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第4話

「来てくれてよかった」  待ち合わせ場所で、姫宮は紬麦の顔を見るなりそう言った。  改札を出て、すぐ前の植え込みのところ。きょろきょろと数回首を振って、ピンと伸ばした手を大きく振る。紬麦が駆け寄ると、もたれかかっていた手すりから体を離した姫宮は、ほっとしたように眉間の皺を解いた。 「ごめん、遅かった?」  時間通り……いや、それよりも少し早く着くように家を出たつもりだった。  自宅の最寄りからは数駅。乗り換えはなく、電車も遅延していなかったはずだ。  握っていたスマートフォンの画面を見れば時刻はまだ待ち合わせの五分前で、遅刻はしていなかったことにほっとする。  カレンダーに設定したアラームが間もなく予定時刻だと画面に大きく通知してくれているのを、指先で弾いて消去してから、紬麦はまだ不安そうに見つめてくる姫宮に首を傾げた。 「……もしかしたら、来てくれないかもって思って」  見上げると、姫宮はバツが悪そうに自分の首に触れる。 「なんで?」  約束したのに、来ないなんてことある?  紬麦はもう一度、今度は反対側に首を傾げた。 「ええと……つむちゃん、本当は嫌だったかなと思って。断られると思ってたから」  嫌じゃない。むしろ、楽しみだったけど!  そう言いたいのを、ぎゅっとリュックのショルダーストラップを掴んで我慢する。  じゃあ、姫宮は今日までずっと、紬麦が来ないかもって思ってたってこと?  行こうって約束したのに?  待ち合わせの時間と場所まで決めて、昨日も確認したのに?  そこまでして、やっぱり当日行きませんって、オレひどくない? 「……」  常々感じていたのだけれど、姫宮はおそらく多分、紬麦が嫌々一緒にいるんだと思っている。 (でも、それは最初が、最初だったし……)  あれで、はじめから好意を持てという方がどうかしていると思うのだ。  けれど、姫宮と過ごすうちに今はそうでもないというか……結構楽しくなっていたりする。  紬麦がそう思っているのは姫宮には内緒で、素直に言わないからこうやって勘違いをされてしまっているのだけれど、面と向かって言うのは恥ずかしいから、まだしばらくは内緒のままにしておきたい。  それに、普段はもっと強引に、紬麦の都合なんかお構いなしにぐいぐい来るのに、変なところで臆病なんだから笑ってしまう。  というか、姫宮は紬麦がドタキャンするようなやつだと思っているんだろうか。だとしたら、心外だ。  紬麦は今まで約束を破ったことはないし、これからもするつもりはない。  そりゃあ、何か緊急事態とかだったら別だけど、それでも連絡を入れるように努力はするし、そもそも守れない約束をしたいとも思わなかった。もちろん、嫌がらせ目的に安請け合いするのもなしだ。  少しでもそう思われたのが不満で、意地悪したい気持ちがむくむくと湧き上がって来る。紬麦の気持ちを思えば、それくらいでおあいこだ。 「もし断ってたら、どうしたの?」  紬麦の言葉に、姫宮は「そうだな……」って顎に手を添えて考え込む。 「二回目のデートをしてもらうって、先に賄賂を渡してるからね」  雑貨屋で初めて会った日のことを持ち出されて、ギクリとした。 「それをわかってもらったかな」 「ぴゅっ」  わかって、の言い方が怖い!  含みを含みまくっているそれに、紬麦はきゅぅっと両手を握って縮みあがった。 「悪いやつだ!」 「でも、出来るなら手荒なことはせずに来てもらった方が良いよね」 「手荒なことってなんだよ!?」 「……ふふ」  笑って誤魔化すのが恐ろしすぎる。  でも、いつもの姫宮の調子が戻ってきたようで安心した。  さっきみたいな不安に揺れた表情も悪くはないけれど(滅多に見れるもんじゃないしな!)、多少は厄介でも笑っている姫宮の方が紬麦は好きだ。 (――って、好きって違う! そういう好きじゃなくて!)  そういうんじゃなくて。  ただ、悲しい顔は見たくないだけっていうか。  一緒にいるときくらいは、楽しそうにして欲しいっていうか。   つまり、……ああっもう!  このままぐるぐる考えていたら他にも余計なことを考えて、もっと取り返しのつかないことに気づいてしまいそうで、紬麦はぷるぷると大きく首を振ると「行こ!」と先陣切って会場に向かい歩き始めた。その後を、姫宮がついてくる。  駅から会場まではさほど離れておらず、歩道橋を渡り真っ直ぐに歩いて行けばすぐだった。 「……わぁ」  すごい。  風船の飾られたアーチの下で、紬麦は口を開いたままキラキラと目を輝かせた。  このアーチを一歩くぐれば、紬麦もおとぎ話の主人公になれる。  そう錯覚してしまうくらい、アーチの先は眩く輝いて見えた。 「つむちゃん、こっち」 「う、うん……っ」  緊張に、きゅっとリュックを一回弾ませてから、紬麦は姫宮の後についていく。  入り口でスマートフォンの画面をタッチするだけで、ゲートは簡単に開いた。  会場はそれほど大きいというわけでもなかったけれど、様々な企業や個人が出店していて、各店趣向を凝らしたディスプレイはどこを見ても目が楽しい。  あっちこっちと端から端まで歩き回って、足はクタクタなはずなのに気分は高揚してちっとも疲れは感じなかった。  その分帰った後が怖いけど、楽しいから良いのだ。 「ヒメ、あっち!」  くん、と姫宮の袖を引っ張る。  姫宮は、ちょこちょこと動き回る紬麦の隣で始終楽しそうにしていた。商品よりも紬麦を見るので、オレのことは見なくていい! って何度か怒ったのに、効果はないからもう放っておくことにした。ふたりのやり取りに、店員も微笑ましく笑みを零す。  姫宮はこういう雑貨に特別興味があるようには見えなかったけれど、それでも文句も言わず、嫌な顔もせずに一緒にいてくれるので紬麦としてはありがたい。隣でなんの興味もなさそうにぶすくれた顔をされるより、自分の顔を見られてでも楽しそうにしてくれている方がましだった。  次に紬麦が向かう先は、大好きなあの雑貨屋を運営している企業のブースだ。  事前情報によると、会場限定のグッズと来場者へのノベルティの配布があるらしい。  それを、紬麦は今日一番楽しみにしていたのだ。  姫宮の袖を引きながら一応前は向いているけれど、紬麦の目にはもうそのブースしか映っていない。  近くまで来ると、ブースの入り口には大きなクマの着ぐるみがいて、手に下げたカゴから来場者に何やら包みを渡していた。  あれがきっと、ノベルティだ!  目を輝かせたまま、クマへ向かって突進していく紬麦を見る姫宮の顔は、こぼれ落ちそうなほどの笑顔だ。 「ヒメも、はや」 「志旺様」  く、と振り返って手招きすると、ブースから出てきた人影が、すすっと姫宮の傍へ寄るのが見えた。かっちりとスーツを着こなした男性は、一目でその他のスタッフとは違うとわかる。  このブースの責任者か、もしかしたら主催者とかかも。  どちらにせよ、偉い人というのに間違いはないと思う。  どうして姫宮にそんな偉い人が話しかけに来るのかわからなかったけれど、姫宮は姫宮でそれに動じることもなく対応していた。  まるで、慣れているみたいな。  紬麦だったら、スーツの人に話しかけられただけで、きっと飛び上がってびくびくしてしまうのに。 (知ってる人?) 『志旺様』って言っていた。姫宮の下の名前まで知っているということは、赤の他人ということもないだろう。  あまり見すぎても良くないかなと思いつつ、気になる気持ちを抑えきれず、ちらちらと視線を送ってみる。  ぷら、と足を揺らして、指を擦り合わせて待ってみても、話は全然終わりそうもない。 (どうしよう)  欲しいものは目の前にある。先に入っていても、きっと姫宮の視界の端には引っかかるだろう。  紬麦はもう一度姫宮を見てから、クマに向かってテテテと駆け寄っていった。  ふわふわの手が、紬麦に向かって差し出される。大きな手から小さな包みを受け取って、紬麦はにんまりと笑みを浮かべた。  ふと、クマの持つカゴの中をみると中身は随分と少なくなっていた。  なくなれば補充されるのかもしれないけれど、もしかしたら、ここにあるだけで終わりかもしれない。  紬麦は「うーん」と顎に指を添えて考えてから、クマに向かってもう一度手を差し出した。 「え、と……友達がいて!」  くるりと振り返って姫宮を指さす。紬麦の指の先を見て、クマはゆっくりと頷くと、もうひとつ紬麦の手のひらに包みを乗せてくれた。  ぽむ、ぽむ、と手のひらのうえをもこもこが数回タップする。 「えへへ、ありがと!」  それに、紬麦は同じようにクマの手を数回ぽむぽむとタップして返して、ブースの中へと足を踏み入れた。 (ほわぁ……!)  紬麦のお気に入りの雑貨ブランド。その商品展開は多岐にわたっている。  それこそ、手に取りやすいステーショナリーから、ちょっとお高めの陶器や洋服、リネン系まで。中でも、紬麦が一番好きなのはハンカチだった。  ハンカチなら、もっとそれ専門のブランドの方が品質は良いのだろうと思う。けれど、紬麦がこのブランドのハンカチにこだわるのには理由があった。 『プリンセスシリーズ』  そう書かれたポップの下には、ずらりと白いハンカチが並ぶ。  総レースのものから、フリルで縁取られたもの、煌びやかな刺繍が施されたものまでデザインは様々。共通しているのは、それがどれも白で統一されており純白に輝いているということ。  プリンセスシリーズは、純白とレースをテーマにしたハンカチのシリーズだ。  デザインが好みだというのはもちろんだけれど、なにより紬麦が心惹かれたのは、この商品のディスプレイ。小さなマネキンに巻き付けられたハンカチはまるで純白のドレスのようで、それを見るのが毎回楽しみなのである。  着飾った小さなマネキンが、まるでブティックのように並ぶさまは、何時間見ていても飽きない。  プリンセスシリーズは、毎月新作が出る。  月に一度のご褒美day。そこで紬麦が買うのは、決まってこのハンカチだった。  このイベントでも実際の店舗でも、プリンセスシリーズに与えられるスペースはそう大きくはない。にもかかわらず、シリーズが長く続いているのは、紬麦のようなコアなファンが多くいるからだろう。  ちなみに、プリンセスシリーズにはもうひとつ上のラインがあって、それは『プリンセスティアラ』と呼ばれていた。  ティアラは不定期に発売されるのだけれど、通常のプリンセスシリーズの倍のお値段がするので、紬麦にはなかなか手の届かない憧れの品だった。  初めて姫宮と雑貨屋で遭遇したとき、プレゼントされたのはそのティアラのハンカチ。使うのがもったいなくて、今は王子様にもらった思い出のハンカチと並べて飾ってある。まったく違う品物なのに、それはどうしてか違和感なくまとまって紬麦の城の一部になっていた。 (はぁ……やっぱりいいなぁ)  思わず、うっとりとため息が漏れてしまう。 「あ、見て。これかわいい~」 「ほんとだ、ドレスになってる~!」  本当はもっと眺めていたかったけれど、いつまでもここでぼんやりとしていては怪しまれる。  紬麦は、さっとひとつ商品を取ると足早にレジへと向かった。  今回の目的のひとつ、会場限定デザインのハンカチ。絶対、絶対欲しかったもの。  ティアラシリーズなので、通常よりもお高いのだが今日は特別だ。  会場限定……というのに惹かれたのはもちろんだけれど、もうひとつ紬麦がどうしても気になったのは、あの日――あの幼い日にもらったハンカチにそのデザインがとてもよく似ていたからだ。  紬麦がここのハンカチを買い続けているのも、どこかにあのハンカチの面影を感じているから。  もらったハンカチにはタグがついていなかった。どこのブランドかわからないそれを、物心がついた時からずっと探しているのだけれど、似たものは数あれど、同じものには未だ出会えていなかった。  ここのブランドのホームページでは、今は廃番になっている過去のデザインも閲覧できるようになっているが、その中にも同じものはなく、今でも時間さえあれば検索を繰り返している。  あれきり、あの男の子とは会っていない。  というより、何度も同じ場所に行ったけれど、彼に会うことは叶わなかったのだ。  園の敷地だったし、同じスモックを着ていたから、同じ園の子だったのだとは思うけれど。  手に入らないから余計に欲しくなるのと同じだ。  もう会えない、どこの誰なのかもわからない。  そのせいで、余計に執着してしまっているのだと思う。  今さら会ったところで、お互いに覚えてなんかいないだろうけれど。  もしかしたら、すでにどこかですれ違ってたりなんかして。  ブースを出ると、会場内はさっきよりも混雑しているような気がした。  余裕を持って歩けていたのが、今はすれ違う人と肩がぶつかりそうなくらい混み合っている。  初めてだからと、できるだけ混雑する時間を避けてきたつもりだったけれど、時間によって波があるのかもしれない。  広くはない会場でも、紬麦の身長では精一杯背伸びをしても向こう岸を見るのは困難だった。これでは、迂闊に出歩いたら迷子になってしまいそうだ。 「んと……ヒメ、どこだっけ?」  きょろきょろと辺りを見回す。ブースの入り口にいたクマは、仕事を終えたのかすでに姿はなくなっていた。  視界の端くらいには引っかかるだろうと思っていたのに、人が増えたせいで肝心の姫宮の姿が確認できなくなっている。  確か、こっちの方……と歩き出した途端、くん、と後ろに引っ張られた。 「んぐっ」 「つむちゃん!」  リュックを掴まれて、前に進もうとした足がびんっと伸びる。 「おっ……わわ!」  踏ん張ることも出来ず、なすがままに後ろに倒れて見上げると、すぐ近くに姫宮の顔があった。 「ヒメ、いた!」  にへへ、と手を伸ばすとぎゅっと両の手を握られる。 「いた、じゃないよ。もう。気づいたら、つむちゃんいないんだもん」  心配したよ。と言われて、紬麦はぷくっと頬を膨らませた。 「だって、ヒメ偉い人とお話してたから」  偉い人かどうかは、紬麦の想像だけど。  あの男の人が出てきたブースは紬麦のお気に入りのブランドだった。姫宮との関係が、気になって仕方がない。  もしかして、関係者? とかなのかも。 「あのさ、あの人……」 「つむちゃんが、気にすることないよ」  ぴしゃりと言い切られて言葉に詰まる。突然、顔の前に透明な板が差し込まれて、勢いよくぶつかってしまったみたいだ。  驚きに目を見開いた紬麦を見て、姫宮も自分の言い方がきつかったことに気づいたらしい。 「ごめん……でも、本当に気にするようなことじゃないから。ちょっとした知り合いなんだ」  焦ったように謝られても、紬麦は固まったまますぐには反応できなかった。 「それより、ごめんね。僕の話が長かったから、ひとりにしちゃって」 「う、ううん……」  かろうじてひり出した声は、喉の奥に絡まってうまく出てこない。  楽しかった気持ちが、音を立てて一気に萎んでいくような気がする。  姫宮がデートだなんていうから、なんとなく紬麦もそんなような気分になってしまっていた。  ふわふわと浮ついた気持ちでいたから神様が目を覚ませ! って喝を入れてくれたのかもしれない。  何を勘違いしていたんだろう。  いくら前よりも仲良くなってきたからといって、紬麦と姫宮はせいぜい友人が良いところ。  それだって、紬麦と翔護の関係みたいに数年来の付き合いというわけでもない友達一年生。  ましてや、恋人なんてものでは全然ないのに、楽しくて調子に乗ってしまった自分が恥ずかしい。 「……」 「……」  気まずい、沈黙が流れる。  どうしようと、手を揉みこんで、紬麦はもふもふの感触を思い出した。 (そうだ) 「ヒメ、これ」  この世の終わりみたいに顔を曇らせている姫宮の袖を引く。  なんでそんな顔しているんだ。冷たくされて、ショックだったのは紬麦の方だっていうのに。  いつもの爽やかさが嘘のようにのっそりと紬麦を見た姫宮は、差し出された手から小さな包みを受け取る。 「クマさんにもらった」 「クマ?」  首を傾げる姫宮に受け取った経緯を伝えると、彼はそのクマを捜すように視線を巡らせた。 「ヒメがもたもたしてるから、オレがもらっておいてやったんだぞ」  もうクマはいなくなってしまったから、これをゲットできたのはラッキーだった。 「感謝するならいまのう、っ」 「つむちゃんっ」  えっへんと胸を張って、姫宮の手ごとぎゅっともらった包みを握ると、感極まったように抱きしめられてしまう。 「わ、わーっ!」 「つむちゃんっ、かわいい」 「なにすんだ! ここ、外……!」  離して欲しくて腕を思い切り突っ張っても、余計に力を込められて逃げ場がない。 「なにあれ、かわいい~」 「めっちゃじゃれてる」  通りすがる人たちにくすくすとそんな言葉を向けられて、カァっと顔が真っ赤になる。  必死の抵抗も虚しくぎゅうぎゅうと抱き締められて、頬ずりまでされて。興味本位に向けられる視線から逃れるように、紬麦は姫宮の胸に顔を押し付けると大きな声で抗議しながら頭突きする。 「ヒメッ、は~な~れろぉ~~!」 「ダメ、かわいいからもうちょっと」 「吸うな! 変態変態!」  ぽこぽこと、頭も肩も胸も、ありとあらゆるところを叩いても姫宮の体はびくともしない。  容赦なく抱き締められているせいで足は地面から浮いてしまっているし、紬麦は悔しさにぷっく~と大きく頬を膨らませた。 「む~、む~~!」 「ふっ、はは。怒らないで」 「怒ってない、嫌がってんの!」 「うんうん」 「適当に返事すんなー!」  んむ~~!  何を言っても姫宮は嬉しそうににこにこするだけで、反省の色はまったく見えない。  このままでは無駄に体力を消耗していくだけのような気がして、紬麦は頬を膨らませたままぷいっとそっぽを向いた。  いつもそうだ。こうやって、口でも何でも敵わなくて、最終的には悔しさに口をつぐむことしか出来ない。 「ありがとう、嬉しいな」  渡した包みを見て、そう言う姫宮の顔に偽りはなさそうだ。  だったら、まぁ許してあげてもいいけど! 「行こうか」  さっきよりも、人はさらに多くなっている。通路から離れているとはいえ、いつまでもここで立ち止まっていては邪魔になるだろう。  促されて歩き出した途端、紬麦は前から歩いてきた人にぶつかってしまった。 「あ、ごめんなさい」  がんばって避けようと思っても、この人混みではなかなか難しい。  そうこうしている間に、姫宮の背中はどんどん遠くなっていく。 「ヒメ、まっ……」  きゅっと手に温もりが触れる。  立ち止まり、振り返った姫宮が紬麦の手を掴んでいた。 「人、多くなって来たね」 「う、うんっ」  言いながら、指先が絡まってむにむにと揉みこまれる。  手を繋いでいる。 「はぐれちゃうから」  ぎゅっと手を繋いだまま姫宮は微笑んで、その笑みを真正面から受け止めた紬麦はポワっと頬を赤らめた。  真っ赤になった顔を見られたくなくて俯くけれど、そうすると繋いだ手が嫌でも視界に入り、さらに顔が熱くなってしまう。  繋いだ手に、じっとりと汗が滲む。  でも、同じようにしっとりとした姫宮の手を感じたら、緊張しているのは自分だけではないのだと安心した。  それに、手を繋いでいないと姫宮がはぐれちゃうかもしれないからな。  紬麦は、姫宮が迷子にならないように(ここ重要だぞ)手を繋いであげるのだ。  そのまま歩き出そうとした姫宮が「そうだ」と思いついたように、バッグの中を探る。 「これ」 「なに?」  空いた方の手のひらに乗せられた包みは、クマにもらったものよりも一回りくらい小さい。  どうやら、姫宮はまたプレゼントをくれるみたいだ。 「あ、あのさ」  今日こそ言おう。と、紬麦は口を開く。  こんなに、毎回くれなくて良いんだって。あんまりもらいすぎても気後れしてしまうし、なにより、それに見合うほど紬麦は姫宮に何も返せていない。  そんな紬麦の気持ちを知ってか知らずか、姫宮は包みを開けて今度は中身を手のひらに乗せる。 「キーホルダー?」  ころんと転がり出たのは、クマのマスコット型キーホルダーのようだった。  さっき、ブースの前でノベルティを配っていたクマにどことなく似ているような気がする。  手のうえでいろんな角度から眺めてみる。  クマの下にはぶら下がるようにキャンディがついていて、引っ張れるような仕様になっていた。昔持っていた引っ張るとぶるぶると震えるおもちゃに似ていて、紬麦は懐かしさにパァッと顔を輝かせる。  けれど、ただのマスコットにしては、クマのお腹には音の鳴るようなマークがついていて、紬麦の頭にひとつの可能性が浮かび上がる。  知ってる、知ってるぞ。  このクマがただのクマでないことに、紬麦は気づいてしまった。  むっくぅ~とまた頬が膨らんでいく。  姫宮は「つけてあげるね」って、いそいそと紬麦のリュックにキーホルダーを取り付けている。  母が選んでくれたリュックサック。母は何も言わなかったし、紬麦もあえて聞かなかったけれど、これは多分キッズ用のリュックサックだ。キッズ用にしてはちょっと大人なデザインだけれど、ショルダーベルトにキーホルダーを取り付けられる金具がついて、そこにちゃりっと音を立ててクマがぶら下がる。 「これ! 防犯ブザーじゃんか!」  引っ張ったら、ビーッて鳴るやつ!  むきぃっと腕を叩いても、姫宮はにっこりと微笑みで返してくるだけで、全然痛そうじゃない。  その余裕な態度に余計にムカついて、紬麦は両手をぎゅっと握ったまま肩を怒らせた。 「オレ、そんなに子供じゃないもん」  今時、防犯ブザーを持たされる高校生なんて聞いたことがない。  紬麦だって、平均よりちょこっと小さいだけで一応は男なのだし、自分の身は自分で守れる。  それに、わざわざ男の紬麦にちょっかいを掛けて来る輩なんて、そうそういるわけがない。  ――ヒメじゃあるまいし。 「知らない人に道を尋ねられたことは?」 「?」  真面目な顔をして、姫宮が問いかけて来る。  突然の質問に、紬麦は訝しみつつも「あるよ」と返事をした。 「道を聞かれるくらい、誰にでもあるだろ!」  それこそ、姫宮だってあると思う。  道を聞かれたくらいで防犯ブザーを鳴らしていたんじゃ、何かの絵本で読んだみたいに、そのうち誰も本気にしてくれなくなって助けてもらえない。極端すぎる。 「でも、つむちゃん。知らない人に道聞かれてついて行って、誘拐されそうになったことあるでしょう」 「うっ……なんで、それを」  知っているんだと思う。  確かに、紬麦は一度だけ誘拐されかけたことがある。もうずっと前の話で、家族以外、翔護だって知らないのに。  それ以来、紬麦だって気を付けに気を付けているし、それだけで誰の話も聞かないというのは極端なことだと思う。 「つむちゃんのことは、なんでも知ってるよ」  涼しい顔をして、そんなことを言う姫宮の方がよっぽど怖い。 「ううっ……! お前が一番危ないやつだ!」  今すぐにでも、このキャンディを引っ張ってやろうか。とブザーに手を添えたところで、離れていた手がもう一度繋がれた。 「……!」 「それは悲しいなぁ」 「へ、変なことしたら、すぐビーッてするんだからなっ」  ドキドキを隠すように、紬麦は大きな声で姫宮に釘を刺す。 「わぁ、怖い。変なことって例えば、こんなことかな?」  ちゅっとすかさず額にキスをされて、そのあまりの早業にブザーを鳴らすどころか何の反応も出来なかった。 「むぃ~~っ!」 「あははっ」  悔しさに地団駄を踏む紬麦の手を、姫宮が引いていく。  それからは、まだ見ていないブースを一通り回って、少し早めの夕食を食べて解散した。  家までの道を歩く紬麦の胸元では、ちゃり、ちゃり、とクマとキャンディーが音を立てて揺れている。  それを指の先でつんと弾けば、楽しそうにクマがくるりと回転した。  ドキドキが、まだ続いているみたいに心が落ち着かない。 「……」  手を繋いでしまった。  手全体に、まだ姫宮の手の感触が残っている気がする。  伝わる温もりも、握られた力の強さも。しっとりと湿っていたのが、姫宮も紬麦と同じように緊張していたからだと思うと、胸の奥がむずむずとくすぐったくて堪らない。 「くふ」  思わずにやっと口元が緩んで、紬麦ははっと手で口を覆うと辺りを見回した。  こんな道の真ん中でにやにやと笑っているなんて、事情を知らない人が見たら怪しいことこの上ない。  幸い、誰にも見られていなくてほっと胸を撫で下ろす。 「……結局、教えてくれなかったけど」  スーツの人のこと。姫宮との関係。  聞こうと思えば聞けたけれど、蒸し返してまた冷たい態度を取られるのは怖かったし、手を繋いでからはずぅっとドキドキしていて、すっかり頭から消えてしまっていた。 「……楽しかったな」  姫宮といると楽しい。 楽しくて、ドキドキして、きゅうって胸の奥が切なくなる。  それはもう隠しようもない事実で、紬麦の心からの想いだった。  ◇◆◇ 「なんかあったろ」 「んぇ? な、なにが」  二回目のデート(!)をしてから、紬麦はぼんやりとすることが多くなった。  かと思えば、急ににやにやし始めたりなんかもして、見るからに挙動不審だ。  そんな紬麦を横目に、翔護はパックジュースのストローを噛みながら、椅子の背に寄り掛かって頭の後ろで腕を組む。  このところ、姫宮と紬麦の仲が急接近したな、とは思っていた。  最初から、姫宮は紬麦にお熱だったから、正確に言えば紬麦が姫宮に懐き始めた……というのが正しいと思うが。  紬麦が七面相している理由だって、原因は姫宮だろうなと思う。というか、十中八九そう。 「それ」  と、机に乗っかったままのリュックサックを指さす。  登校してから、紬麦はリュックを机の上に下ろしたっきり、ぼんやりと椅子に座って、ときおり気味悪く「くふふ」とにやついていた。  数日間もこの状態が続いていれば、面倒ごとには巻き込まれたくないと我関せずを決め込んでいた翔護も、降参して突っ込まずにはいられない。  先週まではついていなかったクマのキーホルダーが、リュックのショルダー部分で「よっ」と翔護を見つめている。  どうせ姫宮にもらったんだろうと聞かなくても答えはわかってはいたけれど、テキストも今日のノルマは終わったので仕方なく聞いてやる。 「こ、これはぁ」  リュックを両手で抱いて、紬麦はカァーッと顔を赤らめた。 「……」  頭のてっぺんから、まるでクジラのように吹き出す湯気が見えそうで、翔護はもうパックの中身が残っていないと知りつつもストローをずずっと吸って心を落ち着かせる。  早くも、聞かなければ良かったなって後悔しかないのだが、大切な友人の初心な反応に興味があるのもまた事実だった。 「えっと、ね」 「防犯ブザーだよね」 「ひゃぅっ」  ぬっと窓の外から姫宮の顔が入って来て、紬麦はびくんと飛び上がった。  毎回毎回、良い反応をするなぁと思いながら、今回は翔護も少しびびった。  窓枠に腕を置いたまま、姫宮がにこにこと話を続ける。 「先週デートしたときに買ったんだよね」 「でっでっ、でぇ」  紬麦は、真っ赤になったまま金魚のように口をパクパクと動かすだけで、吐き出される息は言葉になっていない。 「デートで防犯ブザーってどうなん」 「つむちゃんは可愛いから、誘拐でもされたら困るでしょ」  デートのところはあえてスルーして突っ込めば、教室に入って来た姫宮がすかさず返してくる。本気と書いてマジと読む。とんでもなくマジな顔で返されて「あ、そ」としか答えられなかったのがちょっと悔しい。  つうか、一番誘拐しそうで危ないのは姫宮だと思いますけどね。 「だからっ、知らない人にはついてかないって言ってんだろ!」 「そんなこと言って、この間、アイスクリームにつられてたの知ってるんだよ」 「うぐっ」  図星を突かれて、紬麦は今日も頬を膨らませている。 「もう、ヒメのバカ!」  って言いつつ、嬉しそうなんだよなぁ。  もう、初日とは明らかに態度が違う。ピンク色なんだよな、ふたりの周りのオーラがさ。 「……」  それをなんとなく羨ましい気持ちで眺めていると、姫宮と目が合った。 「つむちゃん……内藤くんに変なことされたら、迷わずにキャンディ引っ張るんだよ」  じっと見つめていたのを勘違いされたんだろう。  紬麦をぎゅっと抱き寄せた姫宮にそんなことを言われて、心外だと顔を歪める。 「はむ相手に、そんな気持ちになんねぇっつうの」  それに、俺は――。 「なんだよそれー!」  それはそれで悔しい紬麦が、ぽこぽこと殴って来るのを、翔護は「いたぁい」と茶化して受け止めた。  相変わらず、姫宮は独占欲丸出しで紬麦を腕に囲って構い倒しているから、翔護は仕返しのつもりで言ってやる。 「今こそ、それ引っ張った方がいいんじゃねぇの」 「うんっ」  ビーッてするぞ!  クマを握ってそう言いつつも、紬麦はブザーを鳴らさない。翔護も、それを知っている。姫宮だって同じだから、三人で顔を見合わせて笑った。 「あ、そうだ。今日も昼休みいないからな」 「今日も? 最近多くない?」 「試合近いからな」 「そっかぁ」 「最近は、俺がいない方がよかったりしてな」 「そんなことない!」 「そんなことないよ」  はは、と笑って冗談で言ったつもりが(大部分が本音だったけどな)、ふたりで声を揃えてそう言うもんだから、少し照れくさくなってしまった。  微妙な空気になってしまったのを助けるようにチャイムが鳴る。  姫宮は「またね」って、いつものようにプリンススマイルを置き土産に爽やかに去っていって、紬麦は授業の準備をしていないのに気づいて「わーっ」と声を上げると慌ててリュックを抱えて立ち上がった。  翔護は肩を竦めて「急げよ~」とエールを送ってから前を向く。 (やばい、やばいっ)  心の中で呪文のように唱えながら、紬麦は転がる勢いで廊下にあるロッカーへと向かった。  自分でも、ぼんやりしている自覚はある。けれど、気が付くとあの日を思い出してぼうっとしているので、それを自分でどうこうするのは難しかった。 「わっ」  カシャンッ……  どんっと肩に衝撃が走って、ぐらりと体が傾ぐ。 「ご、ごめんっ」 「ううん、大丈夫?」  早くしなければと気持ちばかりが急いて、前が見えていなかったみたいだ。  ぶつかったクラスメイトは「こちらこそ、ごめんね」と、よろけた紬麦に手を差し伸べてくれる。前方不注意だった紬麦が、完全に悪い。  ぶつかった拍子に散らばった荷物をお互いにかき集めると、紬麦はもう一度「ごめん」と謝って、バタバタとロッカーに荷物を押し込んだ。 (あれ、翔護の親戚の……)  クラスメイトの、名前は確か――木崎千聖。  席に着く木崎を目で追いながら、紬麦は彼を綺麗だなと思う。  姫宮も綺麗だけれど、姫宮より線が細いっていうか……柔らかい感じがする。  それに、すごく良い匂いがした。 (けど、どこかで嗅いだことがあるような?)  知っている匂い。とても身近な気がするけれど、思い出せなくてもやもやする。  うーん? と、ぐるぐるしている間に先生が入って来て、紬麦は急いで着席をすると前を向いた。  ギリギリセーフだ。 「……」  生徒たちの合間を縫って、ひとつの視線が紬麦の横顔を見つめていた。  その視線の主が、そっとポケットに触れる。  ちゃり……とした音は、窓から抜ける風の音に紛れて、紬麦にも他の誰の耳にも届かなかった。

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