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第39話

 緋嶺は大きく足を振り上げると、かかとをロン目掛けて振り落とす。しかし彼はそれをすんでのところで避け、後ろに飛び去った。  彼が体勢を整える前にもう一度ロンの間合いに飛び込み、右ストレートを繰り出す。今度こそ当たったかと思ったけれど、また身体を回転させて避けられ、その勢いを利用して回し蹴りをされる。それは見事に緋嶺のうなじに入り、地面に倒れ込むと視界がチカチカした。 「……ッ、ぅあああああああ!!」  緋嶺はすぐに起き上がりざまに泥を左手で掴み、ロンの顔を目掛けて投げつける。その反対の手で同じく顔を狙って拳を突きつけると、ロンはそのどちらもひらりと避け、蹴りで足を掬い、緋嶺は派手に転んだ。 「【契】を自分で切ったか。私の真似を直ぐに実行できるのは、やはり勘は良いんだな」 「……うっ」  背中を地面に打ちつけ呻いていると、ロンは緋嶺の胸ぐらを掴んで持ち上げる。緋嶺は苦しくて顔を顰めると、彼は静謐ささえ感じる表情で緋嶺を見た。 「……私もお前一人のために、多くの種族を危険に晒されるのは我慢ならないんだ、死んでもらうぞ」  緋嶺は苦しさで霞み始めた意識でこう思う。  俺が死ねば、多くの種族を危険に晒さずに済むのか。  それなら、いっそ……。 「緋嶺!」  鷹使の声がした。緋嶺は反射的に胸ぐらを掴むロンの腕に爪を立てると、ロンの手が離れる。しかしすかさずその場で身体を回転させ、彼は蹴りを繰り出してきた。緋嶺は彼の足を脇で挟むように掴むと、身体全体を使ってその足を捻る。  けれどロンはその回転に逆らうことなく身体を捻り、逆にそれを利用して地面に手をつくと、もう片方の足で緋嶺の顔を狙ってくる。緋嶺は彼の足を離し腕で受け身を取ると、素早い動きで体勢を立て直したロンは、身を屈めて深く緋嶺の懐に入り、肘でみぞおちを打った。 「か……は……っ!」  どうやらロンは戦闘に慣れているようだ、身のこなしに隙が無く軽い。息が詰まった緋嶺はみぞおちを押さえてその場にうずくまると、また目の前に足が見えたので、後ろに転がって避ける。そしてすぐさま動けるよう、片膝を付いた状態でロンを見据えた。  その様子を見たロンは、眉間に皺を寄せた。 「……目が慣れてきたようだな。お前が生きていると迷惑なのに、なぜ抵抗する?」 「鷹使が……俺は望まれて産まれてきたと言ったからだ」  はぁはぁと息を乱しながら、緋嶺は立ち上がる。そういえば鷹使は無事か? と彼がいた方向を見ると──彼は地面に横たわっていた。 「鷹使!」  緋嶺はすぐ彼の元へ駆け寄ろうとするけれど、進路にロンが立ちはだかる。そして喉に腕が掛けられ、緋嶺はその腕を掴むと、そのまま逆方向へ連れて行かれた。そして再び車に投げつけられる。どこからその力が出るのか車の形は歪み、緋嶺は今度こそ意識が落ちそうなほど視界が眩んだ。 (ああ……鷹使、ごめんな……)  母さんとの約束、守らせてあげられそうにない。  動けないでいる緋嶺がそんな事を思っていると、ロンの手が緋嶺の首にかかる。すぐに気道を塞がれ息ができなくなり、本能的に彼の手を掴んだ。 「さっさと諦めろ。それが世界の為だ」  ロンが静かな声で言う。緋嶺は意識が無くなりそうだったので、それもそうだな、と納得しかけた。  すると覚えのある、鉄の匂いがする。──血の匂いだ。  美味そうな匂いだ。これは、この龍の血の匂いか?  緋嶺の意識が戻ってくる。 「血を寄越せ。……寄越せ、寄越せ寄越せ……っ」 「……くっ」  緋嶺は首を絞める龍の手を全力で離そうとする。しかし力は拮抗しているのか、なかなかその手は動かない。それでもどうにか声が出せるほど手が浮いたので、緋嶺は龍を睨む。 「お前の血を寄越せ……っ」  そこで初めて、龍は静かな表情から狼狽えた顔をした。手が少しずつ喉から離れていき、それでも龍は首を絞めようと力を込めてくる。  それならば、と緋嶺は掴んだ手を力強く握った。  ぐしゃり、と潰れる音がする。龍は途端に痛みに顔を顰め、手を引こうとした。しかし緋嶺は離さず、手首からだらんと垂れた龍の手を口に持っていく。 「や、めろ!」 「……お前、オレを殺そうとしていたセリフじゃないぞ、それは」  ()るなら、()られる覚悟はあるんだろうな、と緋嶺はその垂れた指に齧り付いた。ポキン、と音がして指の先を噛みちぎると、玉のような汗を額に浮かべた龍が見える。 「痛いか?」  食べた指を咀嚼しながら尋ねると、龍は緋嶺を睨んだ。 「お前は、やはり殺さねばならん……っ」  緋嶺は鼻で笑う。 「生きるか死ぬかは、オレが決める」 「ぐ……っ、──ッ!!」  龍の手を引き首筋に歯を立てると、ぷつりと肌が破れた。そこから溢れ出た血液を、零すまいと啜り飲み込む。天使の程ではないけれど、この龍の血もなかなか美味だ。緋嶺は満足するまで龍の血を味わい、ほう、とため息をついた。 「……肉はそれ程でもなかったな……」  どうやら種族によって味が違うのだろう。それではやはり、血も肉も美味しい天使が一番だ。悪魔は見るからに不味そうだし、麒麟は味が薄そうだ。  緋嶺は肉塊となった龍を捨てて、天使の元へ足を進める。確か鷹使とか言ったか……だが今となっては名前など、どうでもいい。 「おい、生きてるのか?」  緋嶺は足で天使を蹴って仰向けにさせる。反応はない。 「まあ、いいか……」  生きてようが死んでようが、これから食べるのだから関係ない。  緋嶺は天使を跨いで座り、身体を屈めた。そしてその白い柔らかそうな首筋に、歯を立てようとする。  その時だった。  天使の意識が急に戻り、緋嶺の下腹に触れられる。 「──あ……っ!」  触れられた箇所が火傷をしそうな程熱くなり、緋嶺はその手を離そうと天使の手首を掴んだ。しかし手はビクともしない。 「おい天使、手を離せっ」 「お前こそ、正気に戻れっ!」  俺を食べる気だっただろ、と睨まれ、緋嶺は天使を睨む。 「正気? これが本来のオレだ、血を啜り肉を喰らう、鬼だ!」 「だが心は違う! 人間に近い優しい心を持ってる!」  緋嶺は天使の首を絞めた。彼は苦しそうな顔をしながらも、下腹部の手は離さない。  何だこの天使は? なぜこんなにもイライラする事を言う? 「見ただろ!? 俺は索冥もセナも殺した! これが鬼じゃなくて何なんだ!?」 「お前のせいじゃない!」  緋嶺の目から唐突に涙が溢れ出る。力が抜け、鷹使の肩口に顔をうずめた。鷹使は緋嶺の下腹部から手を離すと、緋嶺の頭を優しく撫でてくれる。それが更に涙を誘い、声を上げて泣いた。 「二人とも、俺を気に入ってくれてたのに……っ! 俺が……っ」 「お前のせいじゃない……」 「挙句鷹使まで食べようとしてた! 俺、いま自分が一番嫌いだ!!」 「俺はお前が好きだよ。愛してる……」  緋嶺の言葉に、鷹使はひとつひとつ慰めてくれる。それが嬉しくて、でも自己嫌悪はなかなか止まらなかった。 「どうして……っ、なぁ? どうして両親は俺を産んだ!?」 「……緋月とサラが、一番愛し合った結果がお前だ」 「じゃあどうして俺が苦しまなきゃいけない!?」  こんなこと、鷹使に言ってもどうにもならない事は分かっている。けれど、両親が禁忌を犯したせいで、緋嶺が苦しめられているのは事実だ。 「しかもアイツら、さっさと死んで……親なら責任持って俺を護れよ……っ!」 「緋嶺……」  緋嶺は止まらない涙を拭うこともせず、子供のように泣いた。思えば記憶があるうちに、こんな風に泣くことは無かったな、と目を閉じる。  そして、こんな風に優しく慰められる事も初めてだ、と緋嶺は鷹使に思い切り抱きつく。  鷹使も緋嶺をきつく抱き締めた。

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