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サイドストーリィ③ セレナータ
※フランツとパウロが恋人同士であるお話です。
その瞬間、いっせいに深いため息が落ちた。
それは失望や諦め、落胆や後悔……おおよそ人が持ち得る否定的で消極的でマイナスな思考や感情が総動員され、各々が任務を完璧に遂行した結果、その場に集った人々がみな同じ行為をせざるを得なかったという散々たる成果の賜物であった。
ローマにあるドイツ大使館内の一室は、大勢のドイツ人で埋まっていた。大使館内で一番広い部屋は、臨時のパブリックビューイングとして開放されていて、中央には大型のプラズマテレビが置かれてある。その画面に映っているのは、四年に一度の祭典、ユーロ、UEFA欧州選手権であった。ヨーロッパの覇者を決めるこの大会は、ワールドカップ以上とも噂されるほどの華やかなもので、ドイツ代表チームは優勝候補の一角として前評判が高く、その評判どおりに全チームの中で唯一予選トーナメントを全勝で勝ち進み、続く決勝トーナメントではギリシャを打ち破って準決勝に進んだ。その相手チームとの試合が今日行われ、たった今終了したのだ。
つい一秒前まで激しい熱気と興奮で爆発していた室内の空気は、画面から流れてきた終了のホイッスルの音で魔法が解けたかのように、意気消沈として重く暗く沈んでいる。イタリア在住のドイツ人たちは、大使館が用意してくれた簡易椅子に行儀よく並んで座っていたが、みな頭を抱えたり、顔を覆ったりして、自国が負けたことを嘆いていた。
大使館勤務のフランツも例外ではなかった。普通にサッカーが大好きなフランツは、ユーロをとても楽しみにしていた。ドイツ代表チームの予選トーナメントでの闘いは素晴らしく、今度こそ優勝できると期待に胸を躍らせて準決勝を観戦したのだが、まさかの二対一の敗戦に、部屋の隅で周囲に劣らぬぐらいに落ち込んでしまった。
「……所詮こんなものだ」
その皮肉めいた口調に、フランツは両手で抱えていた頭をあげて、隣を見返した。第一書記官のハインリッヒ・シュナイダーが両腕を組み、顎をあげてテレビを指した。
「我々を騙すことにかけては、イエス・キリストが生まれる以前から国技になっている相手だ。どうすれば我々を負かして地団駄踏ませられるのか、子供でもわかっている」
まだ二十代のハインリッヒは歳に似合わぬ迫力ある顔つきで振り返ると、フランツを睨んだ。
「そうだろう、フランツ。イタリアなんだから」
テレビ画面では、喜ぶイタリアの選手たちやスタッフたちが延々と映し出されていた。
「……はあ」
イタリアに負けてがっかりしているフランツではあったが、その身も蓋もない言いように何と相槌を打てばいいのかわからず、曖昧な返事を返す。
「いいか、フラーンツ」
ハインリッヒはその優柔不断な態度が気に入らなかったのか、猛然とフランツへ向き直ると、何も知らない部下を叱咤する上官のように説教を始めた。
「我々が何度この国に騙されてきたのか! 古くはローマ時代、勝手に侵攻してきて勝手に境界線を引かれた! 挙げ句には身の毛もよだつゲルマン人と呼び、野蛮人の代名詞にされてしまったんだ! ルネサンスだってそうだ! ダ・ヴィンチやミケランジェロを支えたのは我々からふんだくった金だ! 祈れ祈れと騙して金だけ巻き上げたんだ! ルターが怒って当たり前だ! この試合のゴールだってそうだ! ドイツの真面目な選手を騙してゴールを決めたんだ! 本当に腹立たしい!」
「……」
喋っているうちに激昂してきて息も荒くなっている第一書記官を、フランツは困ったように見返した。古代ローマ時代とルネッサンス時代が、どうすればユーロの準決勝と結びつくのか正直わからない。宗教改革者のマルティン・ルターだって困るだろう。騙した騙したとドイツ語で連呼する書記官の赤ら顔を見ながら、ああそういえば付き合っていたイタリア人の彼女に振られたとかいう噂話を思い出した。どうもイタリア男に寝取られたらしい。
「勿論、試合は公正だった。本当に最後は惜しかった」
フランツが無反応なので、ハインリッヒは自分の荒ぶりに我に返ったように咳払いをした。
「イタリアも本当は良い国だ。イタリア料理は最高に美味しい。これでイタリア人がいなければもっと最高だろう」
はあ、とフランツは再び言った。プラズマテレビからは、ヴィーヴァ! イターリア! の大合唱が聞こえている。ハインリッヒの説教っぷりと相まって、どうも気持ちがすっかり落ち込んでしまい、がっくりと肩を落としたのだった。
その夜アパートメントへ帰ると、フランツは疲れたようにソファーに倒れこみ、しばらく横になっていた。帰宅途中、フランツの外見がものの見事な大柄の金髪碧眼野郎だったので、道端で決勝進出に沸くイタリア男から何度イターリア! と連呼されたかわからない。いい加減うんざりしたので、タクシーを拾ったが、今度が運転手がろくに前を見ずにうるさく話しかけてきたので、もう自分が運転して帰ろうかと思ったほどだった。
「まったく……」
ごろんと仰向けに転がり、額に手を置く。イタリアへ来てもう数ヶ月は経っているのだが、いまだにイタリアに慣れない。というより、イタリア人に振り回されているような気がする。つい先日も両親へ手紙を出しに郵便局へ行ったら、配達料金を間違って言われ、それを指摘したら、なぜか逆に怒られた。そんな細かいことを言うならスイスへ自分で出しに行けと文句を言われ、怒ったフランツは手紙を引っ手繰って飛び出て来た。セコいドイツ人め! と背中にぶつけられた嫌味が、いまだに拭い取れない。なぜ手紙の重さが普通なのに、小包の重さの料金で請求されなければならなかったのだ? それを指摘して、どうしてセコいと罵られなければならないんだ? それはアルプス山脈を越えて郵便物を出さなければならないほどのとてつもなく重大な罪なのか?……
フランツは痛くなってきた頭を庇うように、横向きになった。もう何も考えたくないと目を瞑る。だが、すぐに瞼を開けた。
――違うんだ……
自分がいやにネガティブになっている。サッカーで負けたためだけでない。
――元気だろうか……
仕事があるとミラノへ帰ってしまったのは、つい一ヶ月ほど前だった。その後電話が毎晩かかってきたが、二週間前にそれもぷっつりと途絶えてしまった。おそらく仕事が忙しくなったためだろうと、真面目にフランツは考えて自分から連絡を取るのも控えたが、あの甘くて優しい声も聞けなくなって、どうにも心が落ち着かなくなった。
「……パウ」
――もし俺に会えなくなって、寂しくなったら――
以前にパウロがベッドの中で囁いてくれた呪文を思い出す。
――俺だけを考えるんだ。俺の声、俺の囁き、俺の肌、俺の手触り、俺のキス――
――その他のものは何もいらない。フラを慰めることができるのは俺だけだ。俺だけでいっぱいにしてくれ――
――さあ、感じるんだ。甘いミツバチのような俺の愛撫を――
――フラ、俺だけのフラ……
フランツは急に熱くなってきた。まるで今耳元で囁かれた睦言のように、顔も赤くなり、鼓動も早くなってくる。
ああ、パウ。フランツは両腕で自分の体を強く抱きしめる。君の呪文は私をひどく苦しめる。地面をのた打ち回って狂いたいほどに、強烈だ。どうしてこんなに苦しまなければならないんだ。君の声を聞くだけで、私は安らかになれるのに。
――会いたい、パウ……
フランツはソファーの上で子供のように小さくなった。
その時だった。
フランツはそのけたたましい電話音で我に返ると、ソファーから文字通り飛び上がった。固定電話は通常だったら回線を引くのに一年以上かかると言われたが、外交特権とゲルマン魂を駆使して一ヶ月で設置させたものである。なくても良かったが、最後は意地になってしまった。その時の苦労を思い起こさせるかのような激しい電話の音に、フランツは何やら不安を覚えながら、受話器を掴むと自分の耳元に当てた。
「……Hallo」
Ciaoと言えばよかったが、勝手に口がドイツ語を喋った。おそらくドイツ人仲間の誰かだろうとは思ったが、受話器から聞こえてきたのは母国語ではなかった。
『Ciao、Fra』
そのなめらかで心地良いイタリア語に、フランツは思わず受話器を落としそうになった。
「パ、パウ?」
『そうだ。元気だったか? フラ』
電話の相手はパウロだった。
「げ、元気だったとも……」
つい一瞬前までの萎れた自分は地中海の彼方へぶっ飛んでいったようで、フランツはソファーに座り直すと、嬉しそうに返事をした。
「パウは? 元気だった?」
『いいや、全く元気じゃなかった』
「……えっ?」
フランツはびっくりして、目の前にパウロがいるかのように慌てて身を乗り出す。
「どうして?! 怪我をしたのかい?! それとも病気になったのかい?!」
『病気になった』
パウロの声が精彩を失くした。
『とても辛かった。こんなに辛いのは、俺の人生で今までなかった』
「パ、パウ……」
フランツは受話器を握りしめながら立ち上がると、どうしたらよいかわからずおろおろする。パウロが病気になるなど夢にも思わなかったフランツである。思わぬ事態に、大丈夫なのか、どんな病気になったのか、容態はどうなのか、様々な心配で頭の中がごちゃまぜになり、自分でもわけがわからなくなった。
『俺の病気を治してくれ、フラ』
パウロは懇願するように言った。
『俺を治せるのはフラだけだ』
「も、も、勿論だよ!」
フランツはどもりながら叫んだ。
「パウのためなら何だってするよ! シベリアだろうがサハラ砂漠だろうが行くよ! 私は何をすればいいんだ!?」
『今すぐ、ドアを開けてくれ』
パウロは甘えた声で告げる。
「ドア?」
フランツはリビングルームを出て、玄関のドアを覗く。
『そう、玄関のドアだ。さあ、開けるんだ、フラ』
促されるままに、フランツは受話器を耳に押し当てたまま、玄関のオートロック式の鍵を解除し、ドアを開けた。
「……パウ?」
そこにいたのは、携帯電話を手にしたパウロだった。
「会いたかった、フラ」
パウロは携帯電話を切ると、玄関口で受話器を片手に彫像のように固まってびっくりしているフランツを、両腕を広げて抱きしめる。
「……パ、パウ……」
いつのまにここへと言いかけたフランツの唇は、パウロによって前触れもなしに熱く塞がれた。
久しぶりのキスだった。
パウロは会えなかった日々を埋め合わせするかのように、たっぷりと時間をかけた。それはまるで微睡む眠り姫に目覚めの口づけをする王子様のようだった。眠り姫ならぬフランツは、どうしようもないほど胸が震えてときめいた。キスはとろけるように甘ったるく、肌という肌に触れられた甘いミツバチの痕が疼いた。
「もう修道士の生活とはさよならだ」
やがて唇を離すと、パウロはうっとりと呟いた。その言葉に、同じく頬を火照らせて息を吐いたフランツは、躰が頷いた。
「……私もだ」
わかっているというようにパウロは強く抱きしめた。
「俺は今すぐフラが欲しい。フラも俺が欲しいだろう?」
「……うん」
フランツの目が熱っぽく潤んだ。
それから二人はベッドルームへ行き、互いに衣服を脱がせあって、ベッドに入った。ベッドは広くて頑丈で、フランツの上にパウロが覆いかぶさっても、全く大丈夫だった。
「……ああ……あっ、ああ……あっ、はあ……」
ぞの頑丈なベッドは、パウロが行為を繰り返す度に、軋んだ。白いシーツはしわくちゃになり、二人の汗でべっとりと濡れている。その上で仰向けになっているフランツは、両足を開いて、パウロを受け入れていた。
「うっ……あ……うっ……ああ……あ……」
パウロはフランツの両足を抱きかかえて、腰を掴み、激しく揺さぶっている。パウロのペニスはフランツの恥部に深々と入って、さらに奥を何度も突いていた。突かれるごとに腰が浮きあがり、声があがる。
「……あっ……あっ……はっ……あ……」
恥部は白く汚れ、フランツのペニスも濡れている。だがパウロは行為をやめず、熱い息を吐きながら、フランツのペニスを握ると、自分の動きに連動させた。
「ああ、ああ……ああっ……」
フランツの声がかすれて速くなった。背を反らせ、その激しさに目頭を濡らす。
「あっ……パウ……」
フランツは息を呑み込みながら、声をあげた。ペニスから精液が垂れた。
「……今日の試合は残念だった……」
ふいにパウロが呟いた。
フランツは熱に浮かされた瞼をうっすらと開く。
「フラは……サッカーが好きだったから……ドイツが負けて……泣きべそをかいていると……思った」
「……パウ……」
「……だから……俺が慰める……」
パウロはペニスを手放すと、その手を伸ばしてフランツの頬を愛しむように指で撫でた。
「俺のフラ……」
誘惑するような眼差しで、パウロは顔を近づける。
「……パウ」
フランツはシーツの上に投げ出していた腕をゆっくりと手繰り寄せると、パウロの頬を手のひらで辿った。
「……ありがとう」
夢のようなため息を絡ませて、キスをする。
パウロは抱えていた両足をさらに折り曲げて、そのキスに深く吸いつく。絡みつくように、這うように、繰り返し重ねる。
同時に、折り重なった体が、再び行為をはじめた。
フランツは唇を封じられたまま、恋人の熱い背中を抱きしめ、その激しさと心地よさに身をゆだねていった。
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