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第3話

 ドドンッ。ビルに反響して花火の音が散らばる。  その音が俺の鼓動と重なった瞬間、無意識に絡めていた指をそっと解き体を反転させていた。  窓際に置かれたキャビネットに凭れるようにして、すぐそばにある須永の顔を見上げた。 「――花火に感謝しろよ」 「え?」 「キスしてもいいかなって思った」 「神田……」  こんなに近くで彼の顔を見るのは初めてだった。眼鏡がないだけで雰囲気がガラリと変わる。  俺の言葉に驚き目を見開いていた須永だったが、すぐにいつもの余裕を取り戻すかのように口角をわずかに上げてゆっくりと顔を傾けて来た。  それにならって俺も目を閉じる。男とキスしたことなど今まで一度もない。ある意味“夏の初体験”と言ったところか。  彼の唇が重なり、思った以上に柔らかい事に驚いた。先程まで飲んでいたアイスコーヒーの苦みと、微かに香る煙草。甘酸っぱいというよりも、むしろほろ苦い彼とのファーストキス。  最初は触れるだけ……。しかし、そんな状況に耐えられなくなったのは俺の方だった。  わずかに唇を開き、恐る恐る舌を伸ばす。須永は戸惑いながらもそんな俺に応えるように舌を絡めて来た。  エアコンの送風音、ファックスの受信、そして遠くから聞こえる花火の音。それに混じって俺たちの唇から紡がれる水音がやけに大きく聞こえている。 「ん……ぅん……っ」  これほど長く唇を重ねていたことがあっただろうか。クチュッと音を立てて離れていく須永の唇を切なげに見つめている俺がいる。知らずのうちに彼のシャツの胸元をぎゅうっと掴んでいた手を慌てて離して、俺は顔をそむけた。 「――もっと、したくなる」  すっかり欲情した目で俺を見下ろした須永 は、俺の腰を引き寄せて自分の下肢をぎゅっと押し付けた。  硬くて大きくて……何よりも熱いその場所は、俺を確実に求めていた。ここがオフィスであることを一瞬忘れそうになり、俺は散り散りになりそうな理性を何とかかき集めた。 「こんな場所でするとか……。あまりにも色気なさすぎだろ」 「そうか?」 「あのさぁ、俺……処女だからさ。初めてって、それなりに優しくして欲しいと思うだろ。痛いって聞くし……」  須永は真剣な眼差しで俺を真っ直ぐに見つめている。その茶色い瞳の奥に灯る光が眩しくて目を細めた。  腰を抱く手に力が入ったのが分かり、俺はそっと彼の胸に頭を預けた。 「――処女、俺にくれるのか?」 「お前なら……いい。お前は裏切らない。お前はきっと……。なぁ、今度一緒に出掛けないか?そうだな、海……。海がいい」  シャツに染み付いた煙草と汗の香りを肺いっぱいに吸い込みながら、故郷の海を思い出していた。  海鳥と漁船の汽笛、防波堤にぶつかる波の音。  夜には白い砂浜の向こうに広がる、空よりも黒い海。波だけが白く浮かび上がる光景は恐怖と同時に安らぎをくれる。 「――お前の故郷(ふるさと)に行きたい」  そう呟いた彼の口元をじっと見つめる。 「え?」 「神田が子供の頃に過ごした場所を感じたい。砂浜で花火……見られるのかな」 「どうかな……。まだ、やってるといいけど」 「無邪気な笑顔、見たい……。お前の全部、見せて」  腰にあったはずの手が、俺の髪を優しく撫でてそのまま背中に回される。  互いの体が密着するほど抱きしめられて、唇を何度も啄まれる。  インテリでクールな男の一体どこに、こんな情熱的な部分が隠されていたのだろうと驚く。  その情熱が自分自身に向けられている事にも優越感を感じ、俺は試すように彼の唇を舌でなぞった。 「――その台詞、今まで何人の男に言ったんだ?」  唇を触れ合わせたまま、須永はふっと口元を綻ばせて俺を睨んだ。 「気になる?」 「遊びだったらやめるぞ。もう……遅いけどな」  そうは言ってみるが、俺はもう分かっていた。須永の想いに偽りはないと……。  根拠はない、確証もない。でも――今までに感じたことのない胸の高鳴りは誤魔化しようがなかった。  彼の胸に頭を押し付けた時、俺と同じくらい早鐘を打つ心臓の鼓動を聞いた。  一緒だ――と、思った。 「――あぁ、もう仕事にならない。さっさと帰るぞ」  俺の体に回していた腕を乱暴に離して、ブラインドを勢いよく下ろした彼は、外していた眼鏡をかけ直しながら足早に自分のデスクに向い、マウスを掴むとパソコンの電源を落とした。  その上、俺のデスクのパソコンもデータを保存している。  呆気に取られて立ちつくしている俺に、普段と変わらないインテリ男がすっと手を差し出した。 「ほら、早くしろ。今ならまだ花火、見えるかもしれない」 「え?」  それが今まで窓越しに見ていた花火だということを理解するのに時間がかかったのは、須永の嬉しそうな顔を見たからだった。  会社では見せることのない素顔……。 「一緒に……」 「手を繋いで帰ろう……。俺の想いは花火みたいに一瞬じゃない。離さないから」  何かに背を押されるように、俺は彼に駆け寄ってその手を掴み、胸に飛び込んでいた。  ふわりと抱き寄せられて、ゆっくりと息を吐き出した。  椅子の背凭れに掛けられた二人分の上着を腕にかけ、通勤バッグを持った彼の片手をギュッと握りしめたまま、俺はエアコンと照明のスイッチを落とした。  薄闇の中でどちらともなく唇が重なる。  ブラインドの向こう側で眩い光が点滅し、少し遅れてドドンッと音が鳴り響いた。  俺たちの花火が今――あがった。

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