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第5話

(なっ、ない~~!)  放課後の教室で、紬麦は真っ青になって、リュックサックの中身を机の上にひっくり返していた。 (今日どこに行ったっけ)  教室、視聴覚室、美術室に体育館……。  自分の行動を思い返してみても、どこかに落としたような記憶は全くない。 (どうしよう)  サァッと血の気が引いていく。  もう一度、リュックを前から後ろから、上から下から眺めて確認する。 (やっぱり、ない……っ!)  ロッカーの中も、机の中も、ポケットの中も、お弁当箱の中も、ハンカチのすき間も確認した。  それでも、どこにもない。 (なんで!?)  そもそも、リュックは登校してからロッカーに入れっぱなしで、取り出すのはお昼休みと放課後帰る時くらいなのに。 「……」  ぎゅうっとリュックのショルダーベルトを握る。  紬麦が何をこんなに慌てているのかというと、クマが――姫宮にもらったクマのキーホルダー兼防犯ブザーが、家出をしてしまったのだ。  帰りのホームルームが終わって、よし帰るぞとリュックを背負おうとしたら、すでにそこにクマの姿はなかった。 (~~……っ)  くしゃりと顎に皺が寄る。  泣き出してしまいたい気持ちでいっぱいだったけれど、泣いてもクマが帰って来てくれるわけじゃない。  もうすぐ、姫宮が迎えにやって来る。  貰って数日しか経っていないのに、もう無くしたなんて知られたら嫌われてしまうかもしれない。  どうにかして、姫宮が気づく前に見つけないと……!  紬麦はぐっと拳を握ると、その場で足踏みを始める。  姫宮が迎えに来たら、すぐに捜しに行かなくっちゃ。  そのための準備運動だ。 「つむちゃん、お待た……」 「忘れものしたから、取りに行ってくる!」 「昇降口で集合!」  いつものように、後ろのドアからひょこりとやってきた姫宮を見るなり、紬麦は矢継ぎ早にそう告げると、入れ替わりにぴゅーっと教室を飛び出していく。 「え、つむちゃん!?」 「どこ行くの!」  後ろから追ってくる姫宮の声を振り切って足を早める。  今の紬麦は彼の目を誤魔化せるほどの答えは持ち合わせておらず、そうなれば、捕まってバレてしまわないように逃げるしかなかった。  早く、早くクマを見つけなくちゃという思いで頭の中はいっぱいで、紬麦を追うようにして教室を出ていくクラスメイトがいたことも、それを姫宮が怪しんでいることにも気づかない。  教室、視聴覚室、美術室に体育館……。 (あと、トイレもっ)  急げ、急げっ……!  あらゆる扉を開け放って、べったりと地面に這いつくばりながら狭いすき間まで確認して、それでもクマはどこにもいなかった。 「……どこ行っちゃったんだよ~」  隠れんぼが上手すぎる。降参をするから、今すぐに出て来て欲しい。  焦りで、心臓は変にドキドキしているし、不安に押しつぶされて、いよいよ泣き出してしまいそうだ。 「あと、あと、行ってないとこ……」  ウロウロと廊下を右往左往して、紬麦はぴんと閃いた。  今日の昼休みは翔護がいなかった。  と、いうことは――。 「屋上のとこ!」  姫宮との秘密基地。最後の砦に希望を掛けて、紬麦は屋上へと続く階段を勢いよく駆け上がった。  はっはっと息を切らして、もう少しで上りきるというところで、踊り場に人影が見える。  姫宮が、心配して紬麦を捜しに来てくれたのかも。  そう思って、そこにいる人物が姫宮だと疑いもせず、紬麦は勢いよく階段の一番上に着地した。 「バァッ」 「わぁっ」 「ひゃわっ」  ぴょんっと飛び跳ねて出ていくと、そこにいたのは姫宮じゃなかった。  相手は紬麦の登場にびっくりして、紬麦は思い描いていた人物じゃなかったことにびっくりして、お互いに飛び上がる。 「び、びっくり……しちゃった」 「お、オレも……」  って、びっくりさせたのは紬麦だから「ごめん」って素直に謝る。  屋上に続く階段の最上階。紬麦と姫宮の秘密基地にいたのは、朝、紬麦がぶつかってしまったクラスメイトの木崎だった。  なんで、彼がこんなところに?  疑問は、彼が手にしているものを見て、一気に吹き飛んでいく。 「あ、それ!」  あった! って、行儀悪く指を差して、大きな声で叫んでしまいそうだった。同時に、安心して肩の力が抜ける。  紬麦の、クマさん防犯ブザー。それが、木崎の手の中にある。  見つかったことにほっと胸を撫で下ろしながら、紬麦は木崎に向かって手を差し出した。 「それ、捜してたんだ」 「……」  姫宮からもらった、大事なやつ。見つかって、本当によかった。  ありがと、って手を伸ばしても、木崎はそれを握ったまま返してくれない。 「?」  それどころか、握ったクマをぎゅっと自分の胸に引き寄せて、何かを言いたそうにもじもじしている。  彼のことを紬麦はあんまり良く知らないけれど、らしくないなぁと思いながら首を傾げた。 (なんだろう)  姫宮を待たせているし、できれば早く返して欲しいんだけど……。  返して、と口を開こうとしたとき、木崎がおずおずと口を開いた。 「あの、聞きたいことがあって」 「うん?」  オレに聞きたいこと? 「……翔護のこと、なんだけれど」 「翔護?」  思ってもみなかった人物の名前が飛び出して、紬麦は目を丸くした。そうしてから、そういえば彼が翔護の親戚で、それから同じサッカー部の所属だったと思い出す。 「うん……あの……」  言おうか言うまいか、迷っているみたいだった。彼は口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返して、もじ……と指を擦り合わせた。  そして、覚悟を決めたようにぎゅっと拳を握ると真剣な眼差しで紬麦を見る。 「翔護の好きな人、知ってる!?」 「……へ?」  ショウゴノスキナヒト?  予想だにしない質問に、気の抜けた声が出る。真っ白になった頭には言葉が全く入って来なくて、すぐには理解が出来なかった。なんとか言葉の意味を理解しようとして、一生懸命に心の中で反芻する。 (ショウゴノスキナヒト、しょうごのすきなひと、翔護の好きな人!?) 「え、誰!?」 「ええと……それを、ボクが聞いているんだけれど……」 「あ。そうだった……」  翔護の好きな人――。  そう言われて、そういえば翔護とはそういう話……いわゆる恋バナってやつをしたことがないな、と思う。  でも「誰?」って聞いてくるくらいだから、きっと察するような何かがあったんだろう。  紬麦の中で、翔護は中等部の頃から部活一筋のイメージしかない。  紬麦が泣いて駄々を捏ねて「行かないで」って言ったって、笑ってミーティングに行ってしまうくらいだ。休日だって、朝から晩まで自主練しているくらいサッカーが最優先。もしかしたら、サッカーボールと一緒に寝ているんじゃないかって、紬麦はちょっと疑っている。実際に、聞いたことはないけれど。  翔護とは結構長い付き合いだと思うし、自分が一番仲の良い友達だって自信もあるけれど、これまでに恋人の影はおろか浮いた話の一つだって聞いたことはなかった。  そんな紬麦でさえ知らない情報を、他の誰が知っているっていうんだろう。 「ね、翔護と仲が良いでしょう? 何か知っていたら教えて……!」 「わっ、わぁ」  勢いよく詰め寄られて、押されるように後ずさる。  途端、踵が宙を踏み、ガクンと背がしなった。 (落ちる!)  あっと思って、反射的に手を伸ばす。指先に当たる硬い感触。掴んだ防犯ブザーのキャンディが外れ、ビーッとけたたましく音が鳴った。 「つむちゃん――!」  同時に、階下から聞こえる姫宮の声。浮遊感を伴う体。手を伸ばす木崎の顔が泣きそうに歪んでいくのも全部、スローモーションのようにゆっくりと感じた。  ドンッ 「!」  衝撃を覚悟して目を瞑ったけれど、音が大きく聞こえただけで体にほとんど痛みはない。 「っ」  息を詰める声にハッとして、目を開く。  痛くないのは当たり前だ。姫宮が、下敷きになって紬麦を受け止めてくれていた。 「ヒメ……!」 「っ、つむちゃん。痛くない?」 「へ、平気……っ。ヒメが、受け止めてくれたから」 「ふふ、ナイスキャッチだね」  そう言って笑う姫宮は、ゆっくりと上体を起こしながら「よかった……」と紬麦をぎゅっと抱き締める。 ナイスキャッチだなんて笑いながら、紬麦を抱き締める姫宮の腕は震えていた。その力強い抱擁に安心して、紬麦もぎゅうと抱き締め返す。  平気って言ったけど、本当は怖かった。内臓がせり上がってくる感覚は、もう二度と体験したくない。  恐怖で冷たくなった体を温めるように撫でてくれる姫宮の腕に、ほっと体の力を抜いて身を任せる。 「羽村くん……っ」  木崎の声に、顔を上げる。心配そうに駆け寄って来るその顔は、今にも泣いてしまいそうだった。 「へへ、危なかった~」  大丈夫だよって笑って立ち上がろうとするけれど、腰が抜けてしまったのかうまく立ち上がれない。心なしか足首に鈍く痛みを感じるような気もして、ふらついた紬麦の体をすかさず姫宮が支えてくれる。 「ぃっ」 「つむちゃん!」 「羽村くん!」  なんとか転ぶのは免れて、寄り添う姫宮にしがみつくと腰に回った腕がしっかりと抱いてくれるから心強い。 「ごめん、話はまた今度でもいーい?」 「そ、それはもちろん……」  話は途中だったけれど、このまま続けられるような状況でもないから、後日落ち着いて仕切り直させてもらえるとありがたい。  心配そうに顔を歪ませたままの木崎を安心させるように、にっこりと微笑む。  実際、姫宮が庇ってくれたおかげで痛みは本当に僅かだった。  むしろ、紬麦の下敷きになった姫宮の方が怪我しているんじゃないかと心配になるのだが、当の姫宮は紬麦の心配ばかりで険しい顔のまま。落っこちた紬麦よりも辛そうな顔をしているので、困ってしまう。 「つむちゃん……」 「大丈夫だって、ちょっとくじいただけ――って、わぁ!」 「……」  突然ふわりと体が浮いて、抱き上げられた。  両の膝の裏に腕を差し込まれた――いわゆるお姫様抱っこの状態で。 「――~~!」  憧れの、お姫様抱っこ。  思わず声を上げて喜んでしまいそうになるけれど、ここは学校だと思い直して、紬麦はバタバタと手足を揺らして抵抗した。 「お、下ろせってば……!」 「じっとしてて」 「……ひゅっ!」  ぴしゃりとお尻を叩かれて、カチンと固まる。それ以上なにも言えなくなって、紬麦は口をもごつかせたまま、恐る恐る姫宮を見上げた。  見上げた姫宮の顔はいつになく真剣で、その表情にドキンと胸が高鳴る。  ドキドキ、心臓がうるさい。  戻って来たクマのキーホルダーを胸の前で握り締めて、紬麦はただじっと大人しくしているしかなかった。  ◇◆◇ 「もうここで大丈夫だから!」 「ダメだよ」 (ダメはこっちのセリフなんだってば!)  今日は家に誰もいないなんて言わなければ良かった。  結局、あのまま――お姫様抱っこをされたまま、二人は紬麦の家の前にいた。  途中で降り出した雨は、今はザァザァと音を立てて雨脚を強めていて、すぐには止みそうにない。  朝の天気予報では降水確率0パーセント。どちらも傘は持ち合わせていなかったけれど、なんとか本降りになる前に辿り着けたのは救いだった。濡れた姫宮の肩越しに降る雨を見つめながら、もぞりと身じろぐ。  玄関のドアの前でもひと悶着。もうここで良いって言うのに「足痛いでしょ」って、あっという間に家の中まで押し切られてしまった。  紬麦を抱えていなかったら、どこかで雨宿りが出来たかもしれない。  そう思うとあまり邪険にも出来ず、紬麦はなすがまま大人しく姫宮の腕の中に収まっているしかなかった。 (突然落っことされても怖いし……)  それに、こうなってしまった姫宮を止めるのは難しい。 「つむちゃんのお部屋はどこ?」 「えっと、ええと~……」  あの、その、と視線をウロウロと彷徨わせる。  百歩譲って家の中はOKとして、紬麦の部屋だけは絶対にダメだ。 「んと、リビングで」 「二階だね」 「人の話聞けよ……!」  紬麦の言葉を無視して、姫宮は「よいしょ」と紬麦の体を抱え直すと勝手に二階へと上がっていく。 「ヒメ、一階で、リビングで良いってば!」  とん、とん、と姫宮が階段を上るたびに体が小さく揺れて、伝わる振動が紬麦の不安を煽って来る。  自由にならない手足をばたつかせて必死の抵抗を試みるけれど、姫宮の足を止めることは出来なかった。  ――さすがの姫宮でも、紬麦の部屋を見たら引いてしまうんじゃないか。 「……っ」  押し寄せる不安に、ぎゅっと体が縮こまる。  せっかく仲良くなれたのに、それは嫌だ。  姫宮といる楽しさを知ってしまった今、突然一人にされたら寂しくてたまらない。  そう最悪の結末を予想してぐるぐるしている間に、姫宮はどんどん足を進め、ひとつの部屋の前で立ち止まる。  うちに来るの初めてだよな? って疑ってしまいたくなるくらい迷いのない足取りだった。  でも、それもそのはず。  ドアには『TSUMUGI』と書かれた木製のプレート。確か、初等部のときに図工の授業で作ったものだったと思う。朝のうちに外しておくんだったと後悔しても、もう遅い。 (だって、こんなことになるなんて思わないもん!) 「開けるよ」 「や、やだっ……!」  願いも虚しく、姫宮はドアノブに手を掛ける。  カチャ……キィ  いつもは何とも思わない扉の音が、まるで死刑執行の合図のように聞こえる。  そうして、いとも簡単に紬麦の秘密は暴かれてしまった。 「う、うう~……」  朝、部屋の状況はどんなだったっけ。そんなに散らかってはいなかったと思うけれど。  扉が開いていくのが、まるでスローモーションのようだ。  開いた扉の先、現れたのはいつも通りの自分の部屋。朝、元気に飛び出して行った時と何も変わっていない。  天蓋付きのベッドにフリルがたっぷりとついたカーテン。白を基調にまとめられたこの部屋を、知らない誰かが見たら絶対に女の子のものだと思うはずだ。 「……ここ、オレの部屋……なんだけど、おかしい……?」  ドアノブを握ったまま、姫宮は何も言わない。  ドクドク、と心臓は大きく跳ねて、口から吐き出してしまいそうに気分が悪くなって来る。  とてもじゃないがこの沈黙に長くは耐えられそうもなく、嫌われるなら早く嫌われてしまえ、と紬麦は半ば自暴自棄になって口を開いた。  姫宮はどんな顔をしているだろう。  引いたかな。  変だって、気持ち悪いって思ってるかな。  怖くて、ぎゅっと目を瞑ったまま顔が上げられない。  両の指をもじもじと擦り合わせながら、おっかなびっくり見上げてみると、予想に反して姫宮は微笑んでいた。 「どうして?」 「だ、だって、男なのに、変……とか」  おとぎ話のお姫様が暮らしているような、かわいい部屋。そんなの、女の子みたいで、男の子らしくないって思うのがきっと普通の反応だから。  傷つかないように、自分から予防線を張る。  本当は、姫宮が受け入れてくれたら良いって期待しているくせに。  姫宮なら受け入れてくれるんじゃないかって、期待しているくせに。 「良いと思うよ。僕は好きだな」 「ほ、ほんとっ」  これが、母の趣味でも、姉の趣味でもなくて、紬麦自身が望んで作り上げたお城でも? 「うん」 「っ」  ほんわりと胸の奥から温かいものがわき上がってくる。嬉しくて、感情のまま紬麦は姫宮の胸にぐりぐりと顔を押し付けた。  そのまま、ふかふかのベッドの上に下ろされる。制服のジャケットも脱がされて、きっちりとハンガーにかけてくれるのが姫宮らしい。 「ありがと」 「どういたしまして」  二人分の重みを受け止めたことのないスプリングが、びっくりしてギッと音を立てた。  自分の部屋に、まだ誰も招いたことはない。  あんなに仲良くしている翔護だって、ここまで来たことはないのだ。紬麦の城に足を踏み入れたのは、正真正銘、姫宮が初めてだった。  ベッドに並んで腰かけて、もじもじと膝を擦り合わせながら姫宮を見る。目が合った姫宮はにっこりと微笑んでくれて、紬麦は恥ずかしくなって視線を逸らした。 「へへ」  自分の部屋に姫宮がいる。なんだかすごく変な気分だ。 「あ。お菓子と、ジュース……!」  あと、タオルも必要だ。降り始めたばかりだったとはいえ、紬麦を庇ってくれた姫宮の方が、濡れた面積は大きい。自分ばかりがジャケットまで脱いでリラックスして、お客様におもてなしをしないのはどうかと思う。  紬麦の城に使用人はいないから、全部自分でしなければならない。  慌てて立ち上がろうとする紬麦を、姫宮が制する。 「大丈夫だよ、お構いなく」 「でも」 「いいから。それより先に、つむちゃんの足を見よう」 「わっ」  ベッドを降りた姫宮は、紬麦の足元に膝をついて恭しく足を持ち上げると、前に後ろに倒して関節の動きを確かめた。 「痛みはどう?」 「んっ。ちょっと痛いけど、平気」  くるくると足首を回されても、痛みは本当にわずかだった。  体に感じる痛みよりも、落ちた! っていう精神的な衝撃の方が強かった気がする。 「そっか……よかった」 「……!?」  安心したって言いながら、姫宮はそっと紬麦のつま先にキスをした。 (ま、また~~……!)  そうやって、さり気なく王子様ムーブをするから、その度に紬麦の心臓はドキドキして、きゅんきゅんして、爆発してしまいそうになる。 「つむちゃん……」  コチンと固まったままでいると、すぐ隣に座り直した姫宮の手が、紬麦の手の上に重なる。じわりと移ってくる熱に、ドキドキが加速していく。  空いた方の手が伸びて何度もやさしく頬を包み、唇を親指の腹に柔らかく撫でられても嫌悪感は少しもない。  ただ、期待が紬麦の顎を少しだけ上向かせて、瞬きが速くなった。 (あ。)  ――キス、される。  予感は確信に変わり、目の前をあの日と同じキラキラが埋め尽くす。  受け入れることに抵抗はなかった。自然に目を瞑り、触れる熱を感じる。  ちゅ…… 「ん……」  ちゅ、ちゅ 「ン……ッ」  角度を変えて何度も触れた唇が離れても、紬麦はすぐには目を開けられなかった。 「き、きす、したな……っ」 「うん」  そぅっと瞼を開くと「しちゃった」って、姫宮は嬉しそうに笑っていて、キラキラを間近で浴びた紬麦は眩しさにもう一度ぎゅっと目を閉じた。 「もう一回したいな」 「あ、ぅ……む」  そう言って、紬麦が返事をしないうちにまた唇が重なる。 「に、二回もしたっ……!」  正確に言えば、触れた回数は二回どころじゃないのだけれど、沸騰した紬麦の頭ではとてもじゃないけど冷静に考えられない。  ふふって笑った姫宮の手が顎に掛かり、前髪が擦れ合う。 「もう一回するよ」  ちゅ 「さんかいめ、ンッ」  ちゅ、ちゅ……  今度は頬にも二回。  キスをされながら、そわりと耳の裏を撫でられると体から力が抜けていくみたいだ。 「ねぇ、僕がみんなになんて言われてるか知ってる?」 「お、王子様……?」  ぽやぽやになりかけた思考をなんとか揺すり起して答えると、姫宮はにっこりと笑う。  みんなが骨抜きにされてしまう王子様スマイルは、紬麦にだって有効だ。 「そう」  囁きが近づいて、震える唇の先で空気の揺れを感じる。 「王子様のキスはね、お姫様のものなんだよ」  だから、つむちゃんのだね。って、紬麦の唇のすき間から入り込んだ囁きが全身に響いてこそばゆい。 (つ、つむぎの……っ)  ぼわっと顔が沸騰したように熱くなって、きっと頭のてっぺんからは湯気が噴き出している。 「つむちゃん、もっと触ってもいい?」 「へ?」  言葉を探して、もにょりと口をもごつかせる紬麦からさりげなくもう一度唇を奪って、姫宮の手がシャツの裾から忍び込んで来た。  するりと流れるようにズボンからシャツを引き抜いて、あっという間にパンツ一枚にされてしまったから油断ならない。 「ひ、ぁぅ」  少し冷たい指先が、敏感な内腿を撫でる。びっくりして、思わずぎゅっと挟んでしまえば、姫宮がくっと喉の奥で笑ったのがわかった。  柔らかい部分を何度も撫でられて、くすぐったさに足が段々と開いていく。 「ん、ン……っ」 「すべすべで、気持ちいい」 「んー……っ」  ふっと耳に息がかかって、びくりと体が跳ねた衝撃で、体が後ろに倒れた。  ぱふん、と背中とシーツのすき間から押し出された空気が、毛先を遊ばせて散っていく。  ころんと転がった紬麦を、覆いかぶさった影がまるごと全部隠して、視界が姫宮でいっぱいになった。  膝から上へ、ゆっくりと指先が辿るとぞわりと肌が粟立って道が出来る。  下着の上から性器に触れられて、もどかしさに背が浮いた。 「ひ、ヒメ……っ」  冷たい姫宮の手が、今日はいつもより温かい。  くにゅくにゅと揉みこまれて、段々と下着が窮屈になってくるのがわかる。 「は、はふ……」  は、は、と興奮に短く息を吐きながら、紬麦はぎゅっと胸の前で手を握り締める。  強張る体を解すように、姫宮はときおりキスであやしてくれて、それに安心したように息を吐けば、まるで「いい子だね」って褒めるみたいに撫でられた。 「つむちゃん、かわいい」  うっとりとそう呟く姫宮の瞳の奥に、キラキラよりももっと熱い、ドロドロに激ったものが見える。  こんなの、おかしい。友達なのに、そんなところ触るなんて。  触ってもいい? って聞かれた時点で「ダメ!」ってはっきり断るべきだったのに。  胸は期待にドキドキと高鳴って、その先をねだる様に腰が浮いてしまう。 「ん……」  足の先から、パンツが取り払われてベッドの下に落ちる。  それでも、紬麦は「ダメ」とは言わなかった。  お尻が直接シーツに触れるのを感じるのは初めてだ。  何も纏っていない下半身は、すーすーして落ち着かない。 「ひ、ヒメ」  不安になって名前を呼べば、姫宮は「うん」って返事をして、また紬麦の性器に触れる。 「あ、あ」  布越しじゃない、直接触れられる感触にびくんっとつま先が跳ねた。  ちゅこちゅこ、と濡れた音が聞こえるのが恥ずかしくて、耳を覆ってしまいたいのに、好奇心がそれをさせてくれない。  ぴょこんと元気に勃ち上がった紬麦のペニスは、姫宮に触れられていっぱいの涙を零している。 (気持ちいい)  先端を擦られて、ふっくらとした双球をやさしく揉みこまれると腰が抜けてしまいそうなほどの快感だった。  紬麦も男だし、一人でこういうことをするときもある。  でも、ここまで気持ちがいいと思ったことはなかった。 (頭、バカになっちゃう)  気持ちが良くて、もうそれしか考えられなくなってしまう。 「あ、あ、ぁ……ン」  薄い胸は頻繁に上下して、浅い呼吸を繰り返す口は薄らと開いたまま、口の端からは涎が垂れ落ちていく。  それを姫宮の指先が拭って、添わされた手のひらに紬麦は甘えるように擦り付いた。 「ひ、め……っヒメ」  あ、あ、と短く喘いで姫宮の名前を呼ぶ。  かぷり、と指先を甘噛みすれば、性器に与えられる刺激が強くなった。 「っ、つむちゃん……ッ」 「ヒメ、ぅ、ン……っ、も、でちゃ、でちゃうぅ」 「うん、いいよ。いっぱい出して」 「あ、あ、っ……ァ――……ッ」  きゅうっと背を丸めて、紬麦はか細い声で喘ぐとぴゅくりと精を吐き出した。 「ぁ、う……っ、は」  酸素を求めて、はっはっと大きく喘ぐ体を姫宮が抱きしめてくれる。やさしく背を撫でられると段々と呼吸が落ち着いてきた。  ぼんやりとしたまま下半身に目をやる。久しぶりというわけでもないのに、吐き出した精は勢いよくおへその方まで飛んでいた。 「……」  その先に、姫宮の下半身が見える。中心はびっちりと張り詰めて、きつそうだった。 「ヒメも」 「え?」  そっとそこに触れれば、姫宮のそれはまるで生き物みたいにびくんと震えてびっくりする。 「ぼ、僕は……」  いいよって言葉にむぅっと頬を膨らませれば、姫宮は困ったように視線を彷徨わせて、それから「じゃあ」ってゆっくりとベルトを外すとジッパーを引き下ろした。  ボクサー型の下着の中から、勢いよく飛び出してきた性器は、大きいのに目を背けたくなるようなグロテスクな感じはしなかった。  むしろ、ちょっと綺麗で感動してしまう。イケメンはそんなところまで完璧なんだと紬麦はよくわからないことを考える。  性器に伸ばした手を、姫宮の手が掴む。 「一緒に、ね」 「あ、ン」  一度達してくったりと項垂れていたはずの紬麦のペニスは、いつの間にかまた元気を取り戻していて、その上に姫宮のペニスが重なる。  ずっしりとした重さを感じて引けてしまった腰を抑えるように、姫宮が体重を乗せて来るからどこにも逃げられない。 「っ、は、ぅ……ッ」 「ン、つむちゃん」  姫宮が腰を揺すると、互いの性器が擦れて快感に目の前がチカチカした。  ぢゅ、ぢゅく……ちゅく  ぬちゅ、ぬちゃ、と響く水音に合わせて、ベッドが切ない音を立てて鳴いている。 「はっ、は……っ」  上から落ちてくる堪えるような姫宮の喘ぎが、紬麦の快感をさらに高めていた。  余裕がなくなって来たのか、姫宮の腰の動きはどんどん激しくなって、時折、的が外れたペニスの先端が、柔らかい双球を擦り上げるのが堪らなく気持ち良かった。  そこをして欲しくて、わざと当たるように腰をずらす。そんなのいやらしくてはしたないと思うのに、止めることが出来ない。 「っ、ふふ……かわいいね」  気づいた姫宮は額に汗を滲ませながら笑って、紬麦の良いところに当たるように動いてくれる。  気づかれて恥ずかしいのに、それ以上に快感が勝って、頭の中は「気持ちいい」でいっぱいだ。 「あっあ、あっ」 「、ぁ……つむちゃん」  姫宮のペニスが脈打つのをリアルに感じる。  ぬるんっと滑った硬い先端に敏感な裏筋を撫で上げられて、紬麦は早々に音を上げた。 「ひ、め……おれ、イ……いっちゃぅ、で――ッ……ぅ」 「は、ぁ……つむちゃん、つむちゃん、かわい、かわいぃ――……ッ」  行き場なく彷徨う手に、姫宮の手が重なる。ぐっと手首をシーツの上に押し付けられて、重く腰を押し付けられると同時にびしゃりとお腹の上が熱くなった。 「っ、ふ……」  汗で貼りついた前髪を除けて、露にした紬麦の額に姫宮がキスをする。 「つむちゃん、かわいい……」  かわいい、とうわ言のように呟く姫宮の瞳は、まるで夢でも見ているかのようにうっとりと甘い色をしていて、撫でられた場所から、またじんわりと気持ちいいのが広がってくるようだ。 「あ、あ……っ」 「つむちゃん……」  揺らめく腰に気づいた姫宮に芯を持ち始めた性器を擦られて、きゅっと背を丸める。  ひっきりなしに与えられる快感に体も思考もとろとろに溶かされて、最後には何もわからなくなっていた。  ◇◆◇  カチャ、と扉の開く音に、紬麦はびくんっと大げさに体を震わせた。  腿の上に置いた手は緊張で自然と握られ、跳ねた髪の先がぴょこぴょこと落ち着きなく動いているのが自分でもわかる。 「シャワーありがとう」 「あ、……うん。タオルとか置いておいたんだけど、わかった?」 「うん」  姫宮が歩いて来るのを、ベッドの端に腰かけたままで眺める。  いつもと同じ、変わらない自分の部屋。  大好きなものでいっぱいにした紬麦の城は、どんなときでも一番心休まる場所だったはずなのに、今は少しだけ居心地が悪い。  まるで別世界に来てしまったみたいに、全然違う景色に見えてしまうから不思議だ。  身の置き所なくぷらぷらと浮いた足を揺すれば、姫宮は貸したTシャツの裾を引っ張って「ちょっと小さいね」って笑いながら紬麦の隣に腰を下ろした。  姫宮の重みでベッドが沈む。ギシ、と鳴るスプリングの音にさっきまでの行為を思い出して、紬麦はひとり顔を赤らめた。  ぴたりと触れ合う腿。いつもの紬麦だったら「近い!」って文句の一つでも言って突き飛ばしているだろうに、今は布越しに伝わる熱を寂しく感じている。  ほんの少し前まで、もっと近くに姫宮はいた。こんな布なんかなくて、素肌で、もっとぴったり。ちょっとの隙間もないくらい抱き合ってくっつき合って、姫宮の熱は全部、紬麦のものだったのに。  きゅうと胸の奥が疼く。離れてしまった熱が恋しい。 「お、オレが小さいって言ってんのか!」  でも、素直に寂しいって言うのは悔しいから、紬麦は努めていつもの調子で、ぷくりと頬を膨らませる。  バカにして! と怒る紬麦に、姫宮は「してないよ」って言ったけれど、彼が小さいって笑ってしまう気持ちもわからないではない。  だって、実際に小さいのだ。裾はつんつるてんでまるで丈が足りていないし、Tシャツだって胸のあたりがぴったりしてちょっと……いや、結構きつそうに見える。  自分たちの体格差を改めて思い知らされたような気がして、紬麦の頬は焼いた餅のようにさらに大きく膨らんでいった。  これでも、サイズの大きいものを貸したつもりだった。  つい見栄を張って買ってしまったけれど、着られるはずもなくクローゼットで眠っていた洋服たち。  やっと出番だと目を覚ましたのに、今は引き延ばされて「イヤ~ッ」と顔を顰めているのが見えるようだ。  姫宮の手が頬に伸びて、指の背がゆっくりと撫でてくる。くすぐったさに猫のように目を細めて見上げれば、愛おし気に弧を描いた瞳と目が合ってドキドキした。  クリーム色の甘い金髪はいつもよりもしっとりとして、垂れた前髪のひと房が余計に甘さを際立たせているような気がする。 「つむちゃん」  ふっと影が落ちて、手のひら全部で頬を包まれた。  大きな姫宮の手は、あつらえたかのように紬麦の頬にフィットしてすっぽりと包んだけれど、大きさの割にしなやかだから、まるごと掴まれても恐怖は感じない。むにゅ、ぷにゅ、と揉みこまれて気持ち良さに力が抜ける。姫宮以外に触れられても、きっとこんな腰が抜けるような気持ち良さは得られない。  なにすんだ! って、怒るところだ。だって、いつもそうしているんだから。こんな風に気持ち良くなって、大好きな飼い主の手の上でお腹を見せて、もっともっと構ってもらおうなんて、そんなの紬麦らしくない。  らしくないのに――。 (う、うう~~……) 「はぅ……」  くにゃり。  うっとりとため息を零すと、こつんと額が合わさった。 「ずっと、内藤くんが羨ましかった」 「翔護? ……ふふっ」  頬に触れていた姫宮の手が顎に回り、くすぐったさに小さく笑い声を漏らす。  なんで、と続けようとした言葉は、耳に触れた姫宮の手によって遮られた。  前から思っていたけれど、姫宮はことあるごとに翔護のことを引き合いに出してくる……ような気がする。  そんな時は決まって眉間に皺が寄り、いつもの王子様スマイルはどうしたんだよっていうくらい険しい顔をしているのだけれど、今日は違う。 「……皺、ない」 「なに?」  眉間に皺は少しもないどころか、姫宮はひどく機嫌がよさそうに見えた。  むにむにと眉間を突く紬麦の指先を取って、ちゅ、と軽く口づけをするくらいには余裕がある。 (王子様みたいだ)  みたい、なんてそんな曖昧な言葉では足りない。今の紬麦にとって、目の前にいる男は紛れもなく王子様だった。  それも、大好きなおとぎ話の王子様よりもかっこいい。なんて思ってしまっているのだから、どうかしている。  肌を合わせたせいで、何もわからないくらいとろとろに愛されたせいで、頭のどこかがおかしくなってしまったとしか思えない。  正直に言って、途中からほとんど記憶がないのだ。  ふわふわして、気持ちが良くて、何も考えられなかった。  ただ与えられる快感に身を任せて、耳元に囁かれるままに応えて、きっと恥ずかしいこともたくさんした。  目いっぱい愛されたことは体に残る充足感から予想できるけれど、詳細は思い出さない方が紬麦の精神衛生的に良いと思うから、顔を覗かせた好奇心は記憶の奥底へと押しやる。  ふにふにと耳朶を揉まれて、小さな穴の中を撫でられると背筋が痺れて力が抜ける。くたくたに気持ち良くなった体をまるごと全部姫宮に預けて「もっとして」って、ひっくり返ってお腹を見せたい。  こんなはずじゃなかった。  第一印象は最悪で、絶対関わりたくない! って思っていたのに。  いつの間にか姫宮が隣にいるのが当たり前になって、休み時間のたびにまだ来ないかなって窓の外を覗くようになって、一緒に過ごす時間をどうしようもなく待ち遠しく感じている。  今だって、そんなことできっこないのに、姫宮が帰れないようにするにはどうしたらいいか、なんて考えてしまっている自分が怖くて仕方なかった。  雨はだいぶ弱くなって来たみたいだ。  ザァザァがしとしとに変わって、屋根から滴る雫が、時折ぽたりと音を立てるだけ。 「いつも、つむちゃんのほっぺたを触ってた」  僕だって、ずっと触りたかった。と姫宮は何度も紬麦の頬を撫でる。 「別に、お前だって触ったらよかっただろ」 「触ったら、絶対嫌がったでしょ?」 「う」  それは、そうだけど……今までの紬麦だったら十分にあり得るけれど。  それどころか、手が伸びてきた時点で、引っ叩いていたかもしれない。 「これからは、僕だけ?」  くにゅり、と耳の裏を押されると「ン……ッ」って変な声が漏れてしまう。 「僕だけがいいなぁ」  くにゅくにゅと返事を催促するように何度も捏ねられて、応えようと口を開くけれど「ふ、は」って吐息ばかりが漏れて言葉にならない。 「そ、れは……っむりだろ」  紬麦の頬はある意味マスコットキャラクターのようなものなのだ。もちもちで良く伸びる。自分でもチャームポイントのひとつだって思っているし、友人たちも同じ認識でいる。  だから、みんな何かあると紬麦の頬っぺたをいじってくるし、これはもう一種のコミュニケーションツールでもあるので、いきなり「やいやい、今日からはお触り禁止だ!」ってやめるのは難しい。  それに、そうなったら紬麦自身ちょっと寂しく思ってしまう。 「無理だけど……でも、ヒメもいっぱい触っていーよ」  撫でていた手が、ぴたりと止まる。 「つむちゃん」 「ん、うん……?」 (だ、ダメだったかな。どっちかに決めないとダメ?)  いいか、悪いか。白黒はっきりつけないと駄目だっただろうか。  妥協案として言ってみたけれど、姫宮はお気に召さなかったのかもしれない。  もしそうなら、姫宮だけ特別だ。他のみんなより、もっとずっといっぱい、もちもちしても良い。  手のひらはあったかいのに、指先にいくにつれて少しずつ冷たくなっていく姫宮の手。その動きを止めたのは紬麦だけれど、撫でられないのが寂しくなって、えいっと自ら頬を押し付けてみる。 「へ、へへ……」  でも、そうした後に自分の行動が恥ずかしくなって、照れ隠しに笑ってからそそくさと目を逸らした。  ドキドキする。姫宮が触れるところ全部。 「つむちゃん……」  たっぷりと甘さを含んだ声に名前を呼ばれると、自分がはちみつにでもなった気分だ。このままとろとろに溶かされて、掻き混ぜられて、まるごと全部姫宮に飲み込まれてしまうのかも。 「大好き……」  とろりと甘い囁きに、瞳の奥から何とも言えないぞわぞわとした感情が襲ってくる。  腰の辺りが、また落ち着きなくそわついてしまうのを誤魔化すように、紬麦はもじと膝を擦り合わせた。 「あ。そろそろ、母さん帰って来るかも……」  遅くなるとは言っていなかったから、もうそろそろ帰ってきてもおかしくない。  紬麦はそう言ってから、自分の言葉にカッと頬を赤らめた。  帰って来るからなんだっていうんだ。  友達が家に遊びに来て、家族に挨拶をする。普通のことで、何もおかしいことはない。  むしろ、紬麦が率先して紹介をしなければならない立場なのに、そう言葉が口を突いて出たのは自分にやましい気持ちがあるからだ。  でも、肌を触れ合わせた後で、二人がにこやかに会話しているのを見るのはなんとなく気まずい気持ちになってしまいそうだったし、何より、自分が言わなくてもいいようなことを口走って墓穴を掘るんじゃないか……そんな予感がして怖かった。 「そっか……じゃあ、雨も上がったみたいだし、お暇しようかな」  かぷり、名残惜しそうに紬麦の頬を食んで、姫宮が離れる。  自分から切り出したのに、こうして姫宮の体温が離れていくのを目の当たりにすれば寂しくてたまらない。  口では「またね」って言いながら、体は「行かないで」って姫宮の腕に縋っている。矛盾しているのは、紬麦自身が一番よくわかっていた。  姫宮はそんな紬麦の手をとって、握った手を数回揺らすと立ち上がる。つられて、紬麦も一緒に立ち上がった。 「……着替えどうする?」 「そうだね、着替えて帰るよ」  ハンガーにかけておいた制服は、最初よりいくらかましになったとはいえ、まだ少し湿っている。  けれど、サイズの合わない服のままでは窮屈だと思うから、多少気持ちが悪くても帰る間だけ我慢してほしい。 「洗って返すね」 「えっ、いいよ! 明日一緒に洗濯してもらうから」 「いいから、いいから……」 「ん? うん……じゃあ、ありがと」  姫宮がそれを着ていたのは、一時間にも満たない。  ほんの少しの間貸しただけで、わざわざ持って帰って洗濯してもらうのは申し訳ないと思ったのだけれど、姫宮は譲らなかった。  元は紬麦の服なのだし、気をつかわないで欲しいと回収を試みたが、紬麦が動くよりも早く、それはさっと鞄の中にしまわれてしまう。  厚意を無視して強引に引っ張り出すのもどうかと思って、紬麦は礼を言うとそのまま洗濯をお願いした。 「足、痛くない?」 「うん、へーき!」  歩いても、もう痛みは少しも感じない。軽くジャンプだって出来るくらいだ。さっきの出来事のおかげで、痛みはどこかに吹き飛んでしまったのかも。 「あ」 「?」  部屋を出る間際、ふと壁を見た姫宮が立ち止まった。 「これ……」 「あ、これは」  これは――王子様にもらった、紬麦の大切な宝物。それから、姫宮がプレゼントしてくれたハンカチ。 並んで飾ったそれをまじまじと見つめられて、紬麦はくすぐったい気持ちになりながらも「オレの宝物」ってはにかんだ。 「……持ってて、くれたんだ」 「ん?」 「あ……ううん、大事に飾ってくれて嬉しい」  てっきり、もう一枚のハンカチについて聞かれるかなって思ったのに、仲良く並んだハンカチを見つめた姫宮は、懐かしそうに目を細めるだけだった。 「ありがとう」  弾ける笑顔。愛おしさの溢れた瞳にまっすぐに見つめられて、そのとき紬麦は自分がなんて答えたのか覚えていない。  まだドキドキと余韻の残る胸を抑えながら、玄関の外へと姫宮を見送りに行く。 「あら」 「あっ……おかえり」  ドアを開けると、ちょうど帰宅した母と鉢合わせしてしまった。 「あら、お友達来てたの?」 「……っ、こんにちは」 「?」  一瞬、姫宮の顔がぎくりと強張ったように見えたけれど、瞬きの後にはもういつものプリンススマイルに戻っていた。 (見間違いかな)  それか、姫宮もちょっと気まずいんだったりして。  くふ、と二人だけの秘密にはにかんで、紬麦は挨拶を交わす母と友人の様子を眺める。 「こんにちは、いらっしゃい」  姫宮の微笑みに、母はよそゆきの顔で機嫌良く挨拶を返していた。 「あ。母さん、えっとね……と、友達の姫宮志旺くん」  母の「紹介して!」って視線に気づいて、慌てて二人の間に割って入る。 「ひめみや……姫宮くん! あらぁ」  まぁ! と声を上げて目を輝かせる母に姫宮は曖昧に笑った。 「いつ戻ってきたの?」 「え、と……四月に入ってすぐ、ですね」 「?」 (母さん、姫宮のこと知ってる?)  初対面のはずなのに、母は姫宮に対して親し気に話しかけていて、姫宮も戸惑う様子もなく普通に返事をしている。  まるで、昔からお互いのことを知っているみたいだ。  それに――。 (戻ってきたって、どういうこと?) 「母さん、ヒメ――っと、姫宮のこと知ってるの?」 「ええ? 知ってるも何も、あなたの王子様でしょ?」  母のとんでもない言葉に、びっくりして目を丸くする。 「え――」 「あらやだ、同じ幼稚園だったの忘れちゃったの? 姫宮くんにもらったハンカチ大事にしてたじゃない。ほら、今もお部屋に飾ってあるでしょう? 姫宮さんのところのブランドの。非売品でタグがついていなかったから、わからなかったかしら」  確かに、紬麦の部屋には大事にしているハンカチがある。額に入れた真っ白なハンカチは、さっき姫宮と一緒に見たばかりだ。  でも、それは王子様にもらった大切な宝物で、姫宮にもらったものじゃない。 (え……どういうこと?)  頭が混乱していて、ぼんやりと正解は見えているのにうまく答えが導き出せない。  まるで、そこに辿り着くのを拒否するように頭には靄がかかっていた。 「紬麦ったらそのブランドのばかり選ぶから、てっきり知ってて買っているんだと思っていたんだけれど」  勢いよく姫宮を見る。気まずそうに視線を逸らされて、ざわりと胸がざわつく。 「いつだったかしら、覚えのない綺麗なハンカチを持って帰ってきたと思ったら、王子様にもらったー! って、大はしゃぎで。でも、興奮しすぎたのか、そのあと熱を出して寝込んじゃったのよね」  その時の記憶は、朧げであまりよく覚えていない。  ただ、高熱を出して数日寝込んだことがあるとは、思い出話の中でよく聞かされた。 「その日の夜……だったかしら、姫宮さんがご挨拶に来てくださったのよ。お仕事の都合でしばらく海外に行かれるってことで、紬麦に会いたいって言われたんだけど、とても会わせられる状態じゃなくって」  ドキ、ドキ、嫌な予感がする。 「あの時はごめんなさいね」 「いえ、仕方ないことですから」  母と姫宮は会話を続けているけれど、紬麦の頭にはその内容はまともに入って来ない。 理解が追いつかない。  混乱した頭で、紬麦は今までのことをどうにか整理しようと努力した、  バラバラに散らばった記憶が、一直線に繋がっていく。  捜しても見つからなかった王子様。  真っ白なハンカチだけを残して、去ってしまった王子様。 『僕のお姫様になってください』 〝つむちゃん、ぼくのおひめさまになって――!〟  ずっと思い出せなかった夢の一部が、靄が晴れたみたいにはっきりと映し出される。 「本当に忘れちゃったの?」  忘れてたよ、今の今まで。  反応から察するに、姫宮は最初からわかっていたはずだ。紬麦が、あの泣き虫のつむぎだって。  でも、だったらどうして姫宮は言ってくれなかったんだろう。  そりゃあ、一目見てあのときの王子様だって気づかなかった紬麦が薄情だったかもしれないけど。  でも、姫宮はあの頃とは外見も随分と変わっていて、それで何も言わずにわかれっていうのは、いくらなんでも難しすぎると思う。  一言、迎えに来たよって言ってくれたら。あの時のこと覚えてる? って、そう言ってくれたら、紬麦だって平手打ちなんかしなかった。  もっともっと、別の再会があったかもしれないのに。 (わざと言わなかった?)  どうして?  やっぱり紬麦のことを変なやつだって思って、ちょっとからかってやろうかなって思った?  そう思ったら、カッと頭に血が昇る。 「――っ!」  母との会話に愛想よく相槌を打ちながらも、姫宮の視線が紬麦の様子を窺うようにちらちらと寄こされる。 「つむちゃ――」  パシンッ 「……っ」 「なんで」  どうして。 「言ってくれなかったの!」 「あ……」  振り払われた手を擦り、言いよどむ姫宮。  やましい気持ちがなければ、理由が言えるはず。  そのはっきりしない態度に、怒りを増す紬麦。 「心の中ではバカにしてたんだ……!」  アイツらみたいに! 「つむちゃん、違う! 違うよ!」 「うるさいっ! 触るな、もう顔も見たくない!」  伸ばされた手をもう一度叩く。乾いた音が玄関先に響く。 「お前なんか、お前なんか――」  王子様だって思った。  紬麦のこと迎えに来てくれた。お姫様になりたくても、変だって言わない。少女趣味でも、おかしくないって。好きだよって言ってくれた。 (オレは、ヒメのこと――……!) 「――やっぱり大っ嫌いだ!」 「紬麦!」  あっけに取られてことの成り行きを見守っていた母が、紬麦を窘めるように声を上げるけれど、その声を振り切って踵を返し、勢いよく階段を駆け上がると自室へと引きこもった。  興奮で、頭の中がぐわんぐわんと沸騰したように揺れている。  ドアを背にずるずるとへたり込んで、体育座りで丸くなる。 『ちっちゃいお口、かわいいね』 『変じゃないよ。僕は好きだな』 『つむちゃん、大好きだよ』 『僕のお姫様になってください』  本当は、そんなこと少しも思っていないくせに。  さっきまで、姫宮と一緒にいた部屋。幸せがいっぱいに溢れていた部屋。  それが、今はひとりきり真っ暗で悲しい。 「……うそつき」  膝の上に組んだ腕に額を押し付けると、擦れた前髪がくしゃりと音を立てた。  ◇◆◇ 続きはJ庭52で発行の同タイトル本にてお楽しみください ◇◆◇

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