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第三章【1】

 それは、突然に訪れたことだった。 「おまえ、何で、オレのベッドにいるんだよ!」  矢神の怒鳴り声が、部屋中に響き渡った。その瞬間、矢神の隣で寝ていた遠野が慌てるように飛び起きる。  昨夜は、年に何回か開催される教師同士の飲み会だった。矢神と遠野も参加していたのだが、酒が強くないうえに飲み過ぎた矢神は、記憶が曖昧になっていた。  飲み会の席では、二人は離れていたから会話することはほとんどなかった。解散後、帰る場所が同じだから、二人でタクシーに乗ったところまでは覚えている。それ以降の矢神の記憶は、全くなかった。思い出そうとしても、無理な話だ。  だから、なぜ矢神のベッドで遠野が一緒に寝ているのか、見当がつかなかった。  二人とも酔っ払っていて、ただベッドで眠ってしまった――それだけなら、矢神がこんなに大きな声を上げることもなかったかもしれない。  矢神の姿は、下着一枚だったのだ。 「しかも、オレ裸だし……おまえ、何か、したのか……?」  矢神に対して好意を持っている相手だからこそ、その言葉は発せられた。男同士がベッドの上で一緒に眠ろうが、通常なら何も起こらないのだ。  遠野の「何もしてません」という言葉を待った。万が一、何かあったとしても、彼の言ったことを信じようと思った。  だが、遠野は嘘がつけない性格だ。 「えっと、あの……」  どうにか誤魔化そうと考えているのかもしれないが、明らかに何かしたと言わんばかりの様子だ。 「はっきり言え!」  イライラしている矢神の怒鳴り声が再び響いた。すると、意を決したように、遠野が口を開く。 「あちこちキスして、触っちゃいました」 「なっ……!」  あまりにも正直に答えるから、何も言えなくなる。二日酔いのせいなのか、頭がガンガンと痛んだ。眉を寄せて、頭を押さえていれば、遠野が続けてとんでもないことを言う。 「でも、矢神さんが悪いです」  自分のしたことを棚に上げ、人になすりつけてくる。痛む頭を押さえたまま、遠野を睨んだ。 「は? 何でオレが悪いんだよ」 「だって、隙見せるから」 「何だよ、それ、意味わかんね。誰がいつ隙見せたよ。人のせいにするな!」  もっと、ましな言い訳でもすればいいものの、怒りを通り越して、呆れてしまった。  このまま話していても意味がないと感じた矢神は、とりあえず落ち着くためにも、シャワーを浴びようと思ってベッドから下りようとした。だが、すぐにそれを拒まれる。  遠野に腕を引かれ、後ろから抱きしめられたのだ。 「ちょ、待てって……」  一気に恐怖に変わり、声が震えた。  遠野が無理やり何かするとは思えなかったが、彼との体格差を考えると、押さえ込まれたらどうすることもできない。  何とか彼の腕から逃れようと必死に身体を動かす。しかし、遠野はそれを許さなかった。 「くっついていたい」 「離せって!」  拒否する矢神を無視するかのように、さらに力を込めて身体を抱きしめてくる。足で蹴ったり、肘でど突いたり、乱暴に動いてみたが、全くびくともしない。  その上、耳元に唇を寄せて、囁いてきた。 「好きです」 「それは、前に聞いた。いいから早く離せ!」  好きだからといって、やっていいことと、悪いことがある。気持ちを押し付けられていることに腹が立った。 「いい加減にしろ!」  それでも遠野は矢神の言うことは聞かず、腕に力を込め、その言葉を繰り返した。 「好きです、矢神さん」  矢神が何と言おうと、何度も同じことを口にした。そのうち、彼の言動が気の毒に思えてきてしまう。 「遠野……」  諦めるように暴れるのをやめれば、はっきりとした口調で遠野は言った。 「矢神さんが大好きです」  初めて彼に告白された時よりも、その想いは強く感じた。  だからといって、どうすることもできなかった。矢神の中には、彼への気持ちはないのだ。嫌いではないが、遠野と同じ気持ちを持つことはできない。  今までずっと、答えを出さずにあやふやなままにしていた。気まずくなるのを恐れて逃げていたのだ。だが、それがいけなかったのかもしれない。  彼が苦しんでいるのなら、いっそのこと――。 「あのさ、遠野」 「言わないでください」  矢神の言葉は最後まで言わせてもらえなかった。  何を言おうとしたのかわかったのだろうか。遠野は今にも泣き出しそうな声を出す。 「ごめんなさい、もうこんなことしませんから……」  そう言われた後、矢神は遠野の腕から解放される。  硬直していた身体を動かして、振り返ろうとしたら、遮断するように言われた。 「先に、浴室使わせてもらいますね」  彼が部屋から出て行く気配を感じて、すっと身体の力が抜けていくのがわかった。 「やっぱり、オレが悪いのか……」  矢神は、額に手を当ててため息を吐いた。  その後、気まずくならないでいられるのは、いつも遠野が、何ごともなかったような態度を取るからだった。  この時も、そうだった。 「二日酔いには、やっぱり味噌汁ですよね」  矢神も、そんな遠野に甘え、なかったことにしている。だから二人は、今までと変わらない関係を続けていられるのだろう。  だけど、本当にそれでいいのか、さっきの遠野の行動を思い出し、矢神は考えていた。  気にするなと言われても、遠野の気持ちが変わることがないのなら、これからだって起こり得ることだ。  そろそろ、はっきりさせた方がいいのかもしれない。  遠野の作った、しじみの味噌汁を啜りながら、痛む胸をどうにか落ち着かせようと必死だった。

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