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第2話
「おはよっ!」
「はよ」
「んむっ、つまむなってば!」
「ハハッ、わりぃわりぃ。触んねぇと、なんか一日始まる感じがしなくてさ」
息を切らせて教室に飛び込み着席した途端、振り返った翔護に頬をこねくり回されて、紬麦はむずかるように首を振った。
「の~ば~すな~!」
「てっきり姫王子と同伴かと思ったけど」
びにょんっと左右に大きく一度引っ張ってから、翔護の手が離れる。
揉み解された頬を両手で押さえながら、紬麦は摘ままれただけじゃない赤さの残る頬をぷっくりと膨らませた。
「へ、変なこと言うなよ!」
きょろきょろと辺りを窺って、あやしい人影がいないのを確認してから、ほっと胸を撫で下ろす。
このところ、紬麦は誰かに後をつけられていた。気がつくと、背中にべったりと張り付くような視線を感じる。
誰かに……と知らないふりをするのはわざとらしいかもしれない。その犯人には、もうとっくに目星がついていたからだ。
誰かに命を狙われているのか? っていうくらい挙動不審に上下左右を確認して、くるくると表情を変える紬麦を、翔護は必死に滑車を回すハムスターのようだと微笑ましく見守っているのだが、それは本人には秘密だ。知られたら、もっと面白いことになりそうで気になるけれども。
「てゆうか、姫王子って何?」
それが誰を指しているのかは、わざわざ聞かなくてもわかったけれど、それだけあいつに興味を持っているんだと思われるのが嫌で、紬麦はそ知らぬふりで返した。
「女子たちが騒いでた。名前が姫宮だろ~。だけど、見た目は王子様だから〝姫王子〟なんだとさ」
「……何それ」
姫なのか王子なのか。
どっちもだなんて羨ましすぎる。
「噂じゃ、もうファンクラブも出来てるって話」
女はそういうの早ぇよなぁ。と、他人事の翔護は面白そうに頭の後ろで両手を組んだ。
「ふぅん」
それにそっけなく相槌を打ってから、伸びあがって壁掛けの時計を見る。本来なら、見やすいようにと教室の前方上部に設置されているはずの時計も、紬麦にかかれば翔護が邪魔でまったく見えない。
太ももをぷるぷるさせながら確認した時刻は、始業にはまだ少し早かった。
「なんだよ、全然興味ねぇじゃん」
「あるわけないだろ」
あんなことがあって、どうやったら興味が持てるっていうんだ。
(転校初日に、あんな、あんな……っ!)
突然、クラスメイトの前で公開プロポーズなんてされて!
(うう〜……)
思い出すだけで、カァっと顔が熱くなる。
おかげで、紬麦は今や時の人だった。
どこにいても、常に視線を感じる。知っている人も知らない人も、みんなが紬麦を見ている。ごくごく平凡で、平均よりもちょっと身長が低いだけの自分が、普通に生活していればこんなに注目されることなんてない。全然知らない人達に一方的に知られているのは、正直に言って怖かった。
(そりゃあ、あいつはこんなこと慣れっこなのかもしれないけどさ)
あれだけ持っているものが多ければ、注目される機会も多いだろう。
でも、紬麦は違う。
別に目立ちたいなんて思っていないし、むしろ、こんなに四六時中見張られているような状況は困る。
――いつか、うっかり紬麦の大事な秘密がこぼれて、暴かれてしまうかもしれないから。
そうならないためにも、この状況をどうにかして打破しなければ……!
「オキニなのに?」
にやにやとからかうような口調の翔護に、紬麦は不機嫌さを隠さず、眉間に皺を寄せた。
「はぁ?」
「これも朝から話題になってたぜ。姫王子には、もうお気に入りの子がいるって」
「それがオレだって?」
付き合っていられないと、一時間目のテキストを机の上に乗せてわざとらしくトントンと整えてやる。
「お前以外に誰がいるんだよ。昨日あんなに熱烈なプロポー……ンーングッ」
「ワー! 変なこと言うな!」
思い出しちゃうだろ! と飛びついて翔護の口を塞ぐ。
もうこの話題は終わりだって意思表示だったのに、翔護はなおも言葉を続けて、着火した爆弾にさらに燃料を投下していくから、紬麦は口を塞ぐ手にぐぅっと力を込めた。
ギブギブ、と手を叩いて降参を訴えられたって許してやらないんだからな!
「朝から楽しそうだね」
ぬっと窓を越えた長い影が覆いかぶさってくる。
急に耳元に聞こえた囁きに紬麦が悲鳴を上げるよりも早く、教室内からキャアッと黄色い声が上がった。
「ひゃわっ」
「あはは、かわいい声」
びくぅっとまるで削る前の鰹節みたいにぴんと背筋を伸ばす紬麦を、窓枠に肘を突いてご機嫌に眺めるのは、噂の転校生、姫王子こと姫宮志旺だった。
噂をすればなんとやら。あまりにタイミングの良い登場に、ぞっとしてしまう。さすが、四六時中紬麦をストーキングしているだけある。
「はい、つーかまえた」
「ぴっ」
今日も僕の勝ちだね。と笑う姫宮の顔は、心なしかいつもよりも圧が強い。翔護の口を塞いでいた手をはずされ、そのままぎゅっと握りこまれてしまうと、紬麦はもうどこにも逃げられずに捕まってしまう。
「う、うう~~」
悔しい。今日も負けた。いや、勝った負けたの問題じゃないんだ、本当は。だって、鬼ごっこなんか最初からしていないのだから。
「なに、お前ら朝から鬼ごっこでもしてんの?」
「うん」
「してない!」
綺麗に重なった二人の声に、翔護が声を上げて笑う。
「あっはは! お前らいつの間にそんなに仲良くなったんだよ」
それに、にこにこと視線を寄こされて、紬麦はぷいっとそっぽを向いた。
鬼ごっこなんてしていないし、仲も良くない。
追いかけて来るのも、それから、しつこい視線を送って来るのも、どちらも犯人は姫宮だった。
本当は、紬麦だってこんな鬼ごっこしたくない。
朝、家を出た瞬間から周りをきょろきょろ窺って、気を遣って、余計な体力を使うなんてまっぴらごめんなのに、姫宮が追いかけて来るから逃げるしかないのだ。
そう言うと、姫宮は「逃げられると追いかけたくなるよね」ってみんな曰くプリンススマイルで返してくるので、紬麦は悔しさに唇を噛むしかない。
(みんな騙されてるんだ、この顔に……!)
あの日、ほんの一瞬でも姫宮にときめいてしまった自分が許せない。王子様のキラキラ魔法の粉を、運悪く思いっきり吸いこんでしまったんだ、絶対。
だから「かっこいい♡ きゅん♡」なんて……今となっては、どうかしていたとしか思えない。
早めに魔法が解けて本当によかった。
「はむだけもうあだ名だもんな」
「だから、違う!」
「つむちゃん」
「む~~!」
ぷく~っと頬っぺたを膨らませても、二人とも本気にしないから余計に腹が立つ。
翔護は味方だと思っていたのに、このところこんな調子でからかわれてばかりで面白くなかった。
(こんど思いっきり首のとこジョリジョリしてやる~!)
「俺もあだ名でいいよ?」
「内藤くん」
「はむと温度が違いすぎんな」
すかさずそう返す姫宮に肩を竦める翔護は、それでも機嫌は損ねていないらしく笑顔だった。
その間も、ブルーハワイの瞳はじぃっと紬麦だけを見つめていて落ち着かない。
「オレも羽村くんで良いんだけど……」
「つむちゃん」
「……」
にっこりと微笑まれて、肩が落ちる。悲しいかな、話が通じないやつには何を言っても伝わらないのだ。紬麦は早々に諦めてため息を吐いた。
「何の話をしてたの?」
「お前には関係ないだろっ」
「え~、つれないな」
お前のことだよ! とは言えないので、べっと舌を出して誤魔化す。
それに「舌ちっちゃいね」って見当違いな返答をされて、助けを求めるように翔護を見つめても、どこ吹く顔でスマートフォンをいじっている。
「僕の言ったこと、もう忘れちゃった?」
「ひ、ひゃ……っちかづくな!」
忘れるわけがない。そのおかげで、紬麦はずっと居心地の悪い思いをしているのだ。
悪夢から始まり、それから公開プロポーズまで。そのせいで、紬麦は迷惑している。今、この瞬間もだ。
見ていないふりをして、聞いていないふりをして、クラスの半数以上が自分たちの言動に興味津々なのが空気だけでわかる。
夢見が悪かったのは姫宮のせいではないけれど、仮にも高校生男子に向かって「お姫様になって」なんて正気の沙汰じゃない。帰国子女だから、で済まされる冗談にもほどがある。アウトだ、アウト!
「忘れちゃったんならしょうがないね」
姫宮の声にはっとして、散り散りになった意識が戻って来る。思いのほか近くに姫宮の顔があってびっくりしたけれど、はぁっと大きなため息の後に離れていったので、ほっと胸を撫で下ろした。
「思い出させてあげる」
「え?」
多分、語尾にハートマークが付いていたと思う。
さっきよりも近く、鼻の先が触れてしまいそうなほど迫る姫宮の顔。その頬にはまだ小さなもみじが薄らと残っていて、それがだんだんとぼやけていくのを紬麦はなすがままに見つめる。
ただでさえ、王子様の玉の肌に傷をつけたと視線が痛いのに。ここまでくると、もう隠そうともしないクラスメイトの興味の視線が突き刺さるようだった。
(またキスされ――……っ!)
ぎゅっと目を瞑る。
キーンコーンカーンコーン……
チャイムが鳴って、紬麦は慌てて顔を逸らした。
(あっ、あっぶな〜……!)
はぁっと無意識に止めていた息を吐き出す。
(なんでオレ、受け入れてるんだよ!?)
避ければいいのに。突き飛ばせばいいのに。
突然のことに反応が出来なかったっていったって、大人しく目を瞑ってしまった自分が信じられなくて、自分で自分をパンチする。
「残念」
紬麦にだけ聞こえるひっそりとした呟きに、囁かれた耳がじわりと熱くなっていく。
ドッドッと、心臓は飛び出していってしまいそうなくらいにうるさい。張り裂けそうな胸を押さえて見上げると、紬麦の反応に姫宮はご機嫌に目を細めていた。
「またね、つむちゃん」
ちゅっと指先にキスをされて、教室まるごと息をのむ。
「も、もう来んな――!」
「羽村~静かにしろ~」
振り上げた拳はひらりと躱されて行き場がなく、さらには、姫宮と入れ替わりに教室へ入ってきた教師に注意までされて、踏んだり蹴ったりだ。拳を下ろし、紬麦はしおしおと着席する。
お前のせいだぞ! と窓越しに涙目で睨みつけても、姫宮は動じず、機嫌よく自分の教室へと戻っていく。
廊下から、ふふって微笑みの名残が聞こえて来て、紬麦は顔を真っ赤にしながら、ピシャリと窓を閉めたのだった。
◇◆◇
「いやぁ~熱烈なこって。俺までドキドキしちゃった」
わざとらしくしなを作って、ぽっと頬を染める翔護に、紬麦は「裏切りものっ!」と噛みついた。
「見てないで助けろよ!」
(オレはお前のことを一生許さないぞ!)
ぷんこぷんこ、頭から湯気を噴き出しながらお弁当箱を広げる。
ココット型のお弁当箱はやさしいアイボリー色で、かわいらしい見た目の通り容量も大きくなかったが、紬麦にとっては十分だ。
ランチクロスは、包むとハムスターが現れる仕様になっているのがお気に入り。全体的にラブリーにまとめられたそれを見ても、母の趣味だと伝えてあるおかげで翔護は少しも気に留めない。
待ちに待った昼休み。学園内は、一日の中で一番の盛り上がりをみせている。
城華学園は緑が豊富で、敷地内に小さな公園も保有しているため、天気が良い日はそこで昼食を摂るものも多い。学食のメニューも充実しているから、教室に残るものはさほど多くなかった。
紬麦と翔護は教室で一緒にお昼を食べる。他の場所でも良いのだが、中等部の頃からの習慣で特にこだわりもないのでそのままにしている。机をくっつけて、チャイムが鳴るまでのんびり過ごすのが常だった。
紬麦は持参したお弁当。翔護もお弁当を持ってきているのだけれど、運動部で朝練があるせいか早弁をしていることがほとんどなので、昼は学食でお弁当か、購買部でパンを買っている。
ちなみに、今日は購買部で毎日限定十個のカツサンドをゲットできたみたいだ。机の上で勝者の証がででんと幅を利かせている。
パックのお茶にストローをさしながら、肩を竦めて翔護が言う。
「いやぁ、王子様には太刀打ちできないでしょ。平民なので」
「裏切りもの~!」
「ッハハ。ほぉら、よしよししてやっから」
「揉むな~~」
紬麦だって平民だ。平民中の平民、ド平民。同じ平民同士、助けてくれたって良いと思う。
膨らませた頬っぺたを揉みくちゃにされたって、少しも嬉しくない。
翔護は、何かあるとすぐにこうして誤魔化して、それで許してしまう紬麦も紬麦だけれど、悪いと思うなら翔護が姫宮の相手をして欲しい。
摘まむ指を外そうと躍起になっていると、耳元にふっと吐息が触れた。
「つむちゃん」
「ひゃわうっ」
そわっと薄い皮膚が震えて、びっくりして言葉の通り椅子から飛び上がる。
「一緒に食べよう」
勢いよく振り返れば、くっついてしまいそうなほど近くに姫宮がいた。お弁当を手に、にこにこと微笑んでいる。笑っているはずなのに、なんだかすごく怖い。
「お、お前いっつも突然現れんなよ!」
それに、いっつも近い!
ちょっと飛び出してしまった心臓を胸の中へ押し戻す。ドキドキの治まらない紬麦の文句を軽く受け流して、姫宮はさっさと机をくっつけ始めた。
「席、借りるね」
机の主は紬麦の「ダメって言って!」ってジェスチャーに一瞬口を開いたものの、姫宮の「ありがとう」ってプリンススマイルを受けてあっさりと城を明け渡してしまった。
「う、裏切りもの~!」
この短時間で、何度このセリフを口にしただろう。
一緒に食べるなんて言ってないのに。紬麦はいいよって言ってないのに!
席を確保した姫宮は、包みからサンドウィッチを取り出して「いただきます」と手を合わせた。
今さら追い返すことも出来ず、唇を尖らせたまま着席する。ずりずりと椅子をずらして、姫宮から少しでも多く距離を取ろうというのは、せめてもの抵抗だ。
「お弁当かわいいね」
紬麦のお弁当を覗き込んで姫宮が言う。
小さめの俵型おにぎりに、色とりどりのおかず。毎日母が作ってくれるお弁当は「開けたときに楽しいほうがいいわよね」っていうこだわりから、とてもカラフルだ。実際、紬麦はお弁当箱を開けるのを毎日楽しみにしている。自慢のお弁当を、そう言ってもらえるのは素直に嬉しい。
「つむちゃんに似合ってる」
「や、やめろよ!」
お弁当を褒めてくれるのは嬉しいけれど、それを面と向かって似合ってるって言われると恥ずかしくて、腕で囲ってお弁当箱を隠す。
「お口ちっちゃいのに、いっぱい入るんだね」
「ついてるよ」
「ふふ、次は何を食べるのかな」
何かひとつ行うたびに、姫宮は紬麦の仕草にいちいち感想を述べて、整った眉をデレっと下げる。
「……」
いつの間にか紬麦のすぐ隣へ椅子を移動させているし、こうなることを見越して取ったはずの距離は今ではないも同然だった。
ゼロ距離で迫る姫宮の様子を、早々にカツサンドを平らげた翔護はにやにやと面白そうに眺めるだけで、今日もまた紬麦を助けてはくれない。
(た、食べにくいぃ~……)
紬麦ばかり構う姫宮の弁当はさっきから一向に減らないばかりか、口の周りについたケチャップを舐め取っただけで「すごい」ってうっとりされる始末。何がすごいのかも全然わかんないし、クラスメイトの好奇の視線も相まって食べづらいことこの上なかった。
姫宮は紬麦のことをなんだと思っているんだろう。そんなに見張っていなくたって、もう赤ちゃんではないのだから粗相なんかしない。
学校生活の中で、唯一ほっと一息つけるはずの昼休み。なのに、このところ全然まったく気が休まらない。それどころか、この時間が一番疲れる気さえしてしまう。
結局、今日も姫宮にちょっかいを掛けられ続け、美味しいはずのお弁当は最後まで味が曖昧なままだった。
◇◆◇
「えー! やだ!」
「やだって言われましても」
思ったよりも大きく響く声。クラスメイトの視線が一気に集まって、紬麦は小さな体をさらに小さく丸めた。
「なんで」
今度はこそこそと耳打ちするように口元に手を添えてから、無慈悲なことを言う友人を見つめる。
「ミーティングなんだって」
言ったろ。と椅子に背を預けて、翔護はずずっとパックジュースを吸った。
アジアンテイストな象が描かれたパックジュースは翔護のお気に入りらしく、高い確率でお会いする。
「やだよ~」
拳を握って机に突っ伏すと、年季の入った木材の匂いが鼻についた。
「しょおごぉ」
ぐりぐりと硬い木の板に顔を擦りつけてからくぁっとあくびを噛み殺して、たっぷりと潤いを含んだ瞳で見上げてみる。
「行かないで」
「いや~ん。はむちゃんたら、そんなに俺と離れたくないのぉ」
「ウン」
「嘘つくなよ、はむ。さっきあくびしたのバレてんだかんな」
「ちっ」
「舌打ち!」
怖ってわざとらしく自分の腕を抱いて見せる翔護に、紬麦は「んべっ」と舌を出した。
うまいこと翔護が騙されてくれたら、なんて思ったけれど、一日の大半を一緒に過ごす友人の目は誤魔化せなかったようだ。バレてしまっては猫を被る必要もないので、早々に化けの皮をはがす。
「姫王子だったら騙せたかもしんねぇけど、俺の目は誤魔化せませ~ん」
「むー!」
頬っぺたをぶにゅぶにゅと人差し指で突かれて、紬麦は頬を膨らませて指を押し返した。
「どんくらいかかるの?」
ミーティング。と問えば、翔護は壁掛けの時計を見ながら「う~ん」と首を傾げた。
部外者の紬麦が「中止だ~!」なんて言えないので、開催されるのは仕方がないにしろ、返答によってはミーティングが終わるのを待ってるって言うのもありだ。
いや、出来るならそうしたい。だから、とっととさっさと短時間で終わって欲しいのだ。
「ん~、昼休みいっぱいかかるんじゃねぇかなぁ」
「え~~」
紬麦の願いも虚しく、翔護の返事にがっくりと肩を落とす。
そこまで待っていたら、貴重な昼休みはお弁当を食べ損ねただけで終わってしまう。紬麦がいくら小食といっても、さすがに昼食抜きで午後の授業を乗り切るのはつらい。
やだ。ともう一度ぼやいて、机に伏せる紬麦の頭を翔護が撫でる。
いつもならぐしゃぐしゃにされて怒るところだが、今はそれどころじゃない。
されるがままにぐらぐらと頭を揺らしながら、紬麦は昼休みを思って憂鬱な気分でいっぱいだった。
たかが昼休み、されど昼休み。
別に、翔護がいなくてひとりで過ごすことに文句を言っているわけではないのだ。
もう高校生だし、そりゃあちょっとは寂しいけど。だからって「ひとりぼっちはヤダヤダ」なんて駄々を捏ねたりしない。
むしろ、今回に限ってはひとりで過ごさせて欲しい、是非。
これだけ紬麦がぐずつくのには理由があった。
「んな寂しがるなよ。姫宮がいるだろ」
「……だからだもん」
昼休み。わざわざ紬麦のクラスへやって来る姫宮を含めて、最近は三人で食べるのが当たり前のようになっていた。
最初こそ、教室に入ってくるなり昼食の誘いで囲まれていた姫宮だけれど、誰の誘いにものらないので、最近は声を掛けるものもいない。その代わりに嫉妬交じりの遠巻きな視線が紬麦の小さな背中にビシビシとぶつかってくるので、むずむずして堪らないのだ。
「姫宮はきっと大喜びだぞ」
本当は、お前とふたりっきりが良いんだろうし。
中身のなくなったパックジュースに空気を吹き込み、べこべこと凹ませて遊びながら、翔護が言う。
「あーんしたり、口についた米粒取る姫宮の顔見たことあるか? すっげぇデレデレで、お前のこと構いたくて仕方ないんだよ。俺、これでも毎日気まずいんだからね」
それでも一緒に飯食ってんだから感謝しろよ~。
なんて、額をデコピンされて、紬麦は唇を尖らせながら痛む額を両手で覆った。
そんなこと言われても、紬麦が構ってくれってお願いしているわけじゃない。
(あいつが勝手にしてくるのに!)
紬麦にどうこうできるのなら、とっくの昔に半径一メートル以内に近寄れないような魔法をかけている。
理不尽さに、唇はぶぅっとさらに尖っていった。
「だって、あいつオレがどこにいても見つけて来るんだもん。トイレにだって現れるんだぞ」
昨日なんか、用を足して手を洗って顔を上げたら姫宮が鏡に映っていて、思わずちびってしまうところだった。
「あっはっは!」
「笑い事じゃない! おかげで全然すっきりしないんだからな!」
「個室に入ってするとか」
「ええ~……」
個室に入ってもドアの前で待ってそうなんだよな、あいつ……。
「それは、まぁあれだけどさ」
ストローをパックの中に押し込んで器用に小さくたたむと、翔護は「よっ」とそれをゴミ箱に向かって投げた。横の掃除用具入れに当たってから、ぽこんと良い音を立てて箱の底に落ちていく。
「これを機にゆっくり話してみれば?」
「……」
無言のまま、ぷくりと膨らませた頬を机に押し付ける。顔に消しゴムのカスが付いたような気がするけれど、それを払う余力もなくだらりと机の横に腕を投げ出した。
なんで、紬麦が譲歩しなければならないんだ。納得がいかない。
拗ねた紬麦の様子に翔護はやれやれと肩を竦めると、頭をひと撫でしてそのまま前を向いてしまった。
(薄情者~~)
後ろからじぃっと恨めしビームを送っても、翔護の背中はびくともしなければ振り返ってくれることもない。
「……」
姫宮と話したくないわけじゃない。
聞きたいことだってある。
(どうして、オレなのか。とか)
あの日、紬麦は姫宮と初めて会ったと思う。
でも、姫宮の足に迷いはなかった。
教室に入って、紬麦を見つめて。
一瞬の迷いもなく、まっすぐに紬麦のもとへやってきたのだ。
自意識過剰かって思われるかもしれないけど、その目は紬麦しか見ていなかった……と思う。
(あいつはオレを知ってる?)
それにしては、紬麦の態度に腹を立てるわけでも、拗ねるわけでもない。
普通、知り合いが自分を忘れていたら、少なからずショックとかを受けたりするものだろう。
なのに……。
『つむちゃん』
たんぽぽが風に揺れるみたいに、姫宮はいつもやさしく紬麦の名前を呼んだ。
愛おしく見つめて来る視線がむず痒くてたまらなくて、紬麦はいつもすぐに視線を逸らしてしまう。
もったいないなんて思っていたのが嘘みたいに、今はなるべく目が合わないようにと逃げてばかりだ。
(……聞いてみようかな)
そうしたら、制御の利かないこのドキドキも少しは落ち着いてくれるかも。
始業の号令がかかるまで紬麦がうつぶせのままずっと唸っているのに、翔護は肩を震わせて笑っていた。
◇◆◇
(や、やっぱり無理)
逃げよう。
そう思ってからの紬麦の行動は早かった。
チャイムが鳴ると同時に席を立ち、翔護に「ミーティングがんばって」と声を掛けるや否や、答えも聞かずにぴゅーっと教室を飛び出していく。
気が付くといつも近くにいる姫宮の行動は読めない。見つかる前に出来るだけ遠くへ行かなければと気が急いて、紬麦の小さな体に見合った小さな心臓はバクバクとフル稼働していた。
すばしっこさには自信がある。いくら紬麦見つけ名人の姫宮だって、紬麦が本気を出せば絶対に見つけられないに決まっているのだ。
(ふんっ、今までは手加減をしてやってたんだぞ!)
見てろよ~! と気合いに呼応するように、髪もぴょこぴょこと元気よく跳ねる。
掲示板に貼られたカラフルなお知らせを目の端に、がやがやと騒がしい廊下を人を避けながら進んで行くとそこかしこから声が掛かった。
「お。姫王子のオキニちゃんじゃん」
「オキニじゃない!」
「はむ~、姫王子どこにいるか知らない?」
「知るわけないだろ!」
「姫宮~」
「一緒じゃないです!」
すれ違いざま、掛けられる言葉に足を止めずに叫んで返す。
(なんでオレに聞くんだよ!)
紬麦のいるところに、姫宮あり。学園中の周知の事実に、教師までもが紬麦の後ろに姫宮を探している。
足を止めてしまったら、その少しの間に姫宮に見つかってしまうかもしれない。
弁当を胸に抱いてテテテと廊下を走り抜け、辺りに誰もいないことを念入りに確認してから屋上へと続く階段を駆け上がった。
「ふぅ」
ここまで来れば安心だ。
屋上へ続く扉の前、踊り場に足を踏み入れて紬麦は大きく息を吐いた。
これでようやく落ち着ける。
扉には『立ち入り禁止』の文字と共に、鍵の付いたチェーンが掛かっている。
錆び付いたそれは、あまり利用されていない証拠だ。鍵は職員室に行かなければ借りられないし、たとえ借りに行ったとしてもよほどの理由がなければ貸してもらえないだろう。
学園は敷地内に公園も保有しているけれど、昼休みになると二つある体育館の両方を開放していて、昼食を摂るも良し、遊ぶも良しの環境であったので、わざわざ立ち入り禁止の札を破ってまで屋上に立ち入る者はいない。内申点に響かせてまでルールを破るものがいないというべきか。
ただ……人が来ない=掃除もされないのだろうか。
歩くと、紬麦の圧に押されて隅にたまった埃の塊がころころと移動する。ちょっと汚くて埃っぽいのが玉に瑕だったけれど、文句は言えない。考えようによっては、隠れるにはうってつけの環境なのかも。
あちこちに移動するそれをどうにか階段の下まで落として、さっきよりもいくらか綺麗になった床にぺたんと座り込む。
(見つかったら怒られるかな)
勢いでここまでやって来たものの、肝心なところで小心者が顔を覗かせてドキドキした。
階下からは生徒たちが行き交う声が聞こえてきて、いつか誰かが上がって来るんじゃないかと緊張に手の内に汗が滲む。不安になって手すりのすき間から下を窺うけれど、幸い、教師の姿は見えないので一安心だ。
(でも、屋上には出てないし。手前まで、だし)
鍵を無理矢理破壊したとか、そういうこともない。
ただちょっと、場所を借りているだけ。
うんうん、大丈夫。と不安を掻き消すように大きく頷いて、紬麦はランチクロスに包まれたお弁当箱を広げた。
紬麦がいないと知って、姫宮はどう思っただろうか。
(……悪いことしたかな)
今日もきっと、姫宮は紬麦たちの教室にやって来るだろう。
いつものように窓から「つむちゃん」ってひょっこり顔を覗かせて、それから当たり前のように教室に入って紬麦の隣に座るのだ。
「……」
迷ったけれど、姫宮と二人きりになることを想像したら、やっぱりまだ心の準備が足りないと思った。
(別に約束してるわけじゃないもん)
一緒に食べようって姫宮は言ったけれど、紬麦はそれを了承していないのだから、いなくたっておかしなことはない。
(それに、何を話せばいいかもわかんないし……)
翔護がいれば、なんだかんだ話題を提供してくれて、うまいことその場を回してくれる。
紬麦だって、別にコミュニケーション能力が低いわけではないけれど、姫宮を前にするとどうしても緊張が勝ってしまって会話がうまく続かなかった。
それに。
(あの目が苦手だ)
南の楽園、ハワイの海みたいに鮮やかな青色。キラキラと太陽を反射した海のような瞳に、愛おしさを少しも隠さずに見つめられると、ブルーハワイの中で揺れる紬麦は、どうしていいかわからずにただ不貞腐れたようにその視線から逃げることしかできない。
「?」
おかしいな。首を傾げる。
「いつもより、おいしくない?」
そんなはずはない。母の料理はいつも美味しくて、隙あらば翔護がつまみ食いしてくるくらいだ。その味を微妙だと感じたことはこれまでに一度もないのに、今日はなんだか変な感じがする。
「うーん?」
焦げているわけでもなければ、変わったおかずが入っているわけでもない。豆でくちばしを作ったちくわのひよこが、愛嬌のある顔で紬麦を見つめているのもいつもと変わらないのに。
「なんでかな」
ひよこちくわに問いかけてみても、返ってくるのは気の抜けた笑みだけで明確な答えは得られない。
おかしいな、なんでかな、と首を傾げながら食べ進めていると、微かに足音が聞こえたような気がして、紬麦は耳をそばだててぎゅっと体を縮こまらせた。
(だ、誰か来る……!)
廊下を通り過ぎる音かと思ったが、音は階段を上ってくるようだった。
徐々に近づいて来る足音に、心臓がトットッと逸る。
両手で口を押さえて息を潜めるけれど、本当は興奮に叫び出してしまいそうだった。ホラー映画だったら、早々にログアウトしていることだろう。
「みーつけた」
「ひょわぅっ」
「うーん。相変わらず、かわいい反応」
びょんっと床からお尻が浮く。多分、五センチは飛んだんじゃないかと思う。
ひょっこりと陰から顔を覗かせたのは姫宮だった。
驚きに飛び上がった紬麦を見て、満足そうに笑みを浮かべている。
「で、出た!」
「あはは、出ちゃった」
まるで「遅れてごめん」みたいな軽さで言って、姫宮はいそいそと紬麦の隣へ腰を下ろした。
屋上へと続く最終ステップ。最上階の踊り場は、そんなに狭い作りではない。
十分に余裕があるにもかかわらず、姫宮は紬麦の隣に隙間なくぴったりとくっついて来る。
そもそも、紬麦が隠れるために死角になるような隅っこに座っていたので、広いスペースの端っこに二人してかたまる奇妙な光景だ。
(ち、近くない!?)
こつんと肩がぶつかって、ずり、ともう数ミリお尻をずらす。
隣に壁、隣に姫宮。綺麗にサンドされた紬麦に自由になる部分は少なかったけれど、それでもなんとか姫宮から距離を取ろうとして身を捩るのに、紬麦が動く分だけ姫宮が寄って来るのであまり意味はなかった。
――というか、完全に逃げ場を失っている気がする。
動けば動くほど自分を追い詰めているようで、紬麦は諦めてはっきりと姫宮の肩を押した。
「近い!」
「だって、つむちゃん逃げるんだもん」
「だ、だって、近づいて来るから!」
「逃げられると、追いかけたくなっちゃうよね」
こう、本能的な何かが。と、姫宮は見えない何かを掴むように手をわきわきと動かす。
(そこになにがあるんだ。怖い!)
「なんなくていーい!」
(むしろ、追いかけて来るから逃げるんだもん!)
狭い! と呟いた紬麦の言葉に、姫宮が面白がってさらに体を寄せて来たので「いーっ」と頬っぺたを引っ張って威嚇してやる。
紬麦は怒っているのに、姫宮はそれを全然わかっていない。でれっとだらしなく眉を下げる顔はふにゃふにゃで、王子様が聞いて呆れる。
(大体、オレは隣に座っていいって言ってないし、一緒に食べるのも許可してないのに!)
「教室に行ったら、今日はチャイムが鳴ってすぐ出て言ったって聞いて」
聞いてもいないのに、姫宮は勝手にこれまでの経緯を話し始めた。
「……」
返事をしたら、余計に逃げられなくなってしまう。
紬麦は、「聞いてないもん」というていで、ぷいっとそっぽを向くと、無言でお弁当を食べることに集中する。
「内藤くんはサッカー部のミーティングだって教えてもらったんだけど、つむちゃんもいなかったから」
そんな紬麦の態度に動じることもなく、姫宮はさらに続けた。
「おトイレかな? と思って、少し待ってみたけど五分待っても戻って来なかったし」
つむちゃん、大体いつも五分くらいで戻ってくるもんね。
聞き捨てならないセリフに、ぴくっと肩が震えた。
トイレの時間を把握されている。
(こ、こわぁっ……)
ゾッと背筋に悪寒が走って、あからさまに引いてしまう。
「クラスの子……誰だったかな。名前は忘れちゃったけど、一緒に食べないかって誘われたんだけどね」
(そいつと一緒に食べてくれれば良かったのに)
姫宮を狙っているクラスメイトはたくさんいる。紬麦のクラスだけじゃない。隣のクラスも、向かいのクラスも。他の学年の生徒だって、誰もが一度は姫宮とお近づきになりたいって虎視眈々と機会を窺っているのだ。
姫宮がいつも断るから最近は誘いが減っていただけで、そいつらは、今日は翔護も紬麦もいなくてこれ幸いと思ったんだろう。
「僕はつむちゃんと食べたかったから」
にこ、と迷いのないプリンススマイルに、不覚にもドキッとしてしまう。
「あ、あっそ」
(ど、ドキッてなんだ、ドキッて――!)
ドキドキしてしまった自分に、あり得ないと首を振る。
気をしっかり持て、負けるな。ちょっとでもほだされたら、あっという間に他のみんなみたいに虜にされちゃうぞ!
自分で自分を叱咤して、口いっぱいにお弁当を詰め込む。
「またお口いっぱいにしてる」
指の背で、すり、といっぱいの頬袋を撫でられる。
(だ、だから、その顔やめろってば……っ)
大好き。
かわいい。
たとえ心が読める超能力者じゃなくたって、その顔を見れば姫宮が何を思っているかなんて一目瞭然だ。
わかりやすすぎる。
『お前のこと構いたくて仕方ないんだよ』
これでは、翔護にからかわれるのも致し方ない。
「ん、んぐっ」
ごくんっ……余計なことを考えていたせいで、満足に咀嚼できなかった食物が大きな塊のまま喉を通り過ぎていく。
「つむちゃん!?」
大丈夫!? と焦った声が隣から聞こえる。
無理矢理に狭い気管を広げるそれをトントンッと胸を叩いて落として、紬麦は背を擦ってくれる姫宮から差し出されたお茶を一気に呷った。
ごくん、と飲み下し胃まで落ちたのを確認してから、ほっと息を吐き出す。
(あ、あぶない)
「ありがと……」
もう一度ふぅっと大きく息を吐いて、ぼそりとお礼を呟くと姫宮も安心したように「よかった」と息を吐いた。
高校生にもなって食べ物を喉を詰まらせるなんて、恥ずかしい。『ゆっくりよく噛んで食べなさい』って母親の声が聞こえてきそうだ。
かっこ悪くてまともに顔が見られない紬麦をよそに、姫宮はなおも背を擦り続けてくれて、温もりが行ったり来たり、紬麦を心配しているのを背中で感じた。
もう大丈夫……と言おうとして、顔を上げる。
「ん?」
目が合った途端、優しく微笑みかけられてキュンと胸が疼く。
(あ、あれ?)
ごし、胸を擦る。
「まだ変?」
お茶飲む? と、姫宮はペットボトルのキャップを捻って渡してくれた。
「あ、ううん……へいき」
首を振って断ると、姫宮は返事の代わりに微笑んで開けたそれに口をつける。
さっきは何も思わずに受け取って、結果的にそのお茶に助けてもらったわけだけれど、よくよく考えてしまってから、紬麦は恥ずかしさに俯いた。
(か、間接キス……)
カッと頬が熱くなる。
ちらりと窺い見た姫宮は涼しい顔をして、何も思っていないように見える。自分ばかりが気にしているみたいで、恥ずかしさはさらに増していった。
(か、間接キスくらいでなんだっ)
クラスメイトが回し飲みをしているのを、見たことがある。姫宮だって普通の顔をしているし、だから、きっと友達なら普通のことなのだ。……翔護とは、したことがないけれど。
ぷるぷると頭を振って、気分を切り替えるように強くフォークを握る。今度は少ない量をちょっとずつ。また噎せてしまっては大変だ。
紬麦が食事を再開したのを見て、姫宮も隣で持参したサンドウィッチを開封する。
(いつも同じやつ)
好きなのかな。
出来るだけ姫宮に興味を持たないようにしている紬麦だけれど、ほぼ毎日一緒に昼休みを過ごしていれば、おのずと相手の好みとか食事の内容がわかってしまう。
姫宮はどちらかと言えばパンが好きみたいだった。一緒にいて、おにぎりとかお弁当を食べているのを見たことがない。
パンの中でもサンドウィッチ、そのサンドウィッチもお気に入りのものがあるようで、毎回一途にそれを食べている。
「食べる?」
ちらちらと視線を送っていると、それに気づいた姫宮に声を掛けられた。
まったくそんなつもりじゃなかったので、慌てて視線を逸らす。
「いや、だいじょう、ブッ」
「あ~ん」
小さな三角形が、ずぼっと口の中に突っ込まれる。
どこで購入しているのか、一般的にコンビニで売られているものより小ぶりなそれは、紬麦の口にもしっかり収まる。
もぐもぐ、とさっきの出来事を教訓によく噛んで飲み込むと、みずみずしさの中にじゅわりと広がる甘さを感じた。
「……おいしい」
素直に、そう思う。
「良かった。僕もこれ好きなんだ」
レタスがシャキシャキで美味しいよね。と答える姫宮は、紬麦が気に入ったことに、嬉しそうに見えた。
レタスのみずみずしさもそうなんだけれど、トマトがとびきりあまくてびっくりした。トマトが苦手な紬麦でも、これなら美味しく食べられる。
「そういえば」
自分もサンドウィッチを一口齧って、姫宮が言う。
「?」
「つむちゃん、今日の放課後一緒に帰らない?」
「……」
ついに、と思う。
これまで、昼休みを一緒に過ごすことはあっても、姫宮は放課後まで紬麦を追いかけては来なかった。
それを意外に思いつつも、指摘するのは催促をしているようで、そうっと触れないようにしていたのだけれど。
紬麦は、姫宮がどこに住んでいるのかも知らなければ、どうやって通学しているのかも知らない。
ストーキング行為から想像するに、自転車ではないと思う。多分。
知っているのは、名前と転校生だってことだけ。
出会いがあんなだったから警戒していたのもあるけれど、こうして過ごす時間が増えているのに知らないことばっかりで、それを少しもったいないなって思った。
「え、と……ごめん」
断ったのは、嫌だからって理由じゃない。
「今日はもう予定があって」
そうなのだ。いつもみたいに適当な理由で断っているわけではなく、今日は本当にどうしてもずらせない予定がある。
「そっか」
残念そうに眉を下げられてしまうと、胸の奥がもやもやと気持ち悪い。
「あ。で、でも、また今度……!」
言ってから、自分でもびっくりする。でも、言われた姫宮の方がもっとびっくりした顔をしていた。
だって、姫宮からの誘いを断ることはあっても、こうしてその次をねだったことは今までになかったから。
呆けて固まっていた姫宮の顔が、次の瞬間には満開の笑顔になる。
「うん、また今度」
「う……ん」
前のめりになっていた自分が恥ずかしくて、思わず握ってしまった姫宮の手を離そうとするけれど、今度は姫宮にぎゅっと握られてしまって離せない。
ドキドキ
振り払えばいいのに、どうしてか今日はそれが出来なくて、手を繋いだまま反対の手でフォークを握る。
「からあげ、美味しそう」
「……食べる?」
「嬉しい」
あーんを催促されて、気恥ずかしさに唇を尖らせつつも素直にフォークの先を差し込む。
「美味しいね」
「ん」
(これはサンドウィッチのお礼だから……!)
心の中で言い訳をしながら、ぱくんと自分も残りを口に運んだ。
「あれ?」
(おいしい……?)
さっきまでと全然違う味に感じるのは気のせいだろうか。
ぱく、ぱく。二口、三口と食べ進めても、さっきまで感じていた変な味はしなくなっている。
「ん?」
隣を見上げれば姫宮はまたすぐに笑顔で返してくれて、じわりと手のひらに汗が滲んだ。
繋いだ手は、まだ……そのまま。
味気ないと感じていたはずのお弁当は、いつの間にかいつも通りの美味しさに戻っていて、紬麦は人知れず頬を緩ませた。
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