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第二章【7】

 矢神が朝目覚めると、頭痛を覚え、こめかみを押さえた。昨夜は考え事をしていて、ほとんど眠っていなかった。  リビングに向かえば、遠野がいつもの明るい声で話しかけてくる。 「矢神さん、おはようございます」  その大きな声が頭に響いて、思わず眉根を寄せた。朝から変わらず元気だが、彼はなぜか慌てている様子だ。 「オレ、寝坊しちゃって、朝食はパンでもいいですか?」 「無理しなくていいよ、朝食べなくても平気だから」  一応気を遣って言ったのだが、遠野はひどい剣幕で返してくる。 「朝は食べないとダメです! 食パン焼きますね」 「……ああ」  寝坊したという割には、昼食の準備は終わっているようだ。チェックの布に包まれたお弁当が目に入った。  それを遮るかのように、遠野が世話しなく目の前に皿を置く。野菜サラダと一緒にウインナーと目玉焼きが乗っていた。そして、カップには熱々のコーヒーを注いでくれる。何も言わなくても、全てが整ってしまう素晴らしい環境だ。 「もう少しで、パン焼けますからね」  矢神が一人で住んでいた頃は、忙しさにかまけて、食事を抜くことはよくあった。だけど遠野は、食事をしないことに関してすごく敏感だ。だから、彼と一緒に生活するようになって、食べないことの方が少なくなった。遠野は、健康には人一倍気を遣う。普段はいい加減なのに、そういう面はしっかりしているのだ。  そこまで考えて、矢神は苦笑した。いい加減なのは、自分の方だと。  常に軽い感じの遠野だが、前向きな性格で深く悩んだりしないから、いい加減に見えるだけなのかもしれない。現に彼は、何事にも真面目に取り組んでいた。 「思い出し笑いですか? 珍しいですね、矢神さん」  焼けたパンが乗った皿を置いて、遠野が席に着く。 「いや、自分に嫌気が差したんだ」 「矢神さんの嫌なところなんてないですよ。ほら、冷めないうちに食べましょう」  何も知らない遠野は、にこやかに答えた。その笑顔が胸に突き刺さる。  自分で決めた思いを彼に告げるべきなのか少し迷ったが、あとからバレるよりも、直接言った方がいいと考えた。 「あのさ、遠野には、きちんと言っておこうと思って」  矢神の真面目な低いトーンの声に、何かを感じたのか、遠野の顔から笑顔が消えた。 「なんですか?」 「……オレ、教師を辞めることにした」  そのことを聞いた途端、くだらないと言わんばかりの呆れ顔で遠野はため息を吐く。 「何を言うかと思えば、それ面白くないです。もう、エイプリルフールは終わりましたよ。そんな真面目な顔しても嘘だってバレバレです」  やっとの思いで言葉にしたのに、彼は全く信じていなかった。 「嘘じゃねーよ」 「それなら、辞める理由はなんですか? 教師の仕事が嫌になったんですか?」  むすっとした表情で、遠野は的確な質問をしてくる。 「教師が嫌になったわけじゃない」 「じゃあ、辞めなくてもいいじゃないですか。オレだって、辞めたくなるほど嫌なことたくさんありますよ。それでも、生徒の笑顔見てたら頑張ろうと思えます。矢神さんもそうでしょ?」 「そうだよ。だけど……オレは過ちを犯した」  絶対にしてはいけないこと。わかっていたから、決して間違いは犯さないと自負していた。それなのに――。  辞める理由は、言いにくかった。だが、このままでは信じてもらえないだろう。  遠野の目をまっすぐ見て、はっきりと口にする。 「楢崎が、オレと身体の関係があるっておまえに言っただろ。あれは本当だ」  急に遠野は、テーブルを叩くようにして立ち上がった。 「そんなわけないじゃないですか。矢神さんが生徒となんて絶対にありえません。それに楢崎くんは、男の子で」 「酔ってたんだよ。記憶が全くない」  ホテルで目が覚めた時、部屋には自分しかいなかった。だけど、誰かがいた形跡は確かに残っていた。 「記憶がないのに、どうして関係を持ったってわかるんですか」  遠野は、自分のことのようにむきになり、だんだんと声が大きくなっていく。 「楢崎が言ったんだよ。写真も持ってた」 「写真って本物でしたか? 嘘ついてるかもしれません」 「嘘はついてない。オレは生徒を信じてる」 「バカですか!」 「ああ、バカだよ。だから責任取って辞めるんだ。今日、辞表を出す。オレが教師を辞めるからって、すぐに家から出て行けって言わないから安心しろ」  このまま話をしていても埒が明かないと思った矢神は、そう言い捨てて、朝食を口にしないまま席を立った。 「ちょっと待ってください」  後ろからついてくる遠野に、怒鳴るように言う。 「おまえにとやかく言われる筋合いはない。これはオレの問題だ」  矢神の言葉に、遠野は悔しそうに唇を歪めた。  その日、一日、無事に授業を終えた後、矢神は校長室の前に来ていた。手には辞表を持ち、あとは扉をノックするだけ。しかし、その勇気がなかなか湧かずにいたのだ。  一晩じっくり考えて決めたことだった。それでも、辞めたくないという思いが、心のどこかに残っている。今でも、教師の仕事が好きだからだ。  大きくひとつ息を吐き、気持ちを固める。その時だった、後ろから声をかけられたのは。 「矢神先生」  振り返ると、そこには、矢神のクラス生徒、合田がいた。部活の途中なのか、終わった後なのか、合田は野球のユニフォームを着たままだ。こんなところで何をしているんだ、と尋ねる前に、彼が口を開く。 「ねえ、圭太とヤッたって本当?」  険しい表情で、矢神を睨んできた。楢崎から聞いたのだろう。やはり彼は、みんなに広めようとしているのか。それなら、早いうちに手を打たないといけない。更に気持ちが焦ってしまう。 「どうなんだよ」  すぐに答えない矢神に、合田は苛立ちを見せた。  彼に真実を言えばいいのか、嘘を吐いた方がいいのか、判断ができずにいた。それは自分の立場が危うくなるということよりも、楢崎のことを考えていたからだ。 「答えないってことは、認めるってことでいいの?」  ふと、合田は、矢神の手元に視線を落とす。 「ああ、それで辞表ってわけか。賢明だね」 「まさちゃん、止めて!」  今度は、楢崎が現われる。そして、その後ろからは、なぜか遠野が歩いてきた。  慌てて楢崎は、矢神の傍に駆け寄った。 「辞めるって本当なの? いやだ、先生辞めないでよ。それなら僕も一緒に辞める。先生がいない学校なんて意味がない」  矢神のスーツを掴み、弱々しい声を出してすがりつく。昨日までの自信たっぷりの楢崎とは、全くの別人のようだ。  楢崎に矢神が辞めることを知らせたのは、遠野なのだろう。自分では何もできないから、生徒を使うなんて汚いやり方だ。キッと、遠野を睨み上げる。 「圭太、おまえが辞める必要ないだろ。こいつが悪いんだから!」  合田は強引に、楢崎を矢神から引き離した。 「痛いよ、まさちゃん! 放して!」 「楢崎、合田の言ったとおり、オレが悪いんだ。おまえはこれから将来がある。巻き込むわけにはいかないんだ」  矢神は、楢崎を落ち着かせるために優しく言ったのだが、逆効果のようだった。 「違う! 違う!」  暴れるように、楢崎は合田の手を振り払う。 「いい加減にしろ、圭太!」  再び、楢崎の手を掴んだ合田に、楢崎は言う。 「先生は悪くない。ボクは、先生が好きなんだ、先生だけが僕をわかってくれた。先生だけが……」  泣き崩れながら、そう声を振り絞った。 「こんなヤツのどこがいいんだよ! 教師のくせに、平気で生徒に手を出すヤツなんだぞ!」 「まさちゃん……嘘だよ、先生とヤッたっていうのは嘘だよ。何もなかった。酔って寝てる先生を襲おうと思ったけど、できなかったんだ……」  楢崎の言葉を聞いて、矢神は少しだけほっとする。だが、ここまで追い詰めたのは、自分のせいなのは自覚していた。 「圭太、おまえ、オレにも嘘ついてたのか……」 「先生をボクのものにしておきたかったんだ、ごめんなさい、先生。だから辞めないでよ」  眼鏡を外した楢崎は、手の甲で涙を拭いながら懇願してきた。 「楢崎、本当のことを言ってくれてありがとう。だけど、これは先生の責任だ」  再度、校長室に向かう矢神の腕を掴んだのは、遠野だった。 「矢神先生は、真面目でまっすぐで素晴らしいと思います」 「だから、何だよ……」 「今回、矢神先生は何も悪いことをしてなかった。少しくらい甘くなってもいいじゃないですか?」 「でも、間違いが起きてもおかしくない状態だった。オレのせいなのは、はっきりしている。辞めて責任を取るべきだ」  遠野の手を振り解き、彼から視線を外した。それでも遠野は、引き下がらない。 「矢神先生が辞めた後、残された生徒たちはどうするんですか。違う責任の取り方もあると思います」 「えらそうなこと言うな!」 「だいたいのことはわかりました」  突然、校長室の扉が開き、廊下に校長が出てきた。これだけ、大声で話していれば、中に筒抜けなのはあたりまえだろう。 「矢神先生、この件は一度私に預からせていただけませんか? 遠野先生の言うとおり、辞めるだけが責任の取り方だとは私は思いません。生徒のために尽くすのも、また責任の取り方だと思います」 「……校長先生」  校長は、優しい笑顔を浮かべ、矢神の肩に静かに手を置いた。 「明日からまたよろしくお願いしますね。楢崎くんも、合田くんも、今日はもう遅いから私が送っていきましょう」  そう言って校長は、楢崎と合田を連れてその場を離れた。  脱力したように、遠野が両膝に手をついて肩を落とす。 「はぁー、良かった。これで、矢神さんは教師を続けられますね。もう、どうなるかと思いましたよ」 「……なんなんだよ、おまえは」 「矢神さん、わからずやだから、本当に苦労します」  やれやれというように、遠野は両手をあげて大げさな仕草をした。  矢神のために動いてくれた遠野に、有難い気持ちがなかったわけではなかったが、遠野の行動はどうしても矢神を腹立たせてしまう。 「オレの問題だって言っただろう。首を突っ込むな!」 「矢神さんが教師を辞めたら、オレは困るんです」 「だから、すぐには家から追い出さねえって」 「そんなことじゃありません」  遠野の考えが理解できず、矢神は首を傾げた。 「意味わかんねー。ああ、だけど、オレって全然ダメだな。辞めることしか考えてなかった。違う責任の取り方か……」  自分の不甲斐なさに、悔しい気持ちと情けない気持ちが、矢神の心を占めていた。 「教師だって人間なんですから、生徒と一緒に成長していくしかないんじゃないですか? オレが言うのも何ですが。矢神さん、まだ30年も生きてないんですよ」  遠野のくせに生意気だ。最近は、そう感じることが多かった。だけど、彼の言うことは正しい。 「そうだな。まだまだ、だな」 「生徒のことを第一に考えてるのは変わらないんです。これからもずっと」  矢神は、遠野の言葉に大きく頷いた。  その後、楢崎と合田は、何事もなかったように矢神と接してくれていた。たとえ、周りに誰もいなかったとしても、二人はあの話題に触れることはなかった。まるで記憶がなくなったみたいで、逆に不気味に思えるくらいだ。  だが、考えられることは一つだけあった。きっと、校長が彼らに話をしてくれたのだろう。  矢神は、校長に感謝するとともに、更に気持ちを引き締めるのだった。

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