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第三章【10】

 矢神は、遠野の帰りを待っていた。  夜中の1時を過ぎている。あまりにも眠過ぎて一瞬意識を失うこともあった。  今夜は帰ってこないかもしれない。それともここにはもう戻ってこないのか。  嫌な思考が頭を支配していた。  遠野が帰ってきている形跡はあったが、ここ最近は家で姿を見たことはない。  矢神に会いたくないという意思表示だろう。愛想を尽かされてしまったか。  そうだとしても、会える可能性があるのなら根気よく待っていようと思った。  今日がダメでも明日がある。家で会えないなら、学校で話すしかない。  どうにかして今の状況を打開したかった。  ブラックコーヒーを飲みつつ、睡魔と闘っていれば、時刻が2時になる頃、玄関の鍵がガチャっと開く音がした。  すぐさま玄関に向かう。自宅で見る遠野の姿は久しぶりだった。この家に帰ってきてくれたことに気持ちが安らいだ。  彼の方は矢神が起きていることに驚いたのか、一瞬、玄関で動きを止めた。そして、こちらの方を見向きもせず、ぼそっと呟く。 「すみません。遅くなりました……」  遠野からアルコールの匂いがした。 「そんなこといいんだよ。けっこう飲んでるのか?」 「ダメですか?」 「いや、飲みたい時だってあるだろ」 「オレ、シャワー浴びて寝ますんで」  バスルームに向かう遠野の腕を矢神は掴んだ。 「話がある」 「オレにはありません」 「いいから、こっち来い」  半ば強引に、遠野の腕を引っ張りリビングに連れて行った。ソファに座らせるが、こちらを向こうとしない。それでも話をすることにした。 「遠野と依田さんのことを聞かせてくれ」 「なんで矢神さんに話さないといけないんですか。関係ないでしょ」 「関係あるよ! おまえ、ずっと様子がおかしいだろ。生徒は怯えてるし、校長も心配してる。そんなんで教師なんて続けていけないだろ」  悔しそうに遠野は唇を噛む。 「オレに対してどんな態度でもいいよ。だけど、生徒のためにも学校では普通にしてろ」  何も答えてはくれない。沈黙が続くだけ。矢神の思いは、遠野に届かないのか。 「ずっと様子がおかしいのは、依田さんのせいなんだろ? 悩んでるなら話聞くから。今までオレにもそうしてくれたじゃないか」  矢神がピンチの時、必ずと言っていいほど支えてくれていた。それが痛いほど身に染みている。  だからこそ遠野のために何かしてあげたかった。 「……矢神さんに嫌われたくありません」 「余程のことがない限り、嫌いになんかなんねーよ」 「余程のことですよ……」  掠れるような声で言って再び黙ってしまう。  言い淀む遠野の姿に気持ちが揺れた。  彼の力になりたいという思いに嘘はなかった。だが、向き合うのが怖くなる。話を聞いて、本当に支えられるのか。  こんなにも話しにくいということは、彼の言うとおり余程のこと。頼りにならないから話をしたくないのでは。  ネガティブ思考のせいで、どうしても悪い方に考えてしまう。  遠野のように明るく導くなんてことは、そう簡単にできるものではないな、と己の無力さを知る。  小さく息を吐いた矢神は、頭をガシガシ掻いた。 「無理に話せとは言わないけど、とにかく学校ではもう少しどうにかしろ」  遠野はこちらに顔を向けず、ずっと下を向いたまま。  責めているような状態に心が痛んだ。  今回はこのくらいにしておいた方がいいのかもしれない。会話をしてくれただけでも、良しとしないと。 「遅くに悪かったな、疲れただろ。シャワー浴びて――」 「矢神さん……」  やっと矢神の方を向いた遠野は、すがるような視線を投げかけてくる。  助けてと言わんばかりの表情だ。暗く元気がないその姿は、今までの遠野とはかけ離れている。  少しやつれているようにも見えて、食事をきちんとしているのか心配になった。 「今日は一旦寝よう。話したくなったら、話してくれ。それまで待つから」  立ち上がろうとした瞬間、くいっと服の裾を引っ張られた。 「話します……」  遠野の横に座り直し、彼の言葉を待った。  しかし、やはり話しにくいのか、顔を伏せたまま膝の上で拳を握っている。  再び二人は、沈黙の中過ごすことになった。  こんな風に無理矢理話をさせることが、いい方向に向かうのかわからない。  逆に彼を傷つけてるのではないのか。  矢神が迷っていると、意を決したように顔を上げたから、思わず背筋を伸ばした。 「自分は、中学の時に男性が恋愛対象だということに気づきました」  遠野は、静かな落ち着いた声で話し始める。 「同性を好きになるなんて気持ち悪いから、誰にもバレないよう必死で。みんなとは違うことが苦しくて。友だちはたくさんいたけど、相談できる人は一人もいなかった」 「……辛いな」 「はい……。依田さんは、オレが高校生の頃に家庭教師をしてもらってたんです。勉強のことだけじゃなく、悩み事などもいつも親身になって聞いてくれる優しい人で。それでも、同性が好きということだけは彼にも打ち明けられませんでした」  時折目を伏せ、ゆっくりと言葉をつなげていく。 「だけど、ある時、依田さんもゲイだということを知ったんです。自分だけじゃないことに救われる思いがしました。それからは彼に何でも相談して。辛く苦しい思いを分かち合えることはとても心強かった。気づいた時には依田さんを好きになってました」 「うん……」 「依田さんは当時、他に好きな男性(ひと)がいたんですけど、それは叶わない恋だからと言って、オレが大学に入ってから恋人として付き合うようになりました。全てが初めてのことで嬉しくて一緒にいるのが楽しかった」 「……そうか」  話してくれたことに安堵しながらも、依田が遠野の恋人だったという事実に、ズキズキと胸が痛むような気がしていた。 「今日も、依田さんと会ってたのか?」 「会ってません」 「じゃあ、誰と?」 「……ひとりで飲んでました。家に帰って矢神さんに会ったら、また依田さんのこと聞かれると思って帰りづらかった」 「依田さんが恋人だったってことが知られたくなかったのか?」 「いえ……」  唇をかみしめて再び口を閉ざす。  ――まだ何かあるってことか。  続きを聞くには覚悟がいる。この場の重苦しい空気がそれを物語っていた。

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