誠一(ひなたせいいち)、退学した生徒の名前だ。  普段なら生徒が退学しても、すぐに忘れられてしまうような感じだった。だが、日向の場合は親が何度も学校に訪れて騒ぎになったから、遠野も名前を覚えていたのだろう。 「日向は成績がかなり良かったら大学を勧めた。それが一番あいつのためにいいと思ったからだ。だけど、日向がやりたいことは大学に行くことじゃなかった。他にやりたいことがあったんだ。 誰にも言えず、悩んで苦しんでいたんだろうか。オレがもっと早く気づいてやれば、あんなことにはならなかったかもしれない……」  なぜかわからなかったが、誰にも言ったことのない話を聞かれてもいないのにべらべらと喋っていた。言わずにはいられなかったのだ。自分のことを話すのは苦手としている矢神にしては、珍しいことだった。 「そんなに思われているなんて日向くんは幸せですね。きっと矢神さんの思いは届いてますよ」 「届くわけない。あいつの気持ちをわかってやれてなかったんだぞ。学校を出て行く最後の時も、オレの顔を一度も見てはくれなかった」  担任だというのに生徒を守ることができなかった。彼は絶望しただろう。今もどうしているのか何も知らない。  連絡をしてみようと何度も思ったが、何て声をかけていいか言葉が見つからなかったのだ。 「教師も人間です。日向くんの時は気づけなかったかもしれないけど、次はきっと生徒の気持ちをわかってあげられますよ」  落ち着いた静かなトーンで言葉にした遠野は、優しい笑顔を浮かべていた。  そう言われるだけで救われるような気がした。自分自身を信じてみようと思えることができる。  彼のように辛い思いをさせないために、生徒のことを前以上に気にかけて考えていけばいい。ただそれだけのこと。  だが、日向のことを思い出すと、居たたまれない気持ちになる。  また同じことを繰り返すだけなのでは、と前に進む一歩を踏み込めずにいた。

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