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第1話

人気のない営業部のフロア、天井に取り付けられたエアコンから断続的に吹き出す風は、日中の設定温度よりも少し低めで風量もやや強めだ。 社内ではエアコンの設定温度を二十八度と定めているが、正直あまり涼しいとは言えない。だが、冷え性の女性社員からはこれでも寒いと苦情がくる。 灼熱のコンクリートジャングルを駆け回り汗だくで帰社したとしても、汗がひいてくれるのは、この室温に体が順応するのを待つしかない。 そんな周囲に気兼ねなく設定温度を下げ、風量も強くしているのは、このフロアに二人しかいないから。 いつもは人が行き来し、ひっきりなしに電話やコピー機の音が響いているここも今は閑散としている。 子供を持つ家庭ではもう学校も夏休みに入り、盆休み前に最低一度は家族サービスを強いられる。 そのために休暇をとる者が多く、定時退社するものも少なくない。 そんな中で独身者である俺――神田(かんだ)隼人(はやと)と、同期である須永(すなが)蒼平(そうへい)はその尻拭いをさせられているのだ。 期日厳守の見積書、新規取引先データの入力……。 デスクに積み上げられたコピー用紙がエアコンの風にそよぐのを視線の端にとらえながら、黙ったままキーボードを叩いていた。 ふと隣に座る須永に視線を向ける。 パソコンの液晶画面を見つめる真剣な眼差しは、シルバーフレームの眼鏡レンズにパソコンから発せられる光が反射して伺い知ることが出来ない。 自分とは違い営業成績も優秀で、何よりイケメンだ。有名大学を出て、なぜこんな二流企業に就職したのか不思議に思う。 口数も少なく、インテリ然としていて近寄りがたいオーラを放ってはいるが、女子社員にはかなり人気があるらしく、毎日のように誘いのメールが来ているようだ。 しかし、彼はその誘いを実にクールに、かつ相手を傷つけないように断っている。 かなり女性の扱いに慣れているようにも見える。 やはりこれほどのエリートになると、すべてスマートにこなせてしまうのだろう。 不器用で、顔も十人並みの俺には到底出来ることではない。そんな須永に嫉妬しつつも、憧れを抱いていることは秘密だ。 同期ではあるが、彼とは必要最低限の会話しか交わしたことがなかった。そんな彼と二人きりで残業する羽目になるとは……。 俺にとっては苦痛でしかなかったが、口煩い部長と二人きりになるよりはマシかと腹を括った。 「――おい、エアコン寒くないか?」 話しかけるきっかけとしてはベタすぎるが、ずっと黙ったままというのも息苦しい。 俺の声に顔をこちらに向けた須永は「いや」と短く答えただけで、再びキーボードを叩き始めた。 「コーヒー、飲むか?アイスでいいよな?」 「ああ……」 今度は顔も向けずに答えた。本当に愛想のない男だ。女子社員には、今はきつく結ばれている薄い唇に妖艶な笑みを湛えてて話すというのに……。 どれだけ女好きなんだと思いたくなる。 俺は椅子から立ち上がると、給湯室の冷蔵庫からアイスコーヒーが入ったボトルを取り出し、プラスチック製のカップに適当に注いだ。 シロップとミルクぐらいは自分で取りに来てもらうつもりで、両手にカップを持ちデスクに戻った。 そっと彼のデスクの邪魔にならない場所にそれを置いて、自分の椅子に腰かけて背凭れに体を預けた。 ギシッと椅子が軋み、腰の骨がポキッと小さく鳴った。 「お前もちょっと休んだら?」 冷えたコーヒーを喉に流し込んで小さく息をついた。 俺の方は少し目処がたってきた。さっさと片付けて帰りたいという気持ちはあったが、閉めきったマンションの部屋はかなりの高温になっていることだろう。 今夜は熱帯夜で寝苦しい夜になるとネットニュースに流れていた。 エアコンをフル稼働させたところで、快適に眠れる温度になるまでにはかなりの時間がかかる。それならば、外の気温が少し下がるまで、この涼しい会社にいてもいいかなと思い始めていた。 いつからこんな弱気な体になってしまったのだろう。 俺の実家は小さな港町にあり、子供の頃は日焼けした真っ黒な体で砂浜を走り回っていた。もちろんエアコンなんてモノはなく団扇が基本で、欲を言うならば扇風機があれば上等だった。 家中の窓を開け放って、冷たい畳の上に大の字になる。 夜になるとひんやりとした潮風が、昼間熱せられた肌を優しく撫でてくれた。 もう何年も帰っていない。最後に帰ったのは父親の葬儀の時だっただろうか……。 (今年は帰ろうかな……) コンクリートとアスファルトに囲まれ、隣に住む人の顔さえも知らない都会に来て、知らないうちに薄れてしまった故郷への思い。 どこまでも続く青い海に真っ赤な夕日が沈むのを見届けて、薄闇が近づく頃海岸から打ち上げられる花火を見上げては夏を感じていた。 ここではそんな景色は見ることは出来ない。どこに行っても人と車に溢れ、ただ蒸し暑い風が纏わりつき不快感しか感じられない。 懐かしい港町の風景を思い出して感傷に浸っていた時、隣でギシッと椅子が軋んだ。 はっと我に返ると須永が椅子に凭れながらコーヒーを飲んでいた。 「はぁ……。さすがにキツいな」 独り言なのか、はたまた俺にかけた言葉なのか判断に困っていると、彼はゆっくりとこちらを見た。 「――終わりそう?」 「え?あぁ……先は見えた。お前は?」 「俺もだ……。もう、明日でもいいかなって思ってる」 「帰るのか?」 「考え中……」 聞かれたら返すという淡々とした会話ではあったが、須永とあまり話す機会がなかった俺としては新鮮だった。 意外とフツーというか――人間らしいなと思ったりして。 その時、窓の外が微かに明るくなり、遅れてドンッという音が聞こえた。 その音が静かなフロアにやけに大きく聞こえて、俺は急いで立ち上がると閉められていたブラインドを上げた。 腰の高さから天井まで届くほどの大きなガラス窓の向こう側は高層ビルが幾重にも連なっている。 そのわずかな隙間から見えたのは、霞んだ夜空を明るく照らす大輪の花火だった。 「うわ!今日どこかで花火大会かっ?」 ビルの隙間から見える色とりどりの火花が闇に散っていく。 それは幼い頃に見た海に浮かぶ花火にどこか似ていた。 キラキラと瞬きながら波の合間に消えていく光はどこにいくのだろう。揺蕩いながらゆったりとした時間を旅するのか。 そして今、ビルの合間に散り落ちた光は、やはり冷たいアスファルトの上に無情に消えていくのか。 それがまるで自分のように思えて、少しだけ寂しくなった。 どうせなら、ゆったりと暮らしていきたい。だけど現実はそう甘いものではない。 「――子供の頃、真っ暗な浜辺で花火見るの、好きだったんだよね」 「え……?」 「俺の実家、小さな港町でさぁ、ホントに何もないの。遊ぶ場所は自分たちで探して、疲れたら日陰で寝転んで。くたくたになるまで遊んで、帰る前に海岸から打ち上げられる花火見て……さ」 「神田?」 「その大きさに感動したもんだけど、ここで見る花火は遠くて……なんだか寂しいな?」 窓辺に置かれたキャビネットに両手をついて窓の外を見つめる。 外の景色になぜか須永の姿が重なって、はっと息を呑んだ。 ガラス越しの彼はトレードマークとも言えるシルバーフレームの眼鏡をそっとはずすと、俺の腰に両手を回してきた。 薄いワイシャツ越し、背中に須永の体温を感じてガラスから目をそらした。

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