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第一章【11】
矢神は、しばらくの間、担任になるかどうかを悩んでいた。
夜もあまり眠れず、真夜中に何度も起きては、そのことについて考える。
一歩を踏み出せないだけ。ただそれだけなのだが、一向に自分の中で答えが出ないまま時が過ぎていった。
「だから、なんで遠野先生はオレの席に来て弁当を食べるんだよ!」
「言ったじゃないですか。オレの机、書類で山になってるんです」
「……片付けろって」
あれから遠野は、毎日お昼のお弁当を矢神に作ってくれた。
そしてお昼になれば、こうやって矢神の席に来て一緒にお弁当を食べる。
矢神が自分の席に戻れと言っても、全く聞く耳を持たないのだ。
「矢神先生は、カレイの煮つけ好きですか?」
「おまえ、人の話聞いてんのか……」
話を逸らされたので、矢神も質問には答えずに、弁当の中の卵焼きを一口食べる。好みの味が口の中に広がった。
悔しいけど、遠野の料理は美味い。
そのことは口には出さないが、遠野の料理は矢神の好みにかなり合っていた。
「矢神先生、好きですか?」
再び、遠野が詰め寄ってくる。
「もう、何だよ、カレイの煮つけ? まぁ、好きだけど」
「良かった。じゃあ、今夜はカレイの煮つけにしますね」
「昼食いながら、夕食の話かよ」
「朝テレビで見てから食べたくなっちゃって」
えへへと無邪気に笑う遠野に、矢神は呆れるしかなかった。
「どんだけ食いしん坊なんだよ。っていうか、そんなのも作れるのか?」
料理をしない矢神にとって、カレーライスを作るのも危ういというのに、和食まで作れる遠野に驚いただけじゃなく、尊敬の眼差しを向ける。
だが、遠野はきっぱり答えた。
「いえ、初めてです」
「初めてなのに作るのか。もっと簡単なものでいいよ」
和食は魅力的ではあるが、作ってもらっている以上、無理してもらいたくない。
今までだって、出来合いのものばかり食べてきたのだ。食べられるものである限り、何が出てきてもたいして気にはしない。
「オレが食べたいのでチャレンジしてみます。頑張りますよ!」
そんなことに力を入れる前に、机の上を片付けて仕事に励んで欲しい。
矢神はそう思ったが、得意なものを伸ばしていくのはいいことだ。
さっそくパソコンで、作り方を検索している遠野が微笑ましかった。
しかも、自分のパソコンではなく、矢神のパソコンを使うところが遠野らしい。
「何か矢神先生のパソコン重たくないですか?」
「文句言うなら使うな!」
不思議だった。遠野と話していると、自分の悩んでいることがちっぽけなものに思えてくる。
前向きな遠野の性格のせいだろうか。
遠野と一緒にいれば、影響を受けて少しはポジティブに考えられるようになれるといいのだが。
「矢神先生、今時間ありますか? 資料室の整理を手伝ってもらいたいんですけど」
放課後、久しぶりに嘉村が声をかけてきた。
「ああ、いいよ」
「じゃあ、お願いします」
嘉村と何を話したらいいのかわからないと思っていた矢神は、自分から声をかけることは、ほとんどなかった。
しばらく嘉村とは、業務のこと以外、会話らしい会話をしていない。
こんな普通の会話を交わすだけでも、身構えてしまうくらいだ。
資料室の整理とは、資料室にあるファイルに、前年度分の書類を部門別に綴っていくという簡単なもの。だが、これが意外に面倒で、けっこうな量があるから一人では無理な仕事だった。
毎年、担当になった人が手の空いている誰かに声をかける。そして仕事の合間を見て、何日もかけて終わらせていく。
今回担当だった嘉村が、たまたま居合わせた矢神を選んだ。ただそれだけで、仕事をしてくれるなら誰でも良かったのだろう。先ほどから会話はほとんどなく、もくもくと作業をこなすだけだった。
作業が進むのだからいいことなのはわかっていた。だが、そんなにも広くないこの資料室で二人、沈黙が続くのは耐え難かった。
「そ、そういえば、嘉村先生のクラスの市川、最近成績が上がってますね」
頭の中を巡らし、やっと浮かんだ話題を言葉にすれば、矢神の声が上擦った。
しかし会話が弾むどころか、嘉村は何も答えてくれず、勇気を出した意味がなくなる。
小さな溜め息が出た。
なぜこんなにも気を遣わないといけないのか。
少し苛立ちも沸いた。
矢神自身は何も悪いことをしていないのだから、堂々としていればいい。それなのに、性格の問題なのだろう。どちらかと言うと、嘉村の方が堂々としていた。
矢神は嘉村を怨んではいない。彼女が選んだということは、自分にないものを嘉村が持っていたということ。だから仕方がないのだ。
だが、一度わだかまりができると修復するのに時間がかかる。
こんな状態のままでは良くないことはわかっているのに、解決方法が見つからなかった。
「市川は――」
「え?」
「あいつは、矢神先生の授業がわかりやすいって言ってました」
会話が返ってきたことに嬉しくなり、頬が少し緩んだ。
「そっか、前は数学なんて嫌いだって言ってたのになあ」
「一年の時、希望の生徒に個人授業をしてましたよね。そのおかげで授業についていけるようになったと聞いています」
「個人授業ね……」
「最近は、個人授業してませんね。もうしないんですか?」
「うん、担任によっては、良く思わない先生もいてさ……」
「じゃあ、オレのクラスだけやってください。生徒の成績が上がれば問題ないんで」
矢神は嘉村らしいと感じた。
自分の利益になることなら、どんなことでもするタイプだ。だから反対に、自分に不利益になることには手を出さないし、関わろうとはしない。
そのせいで、他からは冷たいと見られることも多かった。
「嘉村先生も、クラスの生徒に個人授業したらいいんじゃないですか?」
「そうですね。考えてみます」
そこで会話が途切れ、再び沈黙が訪れた。
会話が続かないことなんてよくあることだから、気にしなければいいのだが、やはりどうにも居心地が悪かった。
自分ではなく、違う人を手伝いに選んでくれたら良かったのに。
そんなことを思っていたが、断わらなかったのは矢神なのだから諦めるしかないのだ。
ある程度作業を進ませてさっさと帰ろう。
そう思って作業のペースを速めれば、ボソリと呟くように嘉村が口を開いた。
「矢神先生は、遠野先生と仲いいですね」
唐突だった。
思わず、手を止めて嘉村の方を見てしまった。
「……そうか?」
「一緒にいること多いですよね」
「それ、他の人にも言われるけど、別に仲良くねーよ」
遠野と共に行動しているつもりはなかった。だが、いろいろな人から言われるということは、やはり多いのだろうか。
同居するようになってから、遠野が「夕食は何食べたいですか?」とか、「先に帰宅しますね」とか、余計な会話が多くなった。その分、以前より一緒にいる時間は多少は増えたかもしれない。
もし、それだけで仲が良いと言われているのであれば、あまりいい気はしなかった。
「前は遠野先生のこと苦手だって言ってませんでしたか?」
「オレ、そんなこと言ってた?」
遠野を苦手だと思っていたのは確かだ。しかし、それを嘉村に言っていた自分に驚く。
よっぽど遠野のことが、扱いにくい相手だと感じていたのだろうか。
「今は違うんですか?」
「うーん……相変わらず大雑把でウザイところもあるけど、深く付き合ってみると、そうでもないかなとか思ったり……」
曖昧に答えた。人を悪く言うのも、良く言うのも得意ではないのだ。
気持ちを言葉にするのは難しい。
言葉にしてしまえば、それだけが真実になってしまう。捉え方によっては、違う意味にも取られる。
だから、気持ちを伝えるのは苦手で、相手にどう思われるか恐いと感じていた。
「深く、ね。変わるものですね」
「ああ」
そう――人は変われる。気持ちも変わっていく。
だから、前と全く同じというわけにはいかなくとも、嘉村と普通に付き合っていくこともできるはずだ。
「史人らしい」
静かにポツリと言ったその声には、優しさが含まれているように思えた。
プライベートの時には、いつも嘉村は矢神を下の名前で呼んだ。今、それと同じように名前で呼ばれ、肩の力が抜ける。
嘉村が心を許してくれたことを感じたからだ。
今なら、離れていた距離を縮めることができるかもしれない。
「嘉村、オレ……」
きちんと話をしたい。嘉村と向き合おうとした瞬間だった。
「おわあっ」
急に前から突き飛ばされたと思ったら、嘉村に両肩を掴まれ、床に押さえ付けられる。
「いってー、何すんだよ!」
「史人は、すぐ流される」
「は?」
言葉の意味を理解する前に、嘉村が片手で矢神の両腕を掴んで、頭の上で押さえ込んだ。
「痛いって!」
ふざけているのかと思った。だが、眼鏡の奥の目は真剣で、とても冗談には見えない。
「離せ、嘉村!」
矢神が暴れれば、腕を掴んでいる手に力を込め、身体の上に跨るように圧し掛かる。
「史人、嫌がると相手は興奮するものだよ」
「耳元で、喋るなっ……」
耳に息がかかり、むずむずした。身をすくめれば、普段あまり表情を崩さない嘉村が口元を緩ませる。
「へえ、史人は、耳が敏感なのか」
何が起こっているのかわからなかった。わからないうちに、嘉村が行動を起こしていく。
耳元に唇を寄せ、耳朶に舌を這わせながら、もう片方の耳を指でなぞった。
「あぁっ……」
何とも情けない声が出て、恥ずかしくなる。だが、そんな矢神の気持ちはお構いなしで、嘉村は、耳の中に舌を挿れてきた。
ねっとりした舌の感触が、背筋をぞくぞくさせ、矢神の身体を震えさせる。
「やめ……んっ……」
口を開けば、おかしな声が出て、身体中が熱くなった。
嘉村は繰り返し、耳の中を犯すように舌を這い回らせ、片方の耳朶を柔らかく摘んで弄ぶ。
抵抗しようとしても、嘉村の方が矢神よりも力があるらしく、腕も身体も動かせない。
ばたばたと足を動かしてみるが、何も意味を持たなかった。
自分の意志とは反して、呼吸が乱れ、時には反応するように身体が跳ねる。
油断をすれば声が出そうになり、唇を噛み締めていることしかできなかった。
満足したように耳から舌を抜いた嘉村は、耳元で笑いながら囁いた。
「眞由美より、感度いいな」
それは、矢神が以前付き合っていた女の名前。そして現在、その相手は嘉村と付き合っている。
女性、しかも昔の女と比べられ、恥ずかしいだけじゃなく、怒りを覚え、嘉村を睨みつけた。
「何がしたいんだよ!」
嘉村の行動が全く理解できなかった。
矢神が嫌いなら、無視をして相手にしなければいい。こんな卑劣な嫌がらせは、嘉村らしくないし、大人気ないと感じていた。
「史人が悪い」
しかし、意味のわからない答えしか返ってこない。
「ちゃんと説明しろ」
懲りずに嘉村から逃れようと身体を動かしてみるが、やはり無意味で、嘉村はというと、今度は矢神のネクタイを緩めてくる。
そして、ワイシャツのボタンを外し、首元に唇を寄せてきた。息を吹きかけながら、顔を埋めていき、肩口に噛みついてくる。
「……っ!」
「こういうのは好みじゃない? 優しくされる方がいいか」
嘉村は眼鏡を指で直しながら、皮肉っぽい笑みを浮かべた。完全に遊ばれているのがわかる。
「いい加減にしろ!」
思いっきり怒りをぶつければ、残念そうにため息を吐く。
「わかったよ」
そう言って身体を浮かしたから、止めてくれたのかと思ったが、両腕は掴まれたままだ。
何となく嫌な予感がした。
「嘉村……」
勘違いであって欲しい。願うように名を呼んだが、案の定、それは的中する。
嘉村の片方の空いている手がゆっくりと下へ移動していき、矢神のベルトに手をかけたのだ。
「何してんだ」
「大丈夫、すぐ済むよ」
「おま、ふざけるなっ」
悲鳴のような矢神の声は無視され、嘉村が難なくベルトを外す。
「嘉村!」
声を荒げて足をばたつかせれば、嘉村は苛立つように眼鏡を中指で上げた。
「声を抑えた方がいい。誰かに見られてもいいのか」
その言い方は、少しキツイ口調だった。
そんな風に思うなら、今すぐ解放して欲しかった。
放課後、生徒が資料室に来ることはほとんどない。しかし、教師が足を運ぶことは充分にある。
こんな場面を見られては、お互い立場が悪くなるのは目に見えていた。
だが、次の嘉村の一言に愕然とする。
「オレは、構わないけどな」
矢神と違って嘉村は他人を気にしない方ではあった。だが、ここまでくると、普通じゃないと思えてしまう。
嘉村が矢神のスラックスのチャックを下ろしていく。その音が妙に響いているような気がして、羞恥に目を瞑り、顔を背けて屈辱に耐えた。
その時だった。資料室の入り口から物音が聞こえてきたのは。
誰かが入ってきたのがわかった。目を開ければ、嘉村も音のする方に視線を向けている。
「嘉村、早くどけろ」
慌てている矢神とは違って、嘉村は冷静だ。誰かに見つかっても、本当に気にしないのだろうか。
どうにかならないかと身体を動かしてみるが、嘉村の方は一向に退くつもりはないようだ。
そうこうしているうちに、その人物が二人の目の前に現れる。
「嘉村先生、保護者の方から電話……」
相手は言葉を失った。二人の状況を目の当たりにしたら、当たり前のことだ。
だが嘉村は、何事もなかったように返答する。
「電話ですか?」
その瞬間、両腕を掴んでいた手の力が緩んだので、矢神は嘉村の手を払い除け、身体を押して退かせた。
慌てるようにスラックスのチャックを上げ、ベルトを締める。
ネクタイは緩んだままで、シャツも肌蹴たままだったが、一刻も早くここから立ち去りたかった。
うろたえながら資料室から出ようとしたが、さきほど入ってきた相手、遠野大稀が、呆然として通路に突っ立っていて邪魔になる。
お互いの視線が交差した時、遠野は何か言おうとしたのか、口を開きかけた。
「どけ!」
今は何も聞きたくなかったし、話したくなかったから、遮断するように矢神が怒鳴った。
遠野は項垂れるように肩を落とし、脇に寄って通路を開ける。
足早で資料室を出た矢神は、焦るように職員トイレに駆け込んだ。
こんな乱れた姿を誰かに見られたら大変だ。
幸いにも、トイレには他の教師がいなかったので、ほっと胸を撫で下ろした。
不意に鏡に映った自分が目に入る。
暴れたせいか、服装だけじゃなく、髪も乱れていて顔色も悪い。とても哀れな姿だった。
そして、解放された安心からなのか、今になって足に震えがきた。
「くっそ……」
恐くなかったと言ったら嘘になる。
相手はよく知る人物、嘉村ではあったが、あの時だけは矢神の知らない嘉村の姿があった。
資料室に誰も来なければ、嘉村はあのまま事を為していたに違いない。
どんなことをするかなんて想像がつかないから、余計にぞっとした。
矢神は、嘉村のことが本当にわからなくなっていた。
元々お互い喋る方ではないが、それでも、いろいろな悩みや愚痴を言い合い、誰よりも心許せる相手だった。
それは、嘉村もずっと同じ気持ちでいてくれていると思っていた。
彼を怒らせるようなこと、傷つけるようなことを何かしてしまったのだろうか。
いくら考えても、当てはまることは思いつかない。
悔しくて目頭が熱くなった。
瞼をきつく閉じると、一粒の雫が頬を伝って落ちた。
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