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第8話

 家に帰ると、緋嶺はお腹が空いたのを通り越して、気持ちが悪くなっていた。車に揺られていたから余計に酔って、フラフラと寝室に入る。 「一応、ここにも俺が結界を張っているから、とりあえずは安全だ」  鷹使は、何故か緋嶺がピンチだと優しい。緋嶺を護るという大義があるので当然なのだが、コートまで脱がせてくれるのは過保護のような気もする。と言っても、緋嶺はもう動けないのだが。 「うう……気持ち悪い……」 「少し待ってろ」  鷹使はそう言うと、寝室を出て行った。そしてすぐに、救急箱を持ってやって来る。緋嶺の前に座り、消毒液とガーゼを取り出し、彼の左人差し指を拭った。  何をするんだろう、とボーッとそれを眺めていると、彼はハサミも消毒し、なんの躊躇いもなく左人差し指の先を切った。 「ちょ、何して……っ」 「飲め」  躊躇う隙もなくその指を口に突っ込まれ、舌先に鉄の味と、鼻にその臭いが抜けた瞬間、緋嶺は脳天を突き上げるような強い感覚に襲われた。味と臭いへの嫌悪感とは裏腹に、緋嶺の両手は鷹使の手を掴み、人差し指を(ねぶ)る。 (身体が……勝手に……っ)  じゅぶじゅぶと音を立てて吸い上げると、口内に嫌なものが広がるのに、身体はこれ以上無いくらい悦んでいる。自分がどんな顔をしているかなんて気にする余裕はなく、興奮が収まるまでそれを続けた。 「……随分良い顔してるぞ? 相当飢えてたんだな」  鷹使は笑う。緋嶺は、ついには甘い吐息が出ているのも気にせず、恍惚とした表情で鷹使の血を吸う。 (肉も、欲しい……)  血だけじゃ足りない、と薬物にでも侵されたような頭で考え、緋嶺はその指を甘噛みする。指なのでそんなに柔らかくはないが、それでも歯に当たる肉の感触に、緋嶺の脳は焼けそうなほど興奮した。  すると鷹使は声を上げて笑う。強く噛むなよ? とその指を歯から逃れるように動かされ、考えようによっては卑猥な遊びをしているようにも見える。しかし今の緋嶺にはただ焦らされているだけで、イライラするだけだ。 「……どうにもお前は不安定だな。これも不確定要素の一つなのか?」  鷹使がそんな事を言うので、緋嶺は堪らず指を強く噛んだ。ゴリ、という骨の食感に、背中を震わせると血の味がより濃くなった。どうやら緋嶺の歯で、傷が付いたらしい。  しかし鷹使は顔色を変えることなく、緋嶺を好きにさせている。それなのに、緋嶺の理性が働いてしまった。 「なぁ、足りない……血だけじゃ足りない……っ」 「……なら指を食いちぎれば良いだろう」 「嫌だ……っ」  緋嶺はそう叫ぶと、鷹使は素直じゃないな、と指を更に奥へと入れられ、反射的にえずく。すると彼は指を抜いて、反対の手を緋嶺の下腹部に当てた。するとビクン、と身体が跳ね、その場にうずくまる。それでも離れない下腹部の手を、緋嶺は両手で離そうとした。 「逃げるな。こっちも興奮してるだろう?」  一体なぜかは分からないけれど、鷹使が触れると性的興奮がいつも伴う。しかもそれは苦しいほどで、気持ちがいいとは程遠い。 「うぐ……っ、……ッ!」  先日と同じように、内蔵の、性器の奥に触れられる感覚がして、緋嶺は床に転がった。 「……お前も、面倒な運命を背負ってしまったな……」  鷹使が珍しく感傷に浸るような声で呟く。しかし緋嶺はどういう意味か聞くことも叶わず、のたうち回る程の刺激にガクガクと痙攣し、気を失った。  緋嶺が目を覚ますと、自分の布団に寝かせられ、着替えもさせられていた。辺りは暗く、夜になってしまったらしい、と起き上がる。  鷹使はどこだろう、と寝室から出ると、リビングから話し声が聞こえた。そっと磨りガラスのドアを開けると、鷹使は誰かと通話をしている。 「……ああ、今起きた。また何かあったら連絡くれ」  鷹使は緋嶺がリビングに来たことに気付くと、相手との通話を切る。誰だ? と聞くと、協力者だ、と返ってきた。 「協力者……」  そう言って、緋嶺は鷹使の左手を見る。大きめの絆創膏を貼った人差し指を見て、緋嶺はいたたまれなくなった。 「あの……ごめんな?」  飢えていたとはいえ、傷付けるつもりは無かったし、今更ながらあんなに乱れた姿を見られて恥ずかしくなり、視線を逸らす。 「まあ、お前に噛まれて付いた傷は結構深かったからな。水仕事や風呂は滲みてしょうがない」 「お、俺がやるっ。……やりますっ」  あと、今は凄く身体が楽だと伝えたら、鷹使はそうか、とだけ返してきた。 「だ、だから……ありがとうございました……。今までの事も、全部含めて……」  面と向かってお礼を言うのは照れくさい。視線を思い切り逸らしてはいるけれど、伝えなければと緋嶺は言葉を絞り出した。鷹使は依頼で緋嶺を護っているのだ、仕事とはいえ、緋嶺の身体に触れたり、噛まれたりするのは嫌だろう。 「明日の天気は嵐か?」  鷹使は笑いながら言う。人がせっかく素直にお礼を言ったのに、と彼を睨むと、鷹使は見た事が無いくらい柔らかい笑顔で微笑んでいた。その笑みは天使という名に相応しく、緋嶺は思わず惚けてしまう。 「そっ、そーいえば、俺の護衛って母さんの依頼なんだよな?」  緋嶺はハッとして話題を変えると、鷹使はそうだ、といつもの顔に戻ってしまった。 「そもそも不可侵なのに、両親が出会ったって事は、どっちかがそれを破ったって事だよな?」  すると鷹使はそんなの決まっている、と目を伏せる。 「お前の父親……緋月(ひづき)だ」 「何で決まってんだよ?」  まるで母親のサラは、そんな事などしないとでも言うようだ。緋嶺は口を尖らせる。 「緋月……アイツは奔放で人の心に土足で入り込むような奴だった。そんな奴にサラは見初められて……」  心底憎々しげに語る鷹使。彼の話では、緋月が天使の世界に来た時、サラは彼を匿っていたそうだ。 「しかもだ、俺が緋月を見つけた時には、サラはもうお前を身篭っていた」 「はあ?」  緋嶺は呆れた声を上げる。記憶が無いとはいえ、我が父ながら手が早すぎる、と恥ずかしくなった。 「仕方なく俺まで共犯になって、緋月とサラを匿った。だがサラは緋月と出会って、俺が見たことの無い顔を見せるようになったんだ」  本当に愛し合っているんだというのは、二人の表情や態度で分かった、と鷹使は言う。  だから、異種間の交配が禁忌だったとしても、二人の絆が本物なら、穏やかに過ごさせてやりたいと思った鷹使は、産まれた緋嶺を見てその意思が固まったという。しかし隠し続けるのはやはり無理があり、鷹使はそれぞれの種族の長が集まる場所で、彼らを護るよう説得した。  しかし結果は、今までの掟と習慣を覆す事はできなかった。サラは種族長たちに処刑され、息子と逃げた緋月を追って大きな混乱が起きたと言う。 「多分その混乱の中で、緋月はお前を人間界に落としたんだろうな」  それに、と鷹使は続ける。 「サラは聡明で美人で、それでいて気さくな天使だった。憧れていた同族もたくさんいたから、彼女の遺言を護りたいという仲間がたくさんいる」 「そっか……」  どうやら母親の方は、みんなに好かれる性格だったらしい。それなら今の緋嶺の立場は、全て父親の緋月のせいであるという事になるわけだ。 「お前は?」  緋嶺は聞いてみた。何故、サラの遺言であり依頼を、聞いてみようと思ったのだろう、と。  鷹使は遠くを見つめる。まるで、そこにいないサラを思い浮かべたように。 「サラは大切な存在だったからな」  その声は何かを懐かしむような、切ない声だった。緋嶺は、サラの事を好きだったのかな、と思う。  今はいないその人を想う鷹使に、緋嶺はほんの少しだけ、同情した。

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