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第3話

「~♪」  毎月第三水曜日。この日、紬麦は自分を世界で一番の幸せ者だと思う。  なぜなら、お気に入りの雑貨屋さんの新作の発売日だからだ。  ひと月の中で、紬麦はこの日を何よりも楽しみにしていて、部活動に加入していないのも、友人との予定をいれないのも、すべてはこの日のためと言っても過言ではない。  ――なんて、大げさかもしれないけれど。  登下校は、いつもひとりだ。唯一遊んでくれそうな翔護は、部活動が忙しく朝夕は一緒にいられないし、何より住んでいる方面が違うので、一緒に行こうと思うとどちらかが遠回りすることになってしまう。  でも、それは紬麦にとって好都合だった。  下手な言い訳で誘いを断って、相手を傷つけることも、自分が気まずい思いをすることもない。  誰に気兼ねすることなく、自由に行動できる。  先月に比べて上機嫌なのは、姫宮と過ごした昼休みが思いのほか楽しかったからかもしれない。  接し方に迷って緊張していた分、ほっとしたのも大きかったと思うが、それでも昼休みが終わるまでずっと楽しいと感じていたのは事実だ。  そんなわけで、今日はクエストを一つ攻略したような気持ちで鼻歌も漏れてしまうし、なんならおぼつかないスキップで踊り出してしまいそうにご機嫌なのだ。  毎月、この日は放課後が近づくにつれて体はそわそわ、お尻はむずむず浮き上がって、そのテンションのまま目的の雑貨屋へと向かうのだけれど、今日は一段と落ち着きがないなって自分でも思う。  店が近づくにつれ紬麦のつぶらな瞳はキラキラを増して、慣れた足取りで店内に入り、目的のものを見つけたときにそれは今日一番の輝きを見せた。  駅ビルの一角にあるその店は、ラブリーファンシーがコンセプトな店舗だけあって、店内は女性の比率が圧倒的に多い。多いというか、ほとんどがそう。店員もそうだし、注意深く見渡しても、今店内にいる男は紬麦だけだった。  たまに彼女へのプレゼントを調達に来たであろう男性を見ることもあるけれど、非常に珍しく、みんなが総じて居心地悪そうにしているので、見かけるたびにうんうんと人知れず頷いてしまう。  最初は紬麦もそうだった。遠慮がちに、けれど隠しきれない興味を含んだ好奇の視線。次第に慣れてきたけれど、初めて訪れた時には膝が震えたものだ。  今でも、紬麦に向けられる視線は変わらない。変わらないけど、紬麦も少しは大人になったので、色々と言い訳を考えられるようになってきた。  他の男性客と同じように、紬麦もプレゼントを探しに来たていを装えばいい。  演技をするんだ。ここは舞台の上。紬麦は、姉へのプレゼントを探しに来た設定で役を全うするだけ。レジでプレゼント包装をお願いするのも、役を演じるうえで培ったテクニックのひとつだ。 (今月の新作……)  わくわく、気持ちが逸る。  新商品は、店内の一番目立つ場所、中央のテーブルの上に展開されていて、このディスプレイを見るのも紬麦の楽しみのひとつだった。会社の方針か、はたまたスタッフのセンスか。毎回、写真に撮りたいのを我慢するくらい、紬麦の好みをズキュンと撃ち抜いて来る。  ちなみに、新商品は発売前にお店のホームページやSNSで確認が可能だ。  紬麦も毎日確認していて、もちろん新商品もあらかじめチェックしてある。お目当てをある程度しぼって来るのも、お店に長居しないためには必要な努力だった。  本当は、一日中居たっていい。むしろ、ここでアルバイトが出来るなら、紬麦は喜んで応募しただろう。  それをしなかったのは、ここが学園の最寄りの駅ビル内にあり、いつクラスメイトに遭遇するかわからないからだ。  店内でばったり……なら誤魔化しも利くけれど、スタッフとなればそうもいかない。他にも条件の良いアルバイトがたくさんあるのに、なんでここで? と選んだ理由を問われれば、好きだからとしか答えようがない。 (そんなにさ、気にしなくていいのかもしれないけど)  そう思いつつも、幼少期の出来事は紬麦の胸に魚の小骨のように引っかかっていて、どこかでやっぱり……と一歩引いてしまう。 (ううん、切り替えよ!)  せっかくの日に、うじうじと良くないことばかり考えていてはもったいない。 (まだあるかな)  新商品はチェック済みだと言ったけれど、数ある種類の中で、紬麦の買うものはいつも決まっている。  発売日であれば売り切れていることはほとんどないが、それでも早く手にしたい。  走り出してしまいそうな体を、冷静にと繰り返し宥めながら目的のテーブルへ近づく。  そこに目的のものを見つけて、紬麦のテンションは一気にMAXまで上昇した。 (あった――!) 「つむちゃん?」  勢いよく手を伸ばしたところで、後ろからよく知った声がする。  ビクッ  急ブレーキをかけたみたいに、キキッと固まる体。不自然な位置に、ちゅうぶらりんで止まる手。  見られてしまった。  この店に一人でいるところを。  緊張で心臓がバクバクして、冷汗がつぅっと一筋背中を伝い落ちていく。指先から力が抜け、冷たくなっていく感覚を味わうのは初めてだった。  この声の主を、紬麦は良く知っている。 「ひ、ひめみや……」  だって、今日の昼を共に過ごして、誘いを断った人物だったから。 「かわいいね」  紬麦が手にしようとしたハンカチを、後ろからひょいと覗き込んで姫宮が言う。 「こ、これは……っ姉さんへの誕生日プレゼントでっ……!」  慌てて言い訳をする。  嘘を吐くとき、人は饒舌になるらしい。  わかっていても、自分を守ろうという防衛本能はそう簡単に抑えられるものじゃないから厄介だ。  警戒心を露わにする動物のように、紬麦は姫宮に向かってフシャーッと毛を逆立てた。 「だからっ」 「つむちゃん、お姉さんいるんだね」 「へ?」  紬麦の必死の威嚇を真正面から受けても、姫宮は少しも動揺しなかった。  それどころか、にっこりといつもの調子で微笑まれて拍子抜けする。 (あ、あれ……?)  男が持つには、かわいすぎるハンカチ。紬麦の伸ばした手の先が、それであることを姫宮は確かに目にしたはずなのに。 (もしかして、目……悪いのか?)  何も言及してこない姫宮に、紬麦は逆に心配になってしまった。  てっきり「こんなところで何してるの」って笑われて、からかわれると思ったのに、姫宮は同じテーブルに並べられている他の商品を手に取り、これもかわいいよって紬麦に見せて来る。  へにょり、肩の力が抜ける。 「これなんてどうかな?」  そう言って、どんぐりの形をしたブローチを制服の襟に合わせて見せる姫宮に、ふっと笑みが零れた。  紬麦が姉へのプレゼントだと言ったから、一緒に選んでくれているらしい。警戒して張り巡らせていた糸が、するすると解けていく。 「似合ってるよ」 「そうかな。……って僕じゃなくて、お姉さんに似合うかどうかだよ」 「姫宮が自分で合わせたんじゃん」 「鏡があると、なんとなく合わせてみたくならない?」 「あ、それわかる!」  はは、と笑い合う。 「ね、つむちゃん。良かったら、この後お茶でもどうかな」  店内を一緒に見て回りながら、姫宮はさりげなく紬麦を誘った。  ここまでに紬麦の警戒心はだいぶ薄れて、むしろ紬麦の方がもうちょっと姫宮と一緒にいたいな、なんて思い始めていた。  だって、こうして家族以外の誰かとこういうものを見ることが出来るなんて、これまでの経験からは思いもしなかったから。 「うん、いーよっ」  それに泣き出しそうなくらいとても嬉しそうに微笑まれて、紬麦はくすぐったい気持ちになった。  ◇◆◇ 「また今度がすぐに来ちゃったね」  そう言いながら、姫宮は座席の背に綺麗に畳んだブレザーを掛けた。  平日の夕方、店内はそれほど混雑しておらず、案内されたのは四人掛けのテーブルだった。  少し迷ってから、紬麦は姫宮の向かい側の椅子を引く。  入ったのは、思いがけない出会いを果たしてしまった雑貨屋と同じフロアにあるカフェ。  実はこのカフェ、系列店というわけではないのだけれど、あの雑貨屋の商品が使用されており、密かに気になっていた店なのだ。  気になりつつも一人で入るにはハードルが高く、姫宮がここを提案してくれたのは、紬麦にとっては願ってもいないチャンスだった。  いつも店の前を通り過ぎながらちらちらと覗くばかりで、実際に入るのは初めてだ。ありがちなチェーン店ならまだしも、入り口がフラワーアーチになっているようなおしゃれな店に男ひとりでは入りづらい。飲食店となるとお得意のプレゼント作戦も使えないし、どうしたものかと頭を悩ませていたのだ。  でも「ここはどうかな?」って聞かれて、即決してしまうのは狙っていたのを見透かされたみたいで悔しい。  だから、紬麦はエスカレーターの横に設置された案内パネルを一周ぐるりと見て、他の店も検討しているふりをしてから、ゆっくりとイエスの返事をした。  そわそわと落ち着きなく店内を見渡す。中は思ったよりも落ち着いた雰囲気で、アーチをくぐって来たせいか、ひみつの花園に足を踏み入れたようでドキドキした。  紬麦の手には、ギフトラッピングをされた包みがひとつ。お目当てのものはしっかりちゃっかりゲット出来たし、気になっていたカフェにも入ることが出来て気分は上々。そわそわと落ち着きなく上下左右に体が動いてしまう。  そんな紬麦を見る姫宮は、笑みで顔面が溶けだしてしまいそうになるのを必死に堪えているのだが、当の本人は知る由もない。  紬麦の視線が、ちらりと姫宮の荷物に移る。  紬麦が持っているものと同じロゴの書かれた紙袋。ラッピングをお願いしていたから、きっと誰かへのプレゼントなんだと思う。  贈る相手は知らないけれど、中身は知っている。  だってだって、紬麦もずっと欲しかったものだから。  毎回いいなと思って手に取っては、店内を一周して元の棚へと戻してしまう。いつも紬麦が購入するラインよりも少しだけ値段がお高いシリーズなのだ。 『僕もプレゼントしたい相手がいるんだ』  だから選んで欲しいって言われて、紬麦は迷わずそれを勧めた。  自分のものにならないのは悔しいけれど、だからって出し惜しみをするようなことでもない。 値段も何もかも関係なく紬麦の中でナンバーワンを決めるのであれば、それ以外を選択する理由がなかった。 『うん、これにする』  紬麦の顔をじぃっと見つめてはっきりとそう言った姫宮は、他に目移りすることなく即決だった。 よほどそれが気に入ったんだろう。紬麦としても、勧めた甲斐があるってものだ。 (誰にあげるんだろう)  家族? 友達? 恋人?  相手が誰であれ、絶対に気に入ってもらえるはずだから、自信を持って欲しいと思う。  でもやっぱり――。 (いいなぁ。オレも欲しい)  って言うのが、本音だ。  大好きなお店のかわいい雑貨達。見ているとあれもこれも欲しくなってしまって収拾がつかなくなるから、ハンカチだけを買うって決めたのに。 「もしかして、お昼に言ってた用事って、お姉さんへのプレゼントを選ぶことだった?」 「え、あ、あー……そう!」  ――じゃない。姉へのプレゼントは、咄嗟に口を突いて出た嘘だ。姉の誕生日はどちらも冬で、まだしばらくはやってこない。  今日買ったのは、月に一度の自分へのプレゼントだったけれど、わざわざ言う必要もないから、紬麦はクリームソーダのアイスをスプーンの先で突っついて誤魔化す。  クリームソーダのアイスの底……氷とくっついた部分がカチカチになるのはなんでなのか、いつも不思議だ。 「お姉さん二人いると、おうち華やかそうだね」 「ん~。でも、今はもう二人とも家にいないから」 「そうなんだ」 (あれ、姉さん二人いるって言ったっけ?)  姫宮の前で家族の話をしたことはなかった気がするけれど、話題に出たのを忘れてしまっているだけかもしれない。  不思議に思いながらも、紬麦はカリカリとアイスの底をスプーンで引っ掻きながら話を続けた。 「うん。上の姉さんが就職決まった時に、ちょうどいいからって二人とも一緒に出ちゃって」 「一気にいなくなっちゃったなら、余計寂しかったんじゃない?」 「ん~、そうかも?」  ちょうど同じ時期に父親の単身赴任も決まり、羽村家からは一気に三人いなくなったことになる。  末っ子で両親にも姉二人にも大事にされて育った紬麦は、あれこれ干渉されない日常に、少しの間、自由と解放感を味わったりもしたのだけれど、それも日が経つにつれて物足りなさを感じることの方が多くなった。  しばらく家に帰るときゅっと胸の奥が締め付けられるような気がしたのは、きっと寂しかったってことなんだろう。  姫宮に言われるまで、そんなこと思いもしなかった。 「そうかも……」  自覚したら急に寂しさが襲ってきて、スプーンを口に含んだまま俯く。 「つむちゃん?」 「……」 「ごめんね、そんなつもりじゃなかったんだけど」  言いながら、姫宮は文字通りオロオロとわかりやすく動揺した。いつも余裕綽々な彼が目に見えて焦っているのは、なんだか変な感じがする。 「つむちゃん、こっちむいて」  俯き、じーっと一点を見つめたままの紬麦の視線を、なにか恨めしいものと勘違いしたのかもしれない。姫宮は自分のグラスの中身をスプーンでひと掬いすると、紬麦の前に差し出した。 「はい。あーん」 「んむ」  あーんの言葉に、ついつられて口を開く。舌の上にのったスプーンをぱくと咥えると、口いっぱいに甘さが広がって思わず両の頬っぺたを押さえた。 「美味しい?」 「……っおいしい!」 「あはは、元気になったみたいで良かった」  姫宮が注文したのは、色鮮やかなフルーツパフェ。紬麦も最後まで迷ったメニューだ。フルーツの飾り細工が見事で、何より飛び出したうさぎのリンゴがかわいいのだ。  雑貨屋でパニックになったのもあって、喉が渇いていたからクリームソーダを選んだけれど、やっぱりパフェは定番に美味しい。 (あと、プリン・ア・ラ・モード!)  姫宮越しに、前のテーブルに運ばれていくのを目で追って、紬麦は次はパフェかプリンの二択だなと考える。  ひとりで入る勇気もないくせに。  早くも次の予定に想いを馳せる紬麦の目の前に、またパフェの乗ったスプーンが差し出されて、条件反射のように「あーん」と口を開いた。  紬麦の口の中が空っぽになったのを見計らって、次から次へと差し出されるスプーン。その様子はさながらひな鳥が餌付けされているようにも見える。  結局、姫宮が頼んだはずのパフェの半分近くが紬麦のお腹に収まったのだけれど、お腹いっぱいの紬麦はもちろん、なぜか姫宮も満足そうに顔を綻ばせていた。 「姫宮は?」 「僕?」 「そう。兄弟、とか」  すっかり満足した紬麦は、ソーダの上に浮かんでいた真っ赤なチェリーを口の中で転がしながら聞いてみる。 「残念だけど、兄弟はいないんだ」  紬麦の口の端についたクリームを紙ナプキンで拭いながら、姫宮が答える。 (一人っ子か……)  弟の姫宮、お兄ちゃんの姫宮。その両方を想像してみたけれど、確かにどちらもしっくりこない。  紬麦はチェリーを飲み込むのと同時に、納得したように頷いた。 「なんかそんな感じするかも」 「わがままってことかな?」  紬麦の相槌に、姫宮は片手で頬杖をつくと少し意地悪そうに眉を上げる。  一人っ子=わがままの方程式は、誰が最初に決めたんだろう。  でも、姫宮にわがままっていう印象はなかった。  わがままというよりも、自由っていうかちょっと変わってる? ……みたいな。凡人にはない余裕と自信。その強引さをわがままと言うのなら、わがままなのかもしれないけれど。 「違くて! なんていうか、英才教育? 受けてそうな感じっていうか……」  なんだろう、うまく言えないけど、なんかこう、なんかこうあるじゃんか……! 「なんかこう、王子様っぽい」 「王子様っぽいってなぁに」  ふふって笑われて、まったく本気に取られてないなと腹が立つ。  そりゃ、突然「きみ、王子様っぽいね」なんて言われたら、からかわれているとしか思えないかもしれないけどさ。  紬麦としては、至極真面目に言っているのに。 「ほらぁ、なんかこうあるじゃん……王子の風格っていうか~」 「王子の風格」  ふっと今度は風量多めに笑われて、紬麦はむーっと頬を膨らませてパタタッと脚をばたつかせた。 「あ~もう、笑うなって~!」 「はは、ごめんごめん」  目尻に薄らと涙まで浮かべて、姫宮はくつくつと喉を震わせる。 「つむちゃんには、僕が王子様に見えるんだ」  ふぅん。って頬杖をついたまま首を傾げる仕草は、いつもの姫宮とちょっと違う。  頬に垂れた髪、意地悪に笑った唇。細められた瞳からは色っぽさが滲んで、ギャップにクラクラと目が回る。 「お、オレにはっていうか、みんな……言ってるし……」  何とか絞り出した声は、ごにょごにょと尻すぼみで格好悪い。  気を紛らわすようにグラスの汗をいじっていれば、濡れた指に姫宮の指がとんとんといたずらをしてくる。 「じゃあ、つむちゃんはお姫様かな」 「は、はぁ? へ、変なこと言うなよっ」  ひっくり返ってしまった不細工な声にも、姫宮は何も突っ込まない。 「変なことなんて言ってないよ」  真面目な顔で、さらに言葉を続ける。 「僕が王子様だったら、お姫様はつむちゃんになって欲しいな」 「また、そんなじょーだん……」  おかしいって、……変だもん。 (そんな、男のオレにお姫様になってなんて……)  こうやって、隙あらば姫宮は紬麦に求愛した。  転校初日からずっとそう。みんなの前で、あんな公開プロポーズみたいな真似をして。男の紬麦に、お姫様になってなんてどう考えたっておかしい。どうかしている。  紬麦は確かにかわいいものが好きだし、かわいいって言われるのも満更じゃない。むしろ、嬉しかった。  でも、見た目で性別を間違えられたことがないくらいにはしっかりと男の子だ。  最初は、紬麦のことを女の子だと勘違いしたのかと思ったけれど、それにしては男子トイレで鉢合わせても少しもびっくりしなかったし、紬麦が男の子だってきちんと把握した上での行動なのだと思う。 「っ」  小指を擦られてびくりと肩が跳ねる。 「冗談じゃないよ」  濡れちゃったね。と、姫宮は鞄からハンカチを取り出すと水滴で濡れた紬麦の手を拭いてくれた。  真っ白なレースのハンカチが柔らかく皮膚の上を滑って、くすぐったさと同時に頭の片隅に何かが掠めたような気がしたけれど、はっきりとは輪郭が掴めないまま、それはまた記憶の奥底へ引っ込んでしまった。  なんて返したら良いかわからなくて、紬麦は困った顔のまま姫宮を見上げる。  目が合った姫宮は、紬麦の手とハンカチを握ったまま少し寂しそうな顔をしていて、どうしてだろうかと気にかかる。 「……覚えてないか」 「え?」 「ううん、なんでもない。それより」 「!」 「アイス溶けてきちゃったね」 「んむ」  なんでもない、なんて顔じゃなかった。傷ついた顔の理由を尋ねようとして、でも、それよりも早く紬麦の手からスプーンを奪った姫宮がクリームソーダのアイスを口に押し込んでくる。  それを、条件反射で口を開いて飲み込むと、ソーダと混ざり合った溶けかけのアイスが、喉をしゅわしゅわと落ちていった。  ぴりっとした刺激に、ぎゅっと目を閉じる。  次に目を開けた時、姫宮の顔に浮かんでいた寂しさは、最初から何もなかったみたいに跡形もなく消えていた。  誤魔化されたような気がする。  そして、それはきっと気のせいじゃない。 (……)  続きを掘り下げようか迷ったけれど、姫宮の笑顔がそれ以上踏み込むのを拒否しているようで、紬麦はクリームソーダごとそれ以上の言葉を飲み込んだ。 「そういえば」  すっかり溶け切ったアイスを、ストローでくるくるとソーダに混ぜて切り出す。気まずくなった空気を換えようとしてのことだったのだけれど、実を言うと「そういえば」の続きは何も考えていない。家族にも「よく考えてから話しなさい」って言われるのだが、考えるよりも先に焦りが口から出てしまうのでしょうがないのだ。 「うん」  相槌を打った姫宮は、じっと紬麦の言葉の続きを待っている。  たっぷりと間をおいて「えーと、うーんと」と考えて、紬麦はぴんとひらめいた。 「姫宮は誰にあげるの?」  紬麦は、姉にあげる……というていだけれども。  我ながら、良い返しだったんじゃないかと思う。うろうろと不審に彷徨わせていた視線を姫宮に向ければ、彼はきょとんと目を丸くしていた。  あれをもらえる幸運な人。苦し紛れに捻り出した話題だったけれど、それは、紬麦もずっと気になっていたことだからちょうど良い。  ちら、と紙袋に視線を送ると、視線の意味に気づいた姫宮は「ああ」と微笑んで、そこからきれいにラッピングされたプレゼントを取り出した。 「はい」  紬麦の目の前に、すっと見慣れた包みが差し出される。 「?」 「これは、つむちゃんに」 「え?」  にっこりと笑う姫宮に、紬麦は戸惑った。 「お、オレ誕生日じゃないけどっ」 「うん。知ってる」 (知ってるのかよ!)  教えてないけど! って、今突っ込むのはそこじゃない。いや、そこじゃなくもないんだけど、なんで知ってるのかもすっごい気になるんだけど! 「これは、今日お茶に付き合ってくれたお礼」 「でも……」  誕生日云々は置いておいて(漏洩元は多分というか絶対翔護だろうし)、本音を言うと、とても嬉しかった。  だって、毎回買えないのに手に持って店内を周ってしまうくらい、ずっと欲しかったものなのだ。贈られる相手を心底羨ましいなと思っていたのに、まさかそれを自分がもらえるなんて。  思いもかけない出来事に、うまく反応が出来ない。  もごもごと口ごもる紬麦に、姫宮は柔らかく笑みを浮かべたまま、ふっと肩を竦める。 「じゃあ、またデートしてもらうための賄賂」 「デート!」 「あ。そっちに食いつくんだ」 「あ、う」 「はは」  言葉に詰まり、わたわたと身振り手振りで慌てふためいていると、姫宮は口元に手を添えて微笑んでから、両手で丁寧に掴んだそれを改めて紬麦の胸の前に差し出した。 「とにかく、つむちゃんのために買ったものだから貰ってくれると嬉しいな」  紬麦が受け取らなかったら、どうなるんだろう。  他の子にあげちゃう? それとも、捨てちゃう? 「……」  受け取ってしまったら、デートをしなくてはいけない。  でも、これは欲しい。  紬麦の中の天秤は、右に左にあっちにこっちにとぐらぐら大きく揺れていた。  いやいや、でも。理由はどうであれ、姫宮はこれを『紬麦へ』とプレゼントしてくれたのだ。それを受け取らないのは失礼だし、プレゼントにも申し訳ないから……。  紬麦は手の上に乗せられた包みを、そぉっと自分の方へ引き寄せる。 「……ありがと」 「うん」  紬麦の腕の中にしっかりとプレゼントが収まったのを見て、姫宮は嬉しそうに破顔した。 「受け取ってくれたってことは、またデートしてもらえるってことだ」  ね? って飛んできたウィンクを真っ赤な顔で受け止めて言葉に詰まる。 「え、やっ……で!」  違う! とは言えない。  だって、それを条件に出されたうえで、受け取ったのは紬麦だ。正しくは、物欲に負けたとも言うかもしれないけれど。 「ふっ、はは! 楽しみにしてるね」  紬麦がプレゼントの誘惑に負けたのは、姫宮にもお見通しだろう。反応に声を上げて笑われたって、返す言葉もない。  紬麦は悔しさに両の頬を大きく膨らませた。 「う~~……っ!」  うまく丸め込まれた感じがあるけれど、楽しそうに笑う姫宮を見ていたら、からかわれているはずなのに嫌な気持ちにはならなかった。  むしろ、胸が躍るような感じがしてそわそわする。 (?)  この気持ちは何だろう。  トクトク、ドキドキ、ふわふわ  きゅうっと切なく締め付けられるようで、それでいて高揚するような不思議な心地は、今までに感じたことがない。  初めて抱く感情は気持ちが悪くてもおかしくないのに、その落ち着きない胸のざわめきもどうしてか嬉しいと思ってしまって、紬麦はずっとお尻が浮いたような気分だった。  その後、しばらくおしゃべりをしてから帰路についたのだけれど、その間もずっとドキドキは続いていて、何を話したのか会話の内容はほとんど覚えていない。  良いって言うのに、姫宮は家の前まで送ってくれた。  そんなに過保護にしなくても、ひとりで帰れるのに。  そう思ったけれど、思考回路がふにゃふにゃの今の紬麦では、ここまでどうやって帰って来たのかも曖昧だったので、厚意に甘えて正解だったかもしれない。 「じゃあ、また明日学校で」 「うん。また明日」  パタン、ドアの奥に姫宮の笑顔が見えなくなる。  ドアが閉まってからも、しばらくの間、紬麦は手を振った状態でぼうっと玄関に突っ立っていた。 「――って、これじゃダメだろ!」  ガクンと玄関に崩れ落ちて、地面に腕をつけてひれ伏す。 (なに普通に遊んでんの!?)  我に返った途端、急に今までの行動が恥ずかしくなって「ううう」と唸り声を上げながら冷たいタイルの上で丸くなった。  なんだかんだで楽しんでしまった。  いや、楽しみすぎてしまった。  自己嫌悪に「ああ~」と声を漏らしながら芋虫のように蠢く。 「……姫宮って、あんな風に笑うんだ」  くしゃりと目尻に寄った皺。涙袋がぷっくりと浮き出るのが、なんだか可愛かった。  王子様なんて言われて、澄ました顔が印象的だったけれど、ああやって笑った顔はちょっと幼く見えて親近感がわく。 〝……ちゃん〟 「……あれ?」  頭の中で誰かが紬麦を呼んだような気がする。思い出そうとしても、脳裏に浮かび上がるのはさっき見た姫宮の笑顔ばかりだ。 「おかえりなさい……って何してるの?」 「なっ、なんでもない」  母の声に我に返り、制服についた埃を払うと急いで二階へと駆け上がる。  どうしたのって母の声にもう一度なんでもないって声を張り上げて、ドキドキと逸る心臓に手を当てた。  自室へ入り、閉じたドアを背にずるずるとへたり込めば、滑り落ちたリュックの口から姫宮にもらったプレゼントが顔を覗かせる。 「……楽しかったな」  触れながら、ぽつりと呟く。  楽しかった。自分の家が、もう少しだけ遠かったらいいなって離れ難く思うくらいには。  きゅっと膝を抱える。  にやけそうになる顔を抱えた膝にぐりぐりと押し付けて、紬麦は「へへ」と小さく笑った。  ◇◆◇  初めてのデート(姫宮談)をしてから、翔護がいない日でも二人で昼食を摂るようになった。  最初こそ緊張していたものの、初対面でプロポーズまがいのことをしてきた割には、それ以上に変なことをされることはなくて拍子抜けする。  最初のインパクトが強すぎたせいで身構えていた分、自意識過剰みたいでちょっと恥ずかしい。  姫宮の中でも、きっと何か超えてはいけないラインみたいなものがあるんだろう。  紬麦には、よくわからないけれど。  それよりも、誕生日でもなんでもないのに、頻繁にプレゼントをくれるようになって、そっちの方が気がかりだった。  バレているんじゃないか? 自分の少女趣味が。  それでも、プレゼントに罪はないなんて理由をつけて、ちゃっかりしっかりもらってしまっているのが良くないっていうのはわかってる。  紬麦が受け取ってしまうから姫宮は持ってくるし、拒否していない以上、好意的だと捉えられても文句は言えない。  なんだかんだですっかりほだされてしまっていることに紬麦自身も薄ら気づいていたけれど、せっかく仲良くなり始めた、この友達と呼べるか否かの微妙な時期を台無しにしてしまうのが怖くて、見ないふりをしたまま関係は続いている。  放課後も一緒に帰ることが多くなって、姫宮と過ごす時間は着実に増えていた。  紬麦としてはそんなつもりはないのだけれど、こっそり帰ろうとしてもどうしてか見つかってしまうので、最近は諦めて大人しく姫宮が迎えに来るのを待っている。  さすがに、月に一度のお楽しみ。第三水曜日だけは、どうしても外せない用事があるからと断っているけれど。今は大人しく聞き分けてくれている姫宮も、いつまで誤魔化せるか先行きは不安だ。  そんなわけで、あれ以来二人であの雑貨屋を訪れることはなかった。  本当に極たまにだけれど、翔護の部活が休みの日には三人で一緒に帰ることもある。この間は、駅前に期間限定で出店しているクレープを食べに行った。  姫宮はそういった流行りに敏感なタイプのようで、いろんな情報をよく知っていた。なにより、彼が教えてくれるものはぜんぶ紬麦好みだから困ってしまう。  そうやって、断りづらくさせるのも作戦のうちなのかもしれない。  手のひらの上でころころと転がされているとわかっていても、子供のように目を輝かせながらはしゃいでしまう自分は実に単純だと思う。  ひとりでは尻込みしてしまうようなところだって、姫宮と一緒なら怖くない。見たこともない新しい世界に手を引いていってくれる、そんな姫宮と一緒にいるのは純粋に楽しかった。  そんなこんなで、最初はあんなに警戒していた紬麦も、最近はすっかり姫宮の前で寛いで、ごろんとお腹を見せてしまっている。  もともと、末っ子で甘えん坊な紬麦は根っこが甘やかされることに慣れていて、よしよしされるとすぐに懐いてしまうのだ。  だから、あんなに「ほだされないぞ!」っておへそに力を込めて気合いを入れていたっていうのに。 「ヒメ!」 「つむちゃん」 「お~……はむ、お前随分なついたな」  いつの間にか〝ヒメ〟呼びになっている紬麦に、ふたりの様子を見ていた翔護は苦笑する。 「?」  昼休み。今日は部活のミーティングがある。  最近、自分がミーティングの日は、二人が教室ではない別の場所で昼食を摂っているのに翔護も気づいていた。二人っきりでどこ行ってんだよ、なんてからかった日には、色々とこじれて面倒くさいことになりそうなので、言いたい気持ちをストローの先を噛むことで我慢している。  教室へ迎えに来た姫宮の腰に「ドーン!」とご機嫌に抱き着く紬麦は、自分が姫宮にどういう態度をとっているか自覚はないんだろう。 「……は」  呆れて口を開きかけた翔護に、姫宮が「しーっ」と唇に指を立てて制止する。そんな仕草も嫌味なくキマってしまうのは、さすが姫宮といったところか。 「おいヒメ、頭嗅ぐなってば!」 「嗅いでないよ」  紬麦を抱きとめ、頭頂部に顎を置いたまますぅーっと深く息を吸い込む姫宮に、紬麦が容赦なく頭突きをかます。 「いたっ」 「嗅いでる! わかってんだぞ!」 「も~、じゃあ僕のも嗅ぐ?」 「え、あ……うん……いい匂い」 「本当? シャンプー新しいのに変えたんだ」  屈んだ姫宮の頭を抱いて、くんくんと鼻を寄せる紬麦と、しっかりと紬麦を抱いたまま嬉しそうに微笑む姫宮に、翔護はいったい何を見せられているんだと思う。  飲み込んだはずのミルクティーがうっかり逆流してきてしまいそうだ。 「……おーい、お前らイチャついてんな~」 「い、イチャついてないっ……!」  我慢も限界に達し、零れた翔護の呆れ声に紬麦がはっとしたように飛び退く。  紬麦の瞬発力には、翔護も一目を置いていた。体育のスポーツテストで、反復横跳びだけ飛びぬけて成績が良いのだ。おかげで、一応スポーツ推薦で、身体能力には自信のある翔護の成績ともあまり差がないので、少し悔しかったりもする。 (あれは、反復横跳びだけで平均点上げてるな)  そうどうでもいいことを考えながら、姫宮からの冷たい視線を受け流す。  これからまたイチャイチャするんだろうから、少しくらい邪魔をしたって罰は当たらないはずだ。 「いつものところで良い?」 「うんっ」  早く早く、と姫宮の背を押す姿は、少し前の紬麦からは想像できない。 (ふぅん)  あんなに「行かないで」って駄々を捏ねていたのに。  紬麦を取られたみたいで寂しい。  素直にそうは思うけれど、そんな感情が湧くこと自体、翔護は複雑だった。子供の成長を見守る親は、こんな気持ちなんだろうか。 「しょーご!」  姫宮の体の横から、紬麦がひょっこりと顔を覗かせる。 「ミーティングがんばってな!」 「お~ありがとな~」  手を振り返すと、姫宮が紬麦の腰を抱いて廊下へ促すのが見えた。早く行こうと言わんばかりのその手に、強い独占欲を感じて肩を竦める。 (俺に嫉妬しなくても)  紬麦は大切な友達で、それ以上でもそれ以下でもない。  初めて出会った中等部の頃から、姫宮と同じような感情を紬麦に向けたことはただの一度もないから安心してもらいたい。  それにしても、あんなに苦手意識バリバリだった紬麦を懐柔するなんて。 「王子様はいったいどんな魔法を使ったんだか――」  翔護がそんなセンチメンタルな気持ちになっているなんて少しも知らない紬麦は、今日も軽快に屋上へ続く階段を昇っていた。 「いっち、にぃ、さんっ♪ とおちゃーく!」  ふたりのときは、いつもの場所。屋上へ続く階段の、一番上の踊り場が定番だった。 「つむちゃん」  いそいそとお弁当を広げていると、姫宮にこっちこっちと手招きされる。 「今日も?」 「うん。だって、お尻痛いでしょ?」 「平気だよ」 「いいから」 「ん~」  這って姫宮の前まで行って、いつものように開かれた足の間にちょこんと収まった。  一緒に昼食を摂るようになって何度目かのとき、姫宮は折り畳みのクッションを持参してきた。それを紬麦のお尻の下に敷いてくれたのだけれど、今度は背中も痛いよねって、クッションのうえに姫宮、そのうえに紬麦が座り、贅沢な背もたれ付きの人間椅子が完成したのだ。 「椅子の座り心地はどうですか、お姫様」  執事のように恭しくそう聞いてくる姫宮に、紬麦はぐぅーっと体重をかけて寄り掛かる。 「ふはっ、もう王子様じゃなくなってるじゃん」 「んー? もしかして、王子様にしてくれる気になった?」 「いただきまーす」  何も聞こえなかったふりをして、お弁当を食べ出す紬麦の頬をくすりと笑って突いてから、姫宮も持参したサンドウィッチに手を伸ばした。 「つむちゃん」 「む」  口いっぱいに詰め込んで食べるのが、紬麦の癖だ。  お行儀が悪いって言われるけれど、口いっぱいに入っていた方が満足感があってたくさん食べられているような気がするのだ。  こしょと顎を指の腹で撫でられて、顔を上げると思いのほか近くに姫宮の顔がある。 (え、なに!?)  ふっと顔に影が掛かり、ゆっくりと整った顔が近づいて来る。  ――キスされる。  ぱっと頭に浮かんだ可能性に紬麦は身を強ばらせた。 (こ、こんなところで、今!?)  頭は一気にパニックになって、混乱の渦の中に突き落とされる。  背中に感じる姫宮の体温。リアルに感じるそれに、トク、トク……と鼓動は速くなるばっかりだ。 (ど、どうしよう)  今、口に何が入ってたっけ。  ドキ、ドキ、心臓がうるさい。まん丸の瞳は、姫宮の唇に釘付けだ。  あの日、姫宮に奪われた唇は事故だからカウント外だとして、紬麦はまだ本当のキスをしたことがない。  初めてがお弁当味なんて、あんまりロマンチックじゃなかったな。なんて、緊張を通り越して逆に冷静に考えてしまう。  紬麦の予定では、ファーストキスは……そうだな。夕日の差し込む放課後の教室でふたりっきり、自然と良い雰囲気になって――とか考えていたけれど、まぁ、この踊り場も考えようによってはふたりだけの秘密基地みたいでロマンチックかもしれない。  ぐるぐると考えたまま、視線は姫宮から離せない。姫宮もじっと紬麦を見つめて、はたから見たら熱いラブシーンのように見えるだろう。  トク、トクン  薄い胸が、浅い呼吸を繰り返す。 (そういえば、オレたち恋人じゃないけど、キスしちゃっていいのかな……)  姫宮のプロポーズに紬麦は『YES』とも『NO』とも答えていない。姫宮も、紬麦に返事を催促したりはしなかった。  本気じゃなかったのかも。  冗談だったのかな。  もしかしたら、誰かと間違えていたのかもしれない。 「つむちゃん」  ブルーハワイが煌めく。  やわらかなクリーム色が紬麦の頬をくすぐる。  ドキドキ、する。 (いいかな)  ドキドキで頭がいっぱいになって、何も考えられない。 (いいよね)  だって、今この瞬間にドキドキして、その先を期待してしまっているのは紛れもない事実だ。  すっと唇の横を撫でられて、いよいよだと目を瞑る。 「……」  けれど、少し尖らせて上向いた唇にそれ以上何も触れることはなかった。 (……あれ?) 「……?」 「お弁当、ついてたよ」  にっこり。  差し出された姫宮の指には、一粒の米。それがぱくりと姫宮の口の中に消えて、微笑まれてからようやく紬麦は自分の勘違いに気が付いた。 「~~――!」  ボンッと音を立てて、頭のてっぺんから湯気が立つ。 「ヒメッ」  真っ赤な顔で怒る紬麦に「どうしたの?」ってしゃあしゃあと聞いて来る姫宮は、イジワルモード全開だ。 「も、も~! も~~!」 「あはは、牛になっちゃった」  カッとなって、ぽこぽこと姫宮の腿を叩く。  何か言おうと思っても怒りで思考回路はめちゃくちゃで、攻撃力の高そうな返しは出来そうもなかったので、ぷぃっとそっぽを向いてお弁当の続きを食べ始める。無視作戦だ。 「ごめん。ごめんね、つむちゃん」  許してって、そんなにやけた顔でほっぺを突かれても許さないんだからな!  ぷいーっと顔を逸らしてもしつこく突かれるから、かぷっと噛みついてやる。 「いてて」  そりゃあそんなに強くは噛んでないけど。姫宮は少しもダメージを感じていないようで、痛いなんて言葉とは裏腹、楽しそうに喜んだ声を上げるものだから腹が立って仕方がない。 (む、む、むー〜〜っ)  はむっと勢いよくおにぎりを口に詰め込んだ紬麦の前に、すっとスマートフォンが差し込まれる。 「?」  じぃっと険しい顔で画面の文字を追って、紬麦は一転、パァッと顔を輝かせた。 「これ!」 「そう、今度の週末やるんだって」  一緒にどうかな? と誘われたのは、紬麦が好きな雑貨ブランドも参加するイベントだった。  不定期に行われるそのイベントは多くの企業が参加して、広い会場の中で自社製品をPRする。中には、その会場限定のグッズなどを販売する企業もあって、毎回賑わいを見せていると聞いた。……というのは、紬麦はそのイベントに一回も参加をしたことがなく、情報はインターネットやテレビで見るものがすべてだったからだ。  一度は参加してみたい。そう思いつつも、やはり男一人で参加するのは気が引ける。  姉たちについてきて欲しいと言えば、二つ返事で一緒に来てくれるだろうと思う。けれど、忙しそうにしている姉たちにわざわざ貴重な休日を割いてもらうのは申し訳なくて、一度もお願いをしたことはなかった。 「わ、わぁ~」  行きたい!  そわそわ、と体が揺れる。姫宮の手を掴んだまま、もっとよく見ようとスマホの画面を覗き込んで、紬麦は「あ」と声を上げた。 「どうしたの?」  不思議そうな声で首を傾げる姫宮に、紬麦はつんと唇を尖らせる。 「チケット……ソールドアウトって書いてある……」  チケットは事前購入制で、開催を間近に控えたこの時期では、もうすべての時間帯に販売終了の文字が書かれていた。  情報通の姫宮でも、ここまではチェックしなかったのかもしれない。  それだけ人気で、楽しいものなのだということは窺えるが、もうすっかり行くつもりになっていた分、落胆も大きい。  さっきまでわくわくしていた気持ちが一気に萎れて、しょぼんとしたまま姫宮にもたれかかる。不貞腐れモード全開だ。 「つーむちゃん」  つつ、と頬っぺたを突かれて紬麦は唇を尖らせたまま姫宮を振り返った。 「じゃんっ」  と、目の前に差し出されたのは、またスマートフォンの画面。何度見たって、チケットが復活するわけじゃないのに。  怪訝に思いながら促されるままに画面を見ると、そこにはイベント名と日時、それから『ご招待』と書かれた電子チケットが映っていた。 「え!」  一度がっかりした分、喜びも大きい。けれど、また何か障害があるんじゃないかって、紬麦は期待半分、不安半分で姫宮を見た。  それに、姫宮は微笑みを浮かべたまま答える。 「大丈夫。ちゃんと会場に入れるチケットだよ」 「ほんと!」  ぴょこっと腕を掴んでお尻を浮かせる紬麦の額に、ちゅ、と姫宮の唇が触れる。 (こ、こいつどさくさに紛れてまたー!)  拳を握り締めて文句を言おうとしたけれど、それは姫宮に先手を打たれて叶わなかった。 「おっ」 「つむちゃんは、都合大丈夫?」 「お、おお、おぅ……」  出鼻をくじかれて不自然に頷く紬麦に、姫宮は「良かった」と微笑んだ。 「……でも、ご招待? 何かで当たったの?」  商店街の福引とか? (って、商店街とか絶対行かなそう)  思わず、自分で突っ込みを入れてしまった。 「ううん。親の仕事の関係でたまたまね、もらったんだよ」  なるほど……。なんていうか、直接聞いたことはないけれど、姫宮に関する情報は何もしなくてもよく耳に入って来る。  それは、絶対に嘘だろって思うような噂話から、割と信憑性の高そうなものまでいろいろ。中には親に関する情報とかもあって、今の話から察するに噂もあながち間違ってはいないのかもしれない。 「そうなんだ……」  言っている側からしたら、軽い気持ちでほんの冗談なのかもしれないけれど、友達になったら全部おごってくれそうとか、付き合ったら玉の輿にのれちゃうかもだとか、他にも……いっぱい。お金目当てみたいなことを言うやつもいて、紬麦はそれが好きじゃなかった。  だから、親のことをここでそれ以上突っ込んで聞くのもどうだろうと思って何も言わなかったのだけれど、もしかしたら、それを自分に何の興味もないと取られてしまったかも。姫宮はちょっと寂しそうな顔をして、それからいつものようにくっと口角を上げた。 「待ち合わせ、どうしようか」 「え、と……会場どこだっけ!」  ぷるるっと頭の中で首を振って、気を取り直す。過ぎたことを後悔してもしょうがない。また今度、さりげなく話題に出せばいい。  姫宮の腕の中、二人で一緒に会場までのルートを確認する。腰に回された腕は解かれることなく、いつもと同じ力で抱かれたままで安心した。 「――ってことで」 「うん!」  今回の会場は利便性が良く、待ち合わせはすんなりと決まった。頭の中で時間と場所を忘れないように反芻する。あとで、スマホのスケジュールにも登録しておこう。  週末、ふたりで初めてのお出かけ。  イベントに行けるのはもちろん楽しみだったけれど、それだけじゃない気持ちからはまだ目を逸らしたくて、紬麦は勢いよくおにぎりに齧り付いた。

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