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第2話

「何……やってんだよ?」 「――やっぱりムリだ」 「何が?仕事残ってるなら明日やればいいだろ?ムリするなよ」 「違う」 「なんだよ、それ……」 長身の彼が顔を寄せると、ちょうど俺の項の辺りに鼻先が触れた。 深呼吸にも似た息づかいが耳元で聞こえ、俺は身を強ばらせた。 日中かいた汗の匂いを須永に嗅がれていると思うだけで、羞恥に全身の毛穴から汗が吹き出しそうになる。 申し訳程度につけた香水も、すでにその効力を失っている頃だ。 「――手ぇ、離せよ。疲れてるんなら先に帰れって」 「帰らない」 「じゃあ、離せ。俺、仕事するから」 「イヤだ……離したくない」 「何なんだよ……」 何を言っても離れようとしない須永に小さくため息をつくと、時間差ではあるが断続的に音を立てて夜空を明るく染める花火を見つめた。 前に回された須永の手が、何か縋るものを探すかのように宙をさ迷っている。 尻の辺りに押し付けられた彼の下半身が心なしか兆しているのが分かる。 (まさか……) 「――神田はズルい」 今にも消えてしまいそうな声でそう耳元で囁かれれば、たとえ自身に思い当たることがなかったとしても、誰しも罪悪感を抱くだろう。 しかもそれが、エリート然とした出来のいい同僚であれば尚更だ。 「え?俺……なにかミスったか?」 「ミスとかじゃない。どうしてお前はそう、いつも無自覚なんだ」 「無自覚……?俺が?」 「子供みたいに無邪気に笑ったと思ったら、憂いを秘めた目で遠くを見つめる」 須永にそう言われたところで、自身では全く記憶はない。表情や感情なんてその時の状況や空気で変わるし、いちいち考えて顔をつくるなんて、したたかな女性のような器用な真似は出来ない。 それを須永に指摘されたことにも驚いたが、何より彼が俺を見ていたことが意外だった。 見た目だけの判断で悪いと思うが、俺からしてみれば自分大好きナルシストにしか感じられなかったからだ。 そんな須永がなぜ……俺を? ガラス越しに俺の首筋に顔を埋める彼を見つめた。その視線に気付いたのか、ふと長い睫毛を揺らして伏せていた目を上げた。 普段は禁欲的な眼鏡に阻まれた茶色い瞳から溢れる色気に、ゴクリと唾を飲み込んだ。 「――なぁ、神田って彼女いるのか?」 「バカみたいに残業してる男に、それ聞くかぁ?お前こそ、女子社員の誘い断ってるとこみると、いるんだろ?」 「――彼女はいない。ただ、好きな人はいる」 「じゃあさ、残業ばっかりしてないでその人のこと大事にしろよ。彼女だってお前みたいなイケメンに惚れられてるって思えば嬉しいだろ?」 「お前は……嬉しいのか?」 「は?」 「女に興味はない。俺が好きな人は男で――今、ここにいる」 やんわりと耳朶に歯を立てた須永は、ガラスの中で意味深な笑みを浮かべた。 トクン……。 心臓が大きく跳ねて、その音が体を密着させている彼に聞こえたのではないかと身を硬くした。 乾いた唇を何度も湿らせながら、ゆっくりと言葉を選びながら紡ぐ。 「お前……ゲイ、か?」 「気持ち悪いか?」 「いや……。他人の性癖を否定するつもりはない、けど……」 「神田は女の方がいいよな?こんな偏屈な男より」 「そ、そんなことない……ぞ」 つい条件反射で答えてから、慌てて口を塞いだ。これでは須永の想いを肯定しているようなものだ。 耳にふわっと息がかかり、須永が微かに笑ったのを知った。 「――無理するな。俺は片想いのままで十分だ。とりあえず今、想いは告げたしな」 「え……あぁ、と。その想いを聞いちゃった俺はどうすればいいんだよ。今更、聞かなかったことにして……なんて出来ないだろ。お前、ホント自分勝手だな」 「知らなかった?」 「知ってるよ。同期で同じ部署で……。ついでにデスクも隣だ。嫌でも分かる」 「俺も……知ってる。不器用で段取りも話術も上手くない。営業としては致命的だけど、いつも一生懸命で責任感は人一倍ある。それに……何かあるごとにクルクルと変わる表情は、どんな女よりも可愛い」 同性である須永に“可愛い”と言われることがどれほど恥ずかしいか。 俺はカッと頬が熱くなって、わずかに俯いた。首が傾き、ワイシャツの襟と首筋の間に少しの隙間が出来たことを彼は見逃さなかった。 素早く唇を移動させ、俺の項にきつく押し当てる。 「――ん」 ゾワリと甘い痺れが下半身を震わせた。 柔らかい肌をチュッと音を立てながら吸う須永の手を無意識に掴んでいた。 「須永……っ」 縋る何かを見つけたように彼の長い指が俺の指に絡み付いた。 「はぁ……。我慢するってキツいな」 「何、する気だよ」 「見ているだけのつもりだった相手が俺の手を握ってる。このまま押し倒して、いっそ体を繋げて後戻り出来ないようにしたいって思う……。お前も男なら分かるだろ?」 掠れた須永の声からは、いつもの余裕は感じられなかった。 秘めていれば同僚として何ら変わらない日々を過ごせたかもしれない。だが、その想いが胸の内から溢れ、俺の耳に届いてしまった時点でもう後戻りは出来なくなっていることに気づいているのだろうか。 気にしないでいようとしても、どうしても意識してしまう。 体を繋げる云々以前に、もう元の関係には戻れないのだ。 俺は自嘲気味に笑いながら彼に言った。 「――やってみればいい。今は、夏という季節がそうさせたと思うことにする。ひと夏の恋……ってやつ。夏が終われば俺たちの関係も終わって、元の同僚に戻る。そうじゃないと……やってらんないだろ」 「神田……」 「ただし、お前が本気で俺を……。俺を好きだって言ってくれるなら、力で捩じ伏せるような真似はやめろ。レイプまがいのセックスは何の意味も持たない。そうだろ?」 「お前は……俺を受け入れてくれるのか?」 「分かんない。早々に答えなんか出せるかよ。でも……お前の事は苦手だけど、嫌いじゃない」  須永の手が俺の指を絡ませたまま、すっと股間を撫でた。スラックスの上からでも分かる、その場所はわずかに力を持ち始めていた。 「――ホントだ」 「バ、バカ……。お前がその……キスとかするからだっ」 「神田って首筋弱いの?」 「知るかっ!男にこんな事されたことないから……びっくりしただけだ」  なぜだろう。自分が置かれている状況は紛れもなくイレギュラーで、予想もしなかった相手に告白されて、しかも体も心もそれを拒絶していない。  むしろ、背中に感じる須永の体温が心地よくて、絡んだままの指が愛おしい。平凡な俺に興奮して勃起しているのも然りだ。  絆された……というには曖昧で、でも俺の気持ちは限りなく須永に近づいている事は確かだった。

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