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第三章【11】

  遠野を支えるためには、話を聞くことが必要だと思っていた。悩みを吐き出せば、多少は楽になるのではないかと。  しかし、遠野が話す姿はとても苦しそうで、辛くて見ていられなくなる。  遠野を気遣い、今日のところは話を終わらせようと思った。   「おまえ、疲れてるだろ。続きは明日にでも――」 「話してしまいたいです」    今にも泣いてしまいそうな表情でこちらを見てきた。   「わかった。話聞くよ」    矢神の言葉に表情を緩めたあと、すぐに、ふっと視線を逸らされ顔を俯かせた。  深い沈黙が広がる。部屋の中で、時計の針だけが静かに動いていた。  遠野のこういう状態はどうにも落ち着かない。  話しやすい環境を作ってあげられない自分は、教師としてはまだまだだなと感じた。   「実は……」  そこまで言葉にした遠野は、再び口を閉ざした。  目をぎゅっと瞑り、握り締めていた両手は微かに震えているようだ。  本当に泣いてるのかと思った。  こんな思いまでさせて言わせる必要があるのか。  聞かなくても彼を支えられる方法はあるはずだ。  それに矢神自身も、先を聞くのが怖いという思いもあった。    もういいよ――そう伝えようと思ったら、遠野は言いにくそうに口を開いた。   「依田さんと付き合いながらオレは、不特定多数の人と身体の関係を持ってました」 「え……?」    聞き取れなかったわけではなかった。ただ、遠野の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。   「軽蔑しますよね」    にへらと笑うが、それは作っていることがわかるような笑顔。   「えっと、あれか、やりたい盛りで、どうしようもなくなって……」    フォローしながらも依田がいるのになぜ、という疑問が浮かび上がる。  恋人だけどそういうことはしてなかったのか。   「……依田さんに、お願いされて」 「は?」    さらに予想だにしない言葉が返ってきて、一瞬呆気にとられた。だが、すぐに怒りが湧いてくる。   「依田さんが他の人と関係を持てって言ったのか? だって、恋人だったんだろ?」 「ゲイは相手を探すのが大変だから、紹介する人の相手をしてやって欲しいって」 「そんなの、どう考えてもおかしいだろ!」  あまりの怒りで声を荒げれば、遠野が一瞬、びくっと怯えるように震えた。 「悪い……」 「いえ、今思えばおかしいってわかるんですけど、ただあの頃は依田さんと恋人になれたことが嬉しくて、一緒にいたいという想いでいっぱいだったんです。だから、嫌われたくなかった」    笑みを浮かべて話すが、どこか悲しげな表情をしていてやりきれない気持ちになる。   「……好きでもない相手と、その、嫌じゃ、なかったのか?」 「嫌でしたよ。それでも逆らえなかった」    ――彼が好きだから、か。   「依田さんの傍にいたかったから、彼が紹介する男性と会うことはしばらく続けました。ある時、行為が終わった後、帰り際に相手の人がお金を差し出してきたんです」 「お金……?」 「なんですかって聞いたら、その人は急に慌てて、今のは見なかったことにしてくれって。問い詰めると『依田さんに支払うお金だ』と言いました。その時初めて、この関係には金銭が発生していてオレは売られていたことを知ったんです」    矢神は何も言えなくて、ただ黙って聞くことしかできない。  彼が語る思い出話はあまりにも悲惨で、矢神の想像をはるかに超えていた。   「依田さんにも問い詰めました。オレを金儲けの道具にしてたんですかって。彼は紹介手数料だと言いました。『無料(タダ)で何かを得ることなんて不可能だ。対価を得るにはそれなりの代償が必要だよ』と」  そこまで話をしたあと、遠野は重苦しいため息を吐いた。そして、再び話を続ける。   「ショックでした。自分と同じゲイの人の少しでも助けになるなら――そんな思いもあって、好きな人にお願いされたからあんな嫌なことを引き受けたのに」  苦痛に悲鳴を上げるように顔をゆがめ、遠野の声がどんどんかすれていった。  聞くに忍びなく心が鷲掴みに合うようだ。 「それでも彼のことは嫌いになれなかった。だけど依田さんには、『私は大稀(だいき)にお願いしたけど、最終的に選んだのは自分だよね。案外楽しんでたんじゃないの?』と言われて――」 「遠野! それ以上、無理に話さなくていい」    ――聞いているこっちまで胸糞悪くなる。   「……恋人だと思っていたけど、依田さんはオレを利用していただけだった。苦しくてしばらく何もできなくなりました。それからは連絡先も変えて、再会するまで会ってません」 「悪かったな。何も知らないで、連絡しろとか言って」    遠野がなぜあんなにも闇雲に嫌がっていたのか、話を聞いてようやく理解する。   「怖かったんです。矢神さんに全部知られたら嫌われるから。学校でも、みんなが知ってるんじゃないかと思ったら気が気じゃなくて。知られる前に辞めた方がいいのか、いっそのこと消えてなくなればいいのかとか、ぐるぐる考えて追い詰められて……」  心の傷は、そう簡単に癒されるものじゃない。  依田と再会したことにより、過去の嫌な記憶がフラッシュバックしたのだろう。  悩みなんて縁の遠い人物だと思ってた。  持ち前の明るさでなにごとも前向きに考え、嫌なこともすぐに忘れられるんじゃないかって。    ――そんなわけないよな。 「大丈夫か?」 「矢神さんに話したら、少し楽になりました」    こわばった表情のまま、無理矢理笑顔を作っている。顔は真っ青で、とても楽になったようには思えなかった。   「おまえのこと、嫌いになんかならねーよ」  矢神のその言葉は、気遣いというより、本音であった。   「確かに驚いたけど、昔の遠野は知らないし、おまえは今、そんなことするつもりないだろ? その時の後悔があって今の遠野があるんだから」 「矢神さん、かっこいい」 「バカ、茶化すな」    だけど、いつもの遠野に戻りつつあって、少しほっとする。   「依田さんには、連絡してないんだろ? もう会わなければ大丈夫じゃないのか」    矢神の言葉に、遠野は黙り込んでしまう。   「……連絡したのか?」 「一度だけ。矢神さんに接触しないでくださいって」 「なんで、オレなんだよ。自分と関わるなって言えなかったのか?」    再び、黙り込む。  はっきり拒絶できないということは、まだ、どこかに依田への気持ちがあるのだろうか。   「これからはもう連絡しないで、会わないようにすればいいんじゃないか」 「そうだといいんですけど。実は依田さん、お店をやってるらしくて」 「店?」 「風俗っていうんですか。男性に身体を売るお店で……」 「は? それって、遠野にやらせてたのと同じじゃねーか。商売にしちゃったのか?」 「今度はきちんとしたお店として。そこに来ないかって誘われていて」 「なんでそうなるんだよ。断ったんだろ?」  矢神はつい大きな声を出してしまう。話の内容がひどすぎて、どうしても怒りが収まらなくなるのだ。   「……きちんと返事をしてなくて」 「おまえ後悔してるんだろ? やるわけないよな。教師クビになるぞ」 「しません。だけど、断ったら過去にしてたことがばらされたらって」    遠野の表情にかすかな不安がにじみ出ていた。   「脅されてるのか?」 「そんなことをする人ではないんですけど……心配で」 「過去のことだって金銭絡んでたのおまえ知らなかったんだし、どちらかというと被害者だろ?」 「そうですかね……」 「依田さんとは関わらないようにしろ。あと、一人で抱え込むな。頼りないかもしれないけど、おまえの力になるから、な?」 「嬉しいです」  うっすら笑う遠野は、本調子ではないのが丸わかりだ。それでも笑ってくれたのは有り難かった。  遠野が依田と関わらなければ済む――そんな簡単なことでもないような気がした。  だから本人も周りに迷惑をかけるほど、悩み苦しんでいたのだ。  話をつけない限り、遠野自身はいつまでたっても安心しないだろう。  しかし、依田と二人きりでは会わせたくなかった。      翌朝、遠野が先に家を出たのを確認した矢神は、依田からもらったメモを見ていた。  そして、そこに書かれている番号を携帯電話に打ち込むのだった。

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