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サイドストーリィ③ ラプソディア~君と見る夢~

※フランツとパウロが晴れて恋人同士になった後のお話です。  ……なぜ、自分はここにいるんだろう?  カウンター席に座って、透明なワイングラスを傾けながら、フランツはぼんやりと思う。つがれたワインは、グラスと同様に無色透明で、味は悪くはなく、グラスをさらに透きとおらせている。  ローマには、真実の口という有名な円形の石の彫刻がある。元は古代の下水溝の蓋だったと云われているが、その表面には海神トリトーネの顔が刻まれている。その開いた口に手を入れれば、嘘つきは手が抜けなくなったり、手首を切り落とされたりするらしい。そういう伝説がある。  ――自分にとっての真実は、このワイングラスだ……  フランツはグラスの表面を覗き込んだ。そこに映っているのは、自分の疲れたような顔である。   これを見れば、海神トリトーネもわかってくれるだろう。  フランツはため息をついて、グラスを口元へ近づけた。この真実を早く知らせなければ…… 「……うっ!」  激しく背中を叩かれて、あやうく含んだワインを吐き出すところだった。 「ハッハッハッ!! 見ろ!ゴールだ!!!!」  周囲でわき起こる大歓声は、耳の鼓膜を突き破る勢いである。  フランツは左手で口元を押さえながら、右手でワインをこぼさないようにグラスを掴み直した。イタリアに赴任してから、妙に手の使い方が器用になった。突発的な出来事にも瞬時に対応できるようになったのだと、自分では思うようにしている。 「ゴールゴールゴールゴォール!!!!」  興奮気味に肩を叩いてくる男を、フランツは露骨に迷惑そうに眺めた。自分をこんなところへ連れてきたのは、ピエルルイージ・カヴァッリ少佐である。イタリア国防省に勤務し、ドイツ大使主催のパーティーで知り合った。フランツの上司であるローラント・ルンメニゲ少佐の紹介もあったので、それから挨拶を交わすようにはなったが、今日前触れもなしにドイツ大使館を訪れて、こう言った。 「さあ、準備はできたかな?」  イタリア陸軍所属の軍人というよりは、ジゴロという生き方が似合っていそうな少佐は、男っぷりにあふれた顔立ちに、ニコニコと邪気のない笑顔を浮かべていた。  カヴァッリ少佐の軍服姿を見ても、最初フランツは何とも感じなかった。傍らにいた上司に用事があると思ったのである。  ところが、ルンメニゲ少佐はフランツの肩に手を置いた。 「準備はできたな、ツェーゲラー少尉」  まるで戦場で命令を下すように言う。  えっ? とフランツは上司の顔を見つめ返した。だが、感情に乏しく滅多に表情が崩れないと評判のルンメニゲ少佐は、この時も眉一つ動かさずに部下へ告げた。 「任務だ、行きたまえ」  えっ?? と再び、フランツの頭の中でクエスチョンマークが飛び交った。それにアンサーを出したのは、カヴァッリ少佐である。 「よし、すぐに車に乗るんだ、少尉」  状況が全く呑み込めないフランツを引っ張っていき、フィアット社製の車に押し込むと、意気揚々と出発した。  車内で交わした会話は、フランツの理解したところでは、つまり、今からサッカーの試合を見に行くということだった。イタリア人はカルチョと呼ぶ、サッカーリーグセリアAで、今日はここローマを本拠地にする二つのチームが激突する日なのだそうである。 「デルビーなんだ!」  カヴァッリ少佐はまるでローマに敵兵が侵入したかのような怖ろしい声をあげる。 「負けられない! 絶対にあいつらに勝つんだ!!」  ……要約すると、ローマーダービーと呼ばれる試合で、カヴァッリ少佐の言葉をそのまま述べれば、自分は片方のチームのティフォージなのだそうである。つまり、カヴァッリ少佐はローマ出身ということになる。  サッカーのダービーは、通常の試合よりも熱く激しい内容になるのは、イタリアだけではなくドイツでもそうだ。同じ都市の同じスタジアムを本拠地にするチーム同士なら、間違いなく都市を二分するような戦いになるはずである。  だがフランツは、一番重要なことがわからなかった。その試合を見に行くのに、どうして無関係のドイツ人である自分が連れて行かれるのかということである。 「だって、ドイツ人だろう?」  カヴァッリ少佐はろくに前も見ないで、ハンドルを切る。 「サッカーは、最終的にドイツ人が勝つスポーツだって、イングランド人が言っていたじゃないか。一緒に応援してくれ」 「……」  ポカンとして二の句が告げないでいるフランツを乗せたまま、車はローマの下町を走り、スタジアムではなく、どこかのバールに到着した。バールはカフェを飲んだり、軽い食事をしたりする喫茶店のような場所だが、いかにも地元の住人たちが集まる小規模な店の前で、フランツは唖然と立ち尽くす間もなく、中へ押し込まれた。そこは大勢の人間たちの熱気で埋まっていた。明らかに地元の男たちで、カヴァッリ少佐同様のティフォージなのだろう。室内の中央には、大きなテレビが置いてあり、スタジアムの様子が映し出されていた。ちょうど選手たちが入場してくるところで、青いユニフォームを着た選手たちが映ると、一斉にブーイングが鳴り響いた。次に赤いユニフォームを着た選手たちが登場すると、拍手と口笛と歓声が地吹雪のように巻き起こった。やがてローマ訛りのイタリア語が矢のように飛び交う中で、試合は始まった。  フランツはすぐにカウンターの隅へ押しやられた。試合が始まる前から血気盛んなイタリア人の中にいて窒息死しそうだったので、大人しくはじっこに座り、とりあえずエスプレッソを頼んだ。しかしバリスタも試合に夢中になっていて、客の注文も聞いてくれなかった。何度もしつこいぐらいに言って、ようやく出されたのはワインだった。せめて、ビールにしてくれれば自分も幸せになれたのにと、無駄に思ったフランツであった。 「ゴォォォ―――ル!!!」  カヴァッリ少佐は無理やり連れてきたドイツ人がいかに不機嫌であるかということも知ったことではないようで、子供のように飛びあがって喜んでいる。  ――とにかく、ここから生きて帰らなくては……  全員の頭に血がのぼっている興奮状態の中で、ただ一人取り残されたフランツは、ひたすらワインを飲んでいた。唯一の救いなのは、サッカーの試合がイタリア対ドイツではなかったことだ。もしそうであったら、自分は生きて祖国の土を踏むことはなかっただろうと、眩暈がするほどイタリア語が乱舞する周囲の騒がしさに、ズキズキと痛む頭を押さえながら思った――  結局、ダービーは赤いユニフォームのチームが勝利した。歓喜の雄叫びでひっくり返るバールを後にして、カヴァッリ少佐はフランツを乗せて、自宅へと向かった。運転席の少佐はもう喜び爆発で、ハンドルを叩きながら喋りまくっているが、助手席のフランツは病人のようにぐったりとしていてそれどころではなかった。いつまでも途切れない会話の独奏を聴きながら、大使館が多くあるバリオリ地区を通り過ぎ、少々離れた治安の良い地区にある高級アパートメント前に到着して、ようやく解放された。 「良い夢を、少尉」  まともな挨拶を最後に残して、カヴァッリ少佐の車は夜へと消えてゆく。フランツは余計に疲れて、重い足を引きずるようにアパートメントの玄関へと向かった。  ――だからルンメニゲ少佐は、私へ押しつけたんだな。  階段を上りながら、今さらながら上司を恨んだ。おそらくルンメニゲ少佐が最初は誘われたに違いない。だがカヴァッリ少佐とのつき合いの経験上、部下を非情にも差し出したのだろう。そう考えれば、合点がゆく。  ――私は行きたいとも言っていないのに……  凍った湖のように冷たい能面顔の上司と、周りの迷惑を全く考えない台風のような少佐を交互に思い浮かべながら、通路を這うような重たいため息を吐く。  ――疲れた……  静まり返った通路で、自分の歩く靴音だけが、周辺に反響している。  胸の奥に大切に仕舞っていた想いが、孤独感を癒そうとするかのように、ゆるやかに流れてきた。それは温かくて、優しくて、笑っていて、慰めてくれて、キスしてくれて、抱きしめてくれて……  ……誰よりも愛しくて……  肩の力がぬけて、気持ちが和らぐのを感じた。彼を思い出せば、どんなに大変な時でも心がほっと安らぐ。  ……会いたい。  叶うならば、今すぐミラノへ飛んで行きたかった。  フランツは玄関の鍵をあけながら、諦めたように息を吐いた。そんな夢のようなことを思うと、さらに惨めな気分になった。  俯きながら玄関の扉を開けて、ピタリと動作が止まる。  奥の部屋から、明かりが洩れていた。  とっさにフランツは、扉の影に身を隠す。誰かが部屋に侵入している――このアパートメントは独身者の外交官専用で、一般人は入居できない。セキュリティも厳重で、一階の入り口にはイタリア人の警備員が二十四時間常駐している。にもかかわらず侵入者を許したことに、軽い衝撃を受けた。  ――警備員は居眠りでもしていたのかもしれない。  フランツは本心からそう思って、気配を殺しながら室内を窺った。泥棒か、もしくはスパイか。明かりを堂々とつけている様子に、よほど豪胆なのかまたは頭が鈍いのか、判断に迷った。  ――通報しなければ……  警備員は起きていたはずだと自分の記憶を確かめていると、奥の部屋のドアが開いた。 「……フラか?」  その聞き覚えのある声に、フランツの思考が一瞬停止する。 「フラだろう? 待っていた」  優雅に近づいてくる靴音が、フランツを夢のような現実へと導く。 「……パウ」  遠く離れたミラノにいるはずの恋人が、目の前にいた。 「どうやってここへ……」  呟きながら、フランツの心は嵐に襲われたように震えた。会いたいと願っていた相手が、今自分の前に立っている。信じられなかった。 「フラを驚かせてやりたくて、中へ入れてもらったんだ」  パウロは屈託なく笑う。それはいつもの人を魅了してやまない姿で、誰が入れたとか、どうして入れたとか、そんなものはフランツの頭から吹き飛んで消えた。 「……驚いたよ……」  気持ちが昂ぶって言葉が詰まり、息を吐くようにようやく言った。 「本当に、驚いた……」 「フラが驚いてくれて、俺も安心した」  パウロは玄関でぼう然としているフランツの背中を押し、室内へ入れた。扉を閉めて、馴れた手つきで鍵をかける。  フランツは狂ったようなワルツを踊っている胸を手で押さえながら、パウロを振り返った。その顔を覗き込むように、パウロはフランツの肩に手をやる。 「会いたかった、フラ」 「……わ……私も、も、もちろん……」  フランツはすぐに言葉が出てこなかった。パウロの声を感じるだけで、眩暈と興奮でいっぱいになった。  パウロはそんな心中を見透かしたかのように、艶めいた微笑を浮かべると、肩に置いた手をすべるように動かして、フランツの頬に触れる。 「本当に、会いたかった……」  優しく顔を寄せて、自然に唇を塞いだ。  フランツもエスコートされるようにパウロの背中に腕を回し、そのキスに従う。久しぶりの熱い感触は、フランツの意識を塞ぎ、全身を惑わせた。   二人は、深く深く唇を重ねる。相手の息遣いすら奪うように、キスをし続けた。  やがて、パウロは名残惜しそうに唇を離す。 「……疲れているようだな、フラ」 「……そんなことはないよ」  乱れた呼吸を繰り返しながら、フランツは苦笑いした。 「俺に嘘をつくな」  お見通しだと言わんばかりに、パウロはフランツの頬を撫でる。 「誰かの車に送られてきたようだな」 「――違う、パウ。あれは……」  フランツは慌てて否定しようとした。だが、どこから眺めていたのかわからない恋人の得体の知れない笑みが遮った。 「あとで聞く」  パウロはフランツを両腕で抱きしめて、その耳元に囁く。 「この軍服を脱がしてからな……」  フランツは耳たぶまで赤くなった。  パウロは可愛い苺でも摘むように、その耳たぶを指の先でいじる。 「まずは、食事をしよう、フラ。一緒に食べたくて、ずっと待っていたんだ」  食卓には、美味しそうな匂いが漂っていた。バジルのパスタに、オリーブオイルと塩で食べる新鮮なサラダ、生ハムにチーズ、そして赤ワイン。全てパウロが用意したものである。  二人は向かい合って座り、料理を食べた。食べながら、会話を楽しんだ。久しぶりのパウロとの再会は、フランツから疲労困憊という現実を忘れさせた。 「今日は、さんざんな日だったんだ」  茹でた白アスパラガスを食べながら、フランツはカヴァッリ少佐につき合わされた経緯を話す。 「神に与えられた罰かと思ったよ」  その言い方に、パウロはくっくと笑った。 「ダービーだったら、仕方がないな。他にやることがないんだろう」 「ミラノでも、同じようなダービーがあるのかな?」 「ある」  へえっとフランツは興味をもった。サッカーは好きだが、地元ドイツのサッカーリーグしか知らないのである。 「だが、俺は興味がない」  パウロはあっさりと言った。フランツは意外に思った。 「サッカーは見ないのかい?」 「見ないな」  フランツは少々驚く。サッカーは、ヨーロッパに限定しても、ナンバーワンに人気のあるスポーツである。各国にサッカーリーグがあり、さらに主要なリーグの上位チームが対戦するチャンピオンズリーグがあり、世界規模のワールドカップがある。特にイタリアはサッカー熱が激しい国で知られ、セリエAはヨーロッパの三大リーグの一つに数えられているほどの規模だ。普通にパウロもサッカー好きだと思っていた。 「でも、パウらしいね」  今日のカヴァッリ少佐のように、ゴールゴールと叫んで飛びあがるパウロの姿など、死んでも想像できないフランツである。 「そうか?」  パウロは切ったチーズをフランツの皿へ振り分けた。 「俺の興味は、別な方に向いているからな」  食べやすい形になったチーズを口元へ運びながら、謎めいた眼差しをフランツへ向ける。  鈍感なフランツは、興味って何だろう? と単純に首を傾げただけで終わった。  二人の会話は、まだまだ続いた。それはお互いに身近で些細なことを語りあって、笑ったり、喜んだり、びっくりしたり、ジョークを言ったりと、日常の何気ないものだったが、フランツは本当に楽しかったし嬉しかった。 「ジェラートを持ってくる」  テーブルの料理が片付くと、パウロは椅子から立ちあがった。 「……もしかして、それも作ってくれたのかい?」 「そうだ、フラに食べて欲しくてな」  フランツは何も残っていない皿とパウロを見比べて、素直に感嘆した。 「あ、ありがとう、パウ」 「気にするな、俺は尽くす男なんだ」  パウロはお惚気のようなことをさらりと言って、ダイニングキッチンへ消えた。  フランツの頬が恥ずかしそうに火照る。再会した日のパウロとの行為、その夜の告白と熱い逢瀬が息を吸うように甦って、にわかに落ち着かなくなった。  目の前にある赤ワインに目がいく。無色のワイングラスが、半分まで赤く染まっている。きっと自分の顔が映ったら、バールでの疲れた自分ではないだろうと思った。こんなにもパウロを求めているのだから、と。  食事を終えた二人は、そのまま寝室へ向かった。  パウロは丁寧にフランツの軍服を剥ぎ取っていき、フランツもまた無骨な手つきでパウロを裸にした。  二人はキスをしながらベッドに沈む。  フランツの軍人らしい厚い胸に、パウロの深い口づけの痕が刻まれてゆく。  かすかな息遣いとかすれ声が交じりあい、躰もまた重なってゆく。  甘い夢を見るのは、これからだった。

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