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勘違いポトフ②

「本当にありがとう。えーと、高任さんでしたね」 「気にしないでください。あの量をひとりで持っていくのを見てる方がハラハラしたので。それに、俺の行く方向と同じだったのもありますし」 「私もあんなに買うとは思わなかったわ!」  彼女──白井戸文(しらいどあや)さんは、俺と同じ二十九歳の出版社で秘書をしているという。彼女が働く会社が、偶然にも俺が本を出してもらってる出版会社なのが判明し、それで一気に距離が詰まった感じだ。  美人で明るく、サバサバした感じは、男性からすれば好みの対象になるだろう。  人間としては好ましい部類に入るものの、どうしてもあの日の光景が頭から離れず、胸がずっと痛んだままだ。 「それにしても、営業の方がこんな時間に住宅街って、何か用事でも?」 「ええ、まあ。ちょっと腰を痛めてしまったので、上司に早退して病院に行けと言われまして……」 「あらっ、それなのに、重い物を持たせてしまって悪いわ。ごめんなさい」 「上司が心配性なだけですよ」  ずっしりと重いショップバッグを半分持ち、俺と彼女はふたり並んで歩を進める。俺の自宅とは反対の……履歴書にあった涼さんの自宅の方にある病院へと。  以前、涼さんはカフェを経営していたという。ただ、去年から世界中を騒がしている件で客足ががっくりと落ちてしまい、それに加えて自粛による営業時間の短縮などが決め手となり経営を続けるのが難しくなったそうだ。  暇になった涼さんは、以前から趣味で読んでいたネット小説にハマリ込んだ。高じてSNSアカウントまで取得し、好きな作家の日常を追いかけるようになったという。  別にストーカーなどではなく、純粋にファン思考だと慌てて説明してくれたけども。  ところが、以前から俺の小説のファンだった涼さんが偶然アップした肉じゃがに俺が過剰反応をした事で、あれよあれよという間に変な雇用契約が成立したのである。  まだそれだけなら週五日、夕方だけの関係が淡々と続くだけだった。  俺が涼さんに恋愛感情を抱いたせいで、自らドツボにハマるなんて思わなかった。  更に涼さんが俺を心配して同居まで持ち込む事になるなんて……当時の俺には想像もつかなかっただろう。  閑静な住宅街が多く、まだ午前中というのに道を歩く人が少ない。いても高そうな犬を連れてのんびりと散歩をさせている老夫婦くらい。  自分の住むマンションからさほど遠く離れている訳ではないのに、こんなにも雰囲気が違うのかと、俺は驚く気持ちを現すように視線をせわしなく動かしていた。 (ここが涼さんのテリトリー……なんだ)  俺のマンションがある地域に比べて緑が多い。どこからか鳥のさえずりが聞こえてくる。風が通るたび葉擦れの音色が空を舞うのも、このあたりが静かすぎるのもあるのだろう。  それにしても。一軒一軒の敷地面積がおかしい。一区画に家が一軒とか二軒しかない。しかも低階層の住宅しかなく、高層建築がどこにもない。  京都には景観を壊さないように、一定階層の建物を作らないという決まりがあるって聞いたことあるし、このあたりもそういった取り決めがあるのかもしれない。  塀が高い家がほとんどの中に、一軒だけ雰囲気の違う家があった。  ひっそりと建つ木造二階建ての一軒家。ぽっかりと開かれた前庭は楡の木があり、ハーブなのか雑草なのか不明だが、緑の草が無造作に植えられているというか、侵食されているような不思議な場所。  その合間から童話に出てきそうな木枠の窓と木製のドアがちらりと見え、どこからかとても空腹を刺激する匂いが漂う。 「あ、ここです。ここ」 「ここ……ですか?」 「そう。大事な子がお店をやっているの。お体の調子が悪いのに荷物を運ばせてしまったお詫びに、お茶でも飲んでいってくださいね」 「え、いえ。こちらが勝手に申し出た事なので……」 「もう、そんなに謙遜しないで欲しいわ。早く、はやくっ」  グイッ、と腕を引っ張られて、腰の痛みにバランスを崩した俺は、白井戸さんに連れられ木製のドアの内側に連れ込まれた。女性にしては力が強い。 「ただいま~、涼。お客さん連れてきたわよ!」 「お店だから静かにしろって言っただろ、文……って、え? 健一さん?」  テーブル席がふたつあり、どちらにも女性客で埋まっている。だけど俺が驚くのはそこじゃない。  五人座ればいっぱいのカウンターの奥から現れたのは、俺のマンションで同居しているはずの涼さんが、白いシャツと黒いエプロン姿で俺を見て驚いた顔をしていた。  どうして家にいるはずの涼さんがここに? それよりも、店は閉店したと聞いてたのに、普通に経営が続いているように見える。もしかして、俺に嘘をついていた? 「あら? ふたりとも知り合いなの?」  状況が把握できないのか、白井戸さんは俺と涼さんを、キョロキョロと不思議そうに大きな目を反復させて質問してくる。  そりゃそうだ。彼女は俺と涼さんが顔見知りなんて一切知らないだろうから。 「健一さ……」 「すみませんが、病院の時間もあるので、ここで失礼します」  涼さんの言葉を遮るように俺は白井戸さんの荷物を彼女に渡し、逃げるように店を飛び出していた。  もう何を信じたらいいのか分からない。いや、俺がちゃんと事前に涼さんを警戒して、自ら調べなかったのが悪い。  仕事では前もって相手の会社を調べた上で契約を交わすのに、俺はプライベートだからとそれを怠った。  背後から「健一さん!」と涼さんの悲痛な声が追いかけてくるも、止まってしまったら泣いてしまいそうで、痛む腰に鞭打ち駆け出すようにしてその場から離れたかった。  白井戸さんは涼を『大事な子』と言った。  涼さんは白井戸さんを『文』と慣れたように呼び捨てで言った。  やはり、涼さんと白井戸さんは恋人同士だったのだ。  しかも、最初の頃、お店を閉じるといった話をしていたのに、実際は俺が日中不在の時間にお店を続けていたようだ。白井戸さんもあの建物を『お店』と否定しなかったし。  それならどうして、涼さんは俺と同居なんてしたのだろう。  それ以前に、俺の家でおさんどんなんてしなくても、あの雰囲気からして閉業間際の匂いはしなかった。涼さんはなんの目的で俺と契約なんてしたのか。  ……もう、何を信じればいいのか分からない。  受付終了間際、なんとか病院に駆け込んだ俺の顔を見た医者は、よほど痛かったんだね、と憐憫を向け丁寧に診察をしてくれた。  どれだけ泣きそうな顔をしてたんだと、苦笑した。  念のためにと撮ったレントゲンには異常はなく、特に筋を痛めたようでもなく、診察結果は筋肉痛との事。湿布と余りにも痛い時には飲みなさいと鎮痛剤を処方してくれて、ギリギリにも拘らず診察してくれた医師や事務の人にお礼を言って病院をあとにしたのだが。 「っ、りょう……さん」 「文から腰が痛くて病院に行くって聞いたので、もしやと思って来てみて正解でした」  病院の入口に、最後に見た同じ姿で涼さんが難しい顔で立っていた。  思わず息が止まる。どうして、なぜ、と場所も考えずに責め立ててしまいそうだ。  俺はゆるりと頭を振り、正面に立つ涼さんを避けるように迂回して通り過ぎようとした……が。涼さんは俺の腕を掴んで離さない。まるで命綱でもある藁を掴む強さで。 「待ってください、健一さん!」 「離して。今話したく……ない」 「ダメです! あなたの事だから、このまま離したら二度と会わないつもりですよね!?」 「そんなことは……」 「いえ、健一さんは真面目な人だから。お願いですから、オレの話を聞いてください」 「……」 「お願いだから、オレと話をして? 健一さん」  切なげに眉を寄せて懇願する涼さんの言葉に俺は渋々と折れる事にした。  彼が何を考えて俺に嘘をついたかは知らないけども、契約を解消するにしても、話を聞くべきだと感じたからだ。  あと、このままなし崩しで離れたら、俺の胸の中で息づく恋心が生傷のまま膿んで腐っていく気がしたから……

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