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バレンタイン・キス④

 緑川の店『エバーグリーン』を出てから、涼さんはずっと黙ったままだ。  しかも考え事をしているのか、さっきから小さく唸っては、人のまばらな街をぼんやり見ている。  さらに言えば歩くの早い。気を緩ませると置いていかれそうになる。おかげでさっきから何度も小走りで追いかけてる。おかげで体力的にキツイ。 「涼さんっ」  息を弾ませて前をスタスタ歩く涼さんに声を掛けるけども、雑踏や店から流れる音に紛れて届かない。  行かないで、と声を張り上げればいいのに、人の目が気になってしまって躊躇してしまう。  その間にも涼さんの姿はどんどん小さくなっていく。  待って。置いていかないで。振り返って俺を見て。 「り、りょうさ、んっ」  力を振り絞って駆け寄り、はっしと背中の服を掴む。 「……え? あ、健一さん?」  どうしたんですか? と問いかけられ、自分が俺を置いていったという自覚がないと感じ、寂しい気持ちが溢れそうになる。  昔からそうだった。  漠然と周囲の環境から異物扱いされているかのような感覚があった。  後に自分がゲイだからだと気づいたけど、それまでは言いようのない不安が常に付きまとい、俺は他のみんなに置いていかれないよう必死で後をついていった。  だから、俺は人の背中を見るのが好きではない。  あの言い知れない孤独感が蘇るから。  ゲイバレしたくなくて人と距離を取りたがる癖に、人恋しくて、でも近くなった分だけ自分の性癖に気づかれるんじゃって怖くて。  寂しくて手を伸ばすけど、それは誰かを求めてたんじゃなくて、孤独が怖いだけで。時折自分が自分で分からない。  だから、俺は小説を書くようになった。こんな自分でも理解できない俺を、もしかしたら誰かが認めてくれるんじゃないかって。  そうして、自分で殻にこもってる癖に人に飢えていた俺を、涼さんが優しく掬い上げてくれた。 「置いて、いかないで……」 「え?」 「涼さん……俺を、捨てないで……」  ギュッと服を掴んだまま、縋るように頭を涼さんの背中に押し付ける。  まだ『エバーグリーン』からそこまで離れていないので、俺の行動は異質な目で見られる事は殆どないが、歩く人の視線を集めているのは確かだ。  だけど、胸の内側から湧いて出てくる不安や孤独や疎外感が止められない。  俺を見て。俺を抱きしめてキスして。二度と俺を離さないで。 「涼さん。俺の声、聞こえてる?」  モゴモゴと背中に向かって語りかけていると、急に涼さんの体が反転し、俺の上半身は彼の大きな胸に押し当てられる。 「ええ、ちゃんと聞こえてますよ。……すみません、健一さんを無視してた訳じゃないんです。オレの不甲斐なさに憤懣やるかたなくて……」 「それってどういう?」 「もうちょっと気持ちの整理がついたら、健一さんにもお話します。もしかしたら、オレの方が健一さんに嫌われてしまうかもしれないけど」  涼さん自身の苛立ちが俺に関係しているというのか?  でも、俺が涼さんを嫌うかもしれないまでの理由って一体…… 「俺、自分から人を好きになったの、涼さんが初めてなんです」 「えっ?」  唐突に告白した俺の耳に、涼さんの驚いて戸惑う声が落ちてくる。 「涼さんが俺に言えない事の内容が気にならないと言ったら嘘になるけど。でも、それで涼さんを嫌いになる事は絶対……ない」  うん。涼さんは俺が初めて好きになった人だ。自分から嫌うなんて絶対にない。  それに俺は案外しぶといのだ。  捕まえてしまえば、涼さんが俺を嫌いにならない限り、俺はずっと涼さんの傍にいたい。あの穏やかな時間を、できるならば共に過ごしたいのだ。  もし叶うなら、命が終えるその時まで一緒に居れたらいい。かなり贅沢な願いだけども。 「俺、結構好きになったら執着心強い方だと思う。涼さんは、そんな俺が嫌いになる?」 「まさか。オレに執着して、依存なんてしてくれたら、天にも昇る位嬉しいですよ。健一さん、割と自分にストップかけるタイプだから、もっとオレにベタベタ甘えてくれたっていいんですからね。むしろそうしてください」  ギュッと俺を抱きしめて、柔らかな声で耳元に囁いてくる。  明らかに男同士の抱擁と分かるのに、否定的な視線は向いてこない。それでも恥ずかしくて、涼さんの胸に顔を押し付けた。  頭上から「健一さんかわいい」と甘ったるい声が聞こえてくるが、三十路近い男を捕まえて可愛いはおかしい。涼さん、眼科行ったほうがいいと思う。  道のど真ん中だというのに、嬉しいやら恥ずかしいやらで、俺は涼さんの背中に腕を回してギュウギュウ抱きついていると。 「おわっ」 「ねえ、健一さん。本当はこのまま買い物したり、カフェでお茶しようと思ってたんですけど」 「うん?」  ふわりと抱き上げられ、俺の目線が涼さんよりも高くなる。おおっ、結構いい眺め。  それにしても何故ここで今後の予定の話?  まあ、是非はない。涼さん背が高くてスタイルいいから、色々着せ替えたりしたいし、涼さんセレクトのカフェでお茶やスイーツというのも魅力的だ。  ですけど、ってその予定はなくなるのか? ちょっと残念だけども。  だとしたら、涼さんは俺を抱えたままどこに行くのだろう、と首を傾げていると。 「このまま俺の自宅に連れ込んで、めいっぱい健一さんをドロドロに愛したいんですけど、いいですか?」 「っ、!?」  え? 今、なんて言った? 「大丈夫ですよ。ちゃんと明日の朝には出勤できるようにしますし、健一さんの負担にならないと約束します」 「え……あ……の」 「ダメ……ですか?」  小首を倒して見上げてくるなんてズルい!  普段は包容力ある大人な顔で接してくる癖に、どうして捨てられた仔犬みたいに見上げてくるんだ!? 「だ、ダメじゃ……な、い」  しどろもどろに言葉を呟けば、涼さんは俺を抱えたまま大通りまで早足で歩き、それからタクシーを捕まえて俺を車内に押し込んだ。ふたりの間で固く結ばれた手が挟まれている。少しだけ汗ばんだ涼さんの掌を感じ、俺もこれからの事にじんわりと体温が上がる。  いや、いずれそうなるだろうと覚悟してたけど、本当に?  涼さんノンケなのに、同性の裸で欲情してくれるの?  困惑する俺をよそに、涼さんに手をしっかり握られた俺は、一路涼さんの家へと向かうのだった。

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