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第二章【8】

「矢神先生、相談があるんですけど、これから家に来てもらえませんか?」  生徒とのことが落ち着いて、しばらく経った頃だった。嘉村にそう言われたのは。  思わず身構えてしまった。以前のように、おかしなことをされたら――そのことが頭を過ぎった。 「……相談って、学校じゃ話せないのか?」 「生徒のこともありますが、眞由美のことで、ちょっと。矢神先生に相談できる立場じゃないんですけど、誰にも話せなくて、すみません」  嘉村は、申し訳なさそうに頭を下げた。その姿に、くだらないことを考えている自分が馬鹿らしく思えた。  本当に悩んでいるんだとしたら、力になってやりたい。たとえそれが、前の彼女のことだったとしても。 「わかった。残っている仕事あるから、それ終わったら行くよ」 「ありがとうございます」 ***  遠野には、予定があるから食事はいらないとだけ伝え、嘉村に会うことは知らせなかった。前回の件があるから、言わない方がいいと考えたのだ。  詮索することなく遠野は、「わかりました」と笑顔で答えてくれた。深く追求されなくてほっとする。  何も悪いことをしていないのだから堂々としていればいいのだが、隠しているということに罪悪感を持ってしまうのだ。  同居しているからといって必ず食事を共にするというわけではなかった。各自の予定を優先して生活していた。  だが、主に食事を作る遠野が、頼んでもいないのに毎回矢神の分を作るから、自然と家で食事をするようになった。そのせいなのか、遠野と食事をしないことが悪いような気さえしてくるから不思議だ。   嘉村の家に行くのは、いつ以来だろうか。前はよく、仕事が終わった後に寄って、いろいろな話をした。 お互い悩んでいることに対してアドバイスをしたり、時には意見が食い違ったりして言い争いをすることもあった。だが、充実した時間だった。  矢神はそんなことを考えながら、嘉村の玄関のチャイムを押した。  扉が開き、顔を出した嘉村に、「どうぞ」と部屋に上がるように促された。 「これ、ビール買ってきたけど」  六缶パックの缶ビールが入ったビニール袋を渡せば、少し驚いた顔をして受け取る。 「よく覚えてたな」 「ああ」  彼の家に行く時には、矢神がビールを買っていき、嘉村がつまみを準備する、そんなルールが、いつの間にか出来上がっていた。 矢神は、以前と同じく行動を起こしたまでだったが、嘉村にとっては意外な行動に思えたのだろう。  それほど、こうやって二人で会うのは久しぶりだったからだ。  嘉村の部屋は、前に来た時と変わらず、モノトーンのシンプルな部屋だ。落ち着かないとかで、あまり物を置くのが好きじゃないらしい。テーブルにソファー、テレビがあるくらいだ。  そのテーブルの上には皿が二枚置いてあり、一枚にはチーズや小袋のスナック類、もう一枚には枝豆が盛ってあった。嘉村の方も、忘れずに準備していたということだ。  いつもは、ソファーに嘉村が座り、テーブルを挟んで向かいに矢神が座るというのが定位置だった。迷わず矢神はそこに座り、枝豆を摘まんだ。 「で、相談って?」 「ああ、相談ね」  缶ビール二本を持ってきた嘉村は、ソファーに座らず、なぜかテーブルの角を挟んで斜め横に座った。  おかしな感じを受けながらも、缶ビールのフタを開けて、ごくごくと喉を潤した。だが、そのビールはあまり冷えてなくてがっかりする。  嘉村の方も、缶ビールを口にして不満そうな表情を浮かべた。 「冷蔵庫に冷えてるのがあるけど、どうする?」 「いや、大丈夫だ」  ひたすらビールを飲んで、つまみを食べる。二人の間には、張りつめた空気が漂い、会話はほとんど続かなかった。  なかなか本題に入ろうとしない嘉村に、彼が相談しやすいよう、矢神が自らその名を口にする。 「眞由美のことだろ」  嘉村はふっと口元に笑みを作った。 「別れたよ」 「別れた? どうして」  思いもよらない嘉村の発言に、思わず身を乗り出す。相談というから、その前の段階だと思っていた。 「どうして? オレがあの女のことが本当に好きで付き合ってたと思ってたのか?」 「違うっていうのかよ」  嘉村は中指で眼鏡をあげながら、矢神の方を見た。眼鏡の奥の視線が、まっすぐと向けられる。 「あいつは、尻軽女だよ。おまえと付き合いながら、何人もの男とも付き合ってた」 「はっ、何だよそれ。そんなわけないだろ」  呆れるように言う彼の言葉は、信じられないものだった。嘉村以外に、彼女がそんな素振りを見せたことは、一度もなかったからだ。 「信じないだろ。かなり上手くやってたようだからな」 「おまえは、何で知ってんだよ」 「偶然だ。おまえ以外の男と一緒にいるのを目撃した。気になって調べてみたら、他にも男がいたのがわかった」 「……調べたって」  自分の利益にならないことは一切しない男なのに、そこまで行動を起こしていたことに驚いてしまう。 「オレが言ったところで、史人が女と別れないのはわかってた。だから直接、オレがあの女と関係を持ったんだ。それを知れば、史人は身を引くだろ?」 「引かなかったらどうする気だったんだ」 「絶対に身を引く。現にそうだった。おまえはそういう奴だよ」 「意味わかんねー」  矢神のためとはいえ、もっと違う方法があったのではないかと疑問が浮かぶ。  誤解が解けなければ、嘉村と矢神の関係は険悪ムードのままだ。二度と会わなくてもいい人間ならまだしも、職場が同じで、共に働いていく相手なのに、リスクが高すぎる。  たとえ信じてもらえなくても、絶対に説得の方を選ぶ。矢神はそう考えていた。 「そんなことはどうでもいいんだよ」  嘉村がごくごくと喉を鳴らしながらビールを飲んだ後、テーブルの上に缶ビールを勢いよく置いた。 「遠野のことだ」  彼の感情的になっている姿を見るのは珍しいことだった。だが、相手が遠野なら仕方がない。 「あいつ、また何かやらかしたのか?」 「いつからそういう関係になったんだ」 「関係?」  部屋を貸していることだろうか。嘉村の言っていることがわからなくて、首を傾げながらビールを口にすれば、急に腕を掴まれた。 その拍子に、持っていた缶ビールが床に転がり、カーペットを濡らす。  だが矢神は、それをすぐに片づけることができなかった。嘉村に組み敷かれていたからだ。 「……ビール、こぼれてるぞ」 「いいよ、放っておいて」  痛みを感じるほどの強い力で、嘉村は矢神の両腕を掴んでいた。  彼女と付き合っていたのは矢神のため、だったとしても、この行動はどういうことなのか理解ができない。 「いったい何なんだよ。文句があるなら口で言え」 「史人は、男もいけるなんて知らなかったよ」 「なに、言って……」  矢神の話を聞かずに、嘉村は頬に唇を寄せてくる。 「おい、離れろ」  嘉村から顔を背けて何とか抵抗を示すが、彼は止めようとはしない。 「遠野には許すのに、オレとは嫌だってことか?」 「何で遠野が出てくんだ、おまえの言っていることがわかんねーよ。ちゃんと説明しろ」  彼の身体の下で、手足を必死に動かすが、まるで意味がなかった。前の時もそうだが、体格はそんなに差がないはずなのに、嘉村のどこにこんな力があるのか。  不意に、耳元で囁かれた。 「オレは、史人が好きなんだよ」  その言葉に、目を見張る。 「え……?」 「遠野と付き合ってるんだろ。女に裏切られたからって、何でよりにもよってあいつなんだよ。諦めたオレの気持ちはどうなる」  首筋に唇を落としながら喋るものだから、嘉村の吐息がかかって、肌をくすぐる。 「ま、待て! 何でオレが遠野と付き合ってることになってるんだ、あいつは男だぞ」 「だから、男もいけるんだろ」 「オレはノーマルだ!」  きっぱり言う矢神に、嘉村は面食らったように眼鏡の奥の目を見開いた。 「ノーマルなのに、遠野とやったのか?」 「付き合ってないし、やってない。いいから、まずは、オレを放せ! 話はそれからだ」  納得したのか、嘉村は掴んでいた手をそっと離し、身体を起こした。強く掴まれていた腕に痕はなかったが、あまりにも痛くて、手を当ててさすった。  嘉村の方は悪いことをしたと思っていないらしく、そのことには触れずに話を続けた。 「付き合ってないのに、同棲してるのはどういうことなんだ」 「同棲じゃねーよ、同居。遠野が住んでた寮が壊されるっていうから、住む場所が見つかるまで部屋を貸してる。それだけだ」 「遠野が史人のことを好きなのはわかってるんだろ? それでよく一緒に住めるな」 「おまえ、知ってたのか?」 「あいつは、わかりやすいからな」  うるさいくらいに矢神のあとをついて回る遠野の行動を思い出して、沈んだ気分になった。生徒の楢崎でさえ、遠野の気持ちに気づいていたのだ。他にもいるかもしれない。  だけど、遠野が一方的に好きというだけのこと。それに、彼の気持ちが恋愛だなんて、誰にもわかるわけがない。 「遠野とは何もない。それは、あいつも踏まえてる」  眼鏡越しに目を細めた嘉村が、いぶかしげに見つめてきた。 「そうなのか?」 「それより……」  今はもっと重要なことに話を持っていくべきだと考えていた。話が逸れたから言うのを迷っていたが、後のことを考えれば、はっきりさせておいた方がいい。 「さっきの、嘉村がオレのこと……っていうの、なんつうか、さ」  上手く言葉にできなかった。好かれるのは有難いことだし、嬉しいことだ。だけど、恋愛感情となったら、また別次元の話になる。これ以上、嘉村とは気まずくなりたくなかったから、穏便に進めたかった。  それなのに嘉村は、一瞬意味が分からないというように眉を寄せる。そして、その後すぐに理解したようで口を開いた。 「ああ、それは、もういい」  悩んでいる矢神とは裏腹に、当の本人は涼しい顔をしていた。 「もういいって、からかったってことか?」 「遠野と何でもないなら、いいんだ」 「ホント、意味わかんねー。ビールくれ。おまえがこぼしたから、ないんだよ」  テーブルを叩いて催促する。すると、立ち上がった嘉村は、タオルを投げて寄こした。こぼれたビールを拭けと言わんばかりに。  ムッとしながらも、タオルでカーペットを拭いていれば、缶ビールを持ってきた嘉村が言う。 「だけど、史人が遠野とどうにかなるっていうなら、本気出すけどな」  唇を歪めて薄く笑みを浮かべていた。 「バカか、どうにもなんねーよ!」  嘉村の手から強引にビールを奪い、その場を誤魔化すようにビールを喉に注ぎ込んだ。  遠野が勝手に好きになっているだけで、矢神の気持ちに変化はなかった。このことに関しても、遠野から気にするなと言われている。  同居人で、職場での先輩と後輩、ただそれだけのこと。これからもずっと、この関係は変わらない。  矢神は言い聞かせるように、心の中で唱えていた。

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