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第9話 痛くて苦しいのはどうして?
モモハ様に指名されてから七日が過ぎた。
あれから僕はまた誰にも指名されなくなってしまい、こうしてぼんやり窓の外を眺める日々を送っている。主人に僕にできることがないか聞いてはみたけれど、「男娼が男娼以外の仕事をしてどうする」と睨まれてしまった。
「でも、その男娼の仕事がないんだもんなぁ」
モモハ様が言っていたとおり、まだ僕がお客さんを取らないという変な噂が流れているんだろうか。それはものすごく困るし、立派な営業妨害だ。
「……もし噂のせいじゃなくて、ただ指名されないだけだったら、どうしよう……」
指名されなくなった男娼は、廃業するしかない。身請け先があるならまだしも、行き先がないまま廃業するなら新しい仕事を見つけなければいけない。だけど不器用で体がヒョロッとしているだけの僕に、男娼以外の仕事が見つかるとは思えなかった。
「やめやめ! イヤなこと考えていても、どうしようもないし!」
ただでさえアララギ中佐のことを思い出さないようにするだけで大変なのに、こんな暗くなるようなことばかり考えていたら気が滅入ってしまう。
「よし。こんなときは、おいしいものを食べるに限る!」
趣味といえばお金を貯めることくらいの僕にとって、街に出て甘い物を食べることが唯一の気晴らしみたいなものだった。僕はいつもより少し多めの硬貨を持って外に出た。
そこそこ長く男娼をしている僕は、娼館街にも顔見知りが結構いる。男娼仲間や娼婦の姐 さんたちがほとんどだけれど、ほかの娼館の仕切りや下働きの人たち、いろんな商品を売りに来る商人たちにも知り合いはいた。
でも、誰も僕だと気づかない。そのくらい地味な格好しかしない僕を男娼だと思う人はまずいないだろう。身なりに貴重なお金を使いたくないから着飾らないんだけれど、二十歳を過ぎたあたりから地味な格好に拍車がかかってきた。男娼仲間だけでなく主人からも「せめてもう少しどうにかしろ」と言われてしまうくらいだから、相当地味なんだろう。
「でも、僕なんかが着飾ったところでどうしようもないし」
きれいで可愛い男娼なら、外を歩くときにも着飾るだろう。でも、地味で男娼らしくない僕が着飾ってもおもしろいだけだ。それに変に目立つのも嫌だし、知り合いに気づかれないほうが気が楽というのもある。
男娼仲間のなかには「外でお客さんに会えば、いろいろ奢ってもらえるのに」なんて言う人もいるけれど、仕事をしたわけでもないのに奢ってもらうのは気が引ける。
「それに、指名してくれるお客さんも少ないし」
だから、娼館街の近くでお客さんに会う確率は相当低い。……自分で言ったことながら、情けなくて笑いそうになる。
「さぁて、今日は何を食べようかな! いつもよりちょっと奮発してフルーツタルトもいいなぁ。うーん、でも生クリームも捨て難いし、チョコレートも食べたい気分だし。迷っちゃうなぁ」
娼館街から出て街の中心部に行く途中に、馴染みの洋菓子店がある。そこへ向かいながら、僕の頭の中はきれいで甘いケーキのことでいっぱいになっていた。
それなのに、ふと視界に入った人影にすうっと視線が引き寄せられた。いつもなら馴染みのお客さんを見かけても気づくことすらないのに、そのときは本当にビックリするくらい自然に視線がその人のほうに向いたのだ。
「……アララギ中佐だ」
大きな噴水の向こう側に、軍服姿のアララギ中佐がいた。ガッシリした大きな体に真っ黒な軍服がすごく似合っている。帯刀しているから、任務の途中なのかもしれない。初めて見た軍服姿の中佐に、僕は「ひょえぇ、かっこいい……」と一瞬にして見惚れてしまっていた。
「……あれ?」
中佐の隣に、小柄な女の人がいた。淡いピンクのドレスを着たその人は中佐の腕に自分の手を絡めていて、きれいに整えられた頭を必死に動かしながら中佐に話しかけているように見える。
後ろ姿の中佐がどんな表情をしているのか僕には見えないけれど、もしかして笑っているのかなぁなんて思った。だって、見上げている女の人の顔が、とてもニコニコしていたんだ。
「……っ」
急に胸がギュウウッて苦しくなり、思わず胸の辺りを両手で押さえた。ズキズキして、息も少しだけ苦しくなる。
僕は足を引きずるように噴水から離れた。楽しみにしていた甘い物のことは頭から消え去って、ただ娼館に、自分の部屋に帰りたいと思った。
(……なんで、こんなに苦しいんだろ……)
ただアララギ中佐が女の人と一緒にいるのを見ただけなのに、僕の体は一体どうしてしまったんだろう。変だなと思いながらも胸も息もどんどん苦しくなっていく。
このままでは倒れてしまうんじゃないかと怖くなった僕は、とにかく高級娼館へ帰ろうと足を動かした。そうして娼館街の入口をくぐったところで誰かにぶつかった。よろよろとした足取りだった僕は、ほんの少しぶつかっただけなのに尻もちをついてしまった。
「っと、ごめん! って、ツバキじゃないか」
「あ、ヤナギさん……」
「……どうした?」
「え? あ、ごめんなさい、ぶつかって……」
「いや、それは僕も前をよく見ていなかったからお互い様だ。そうじゃなくて、……ツバキ、何かあった?」
「……いえ、別に、なにも」
一瞬、さっき見た中佐の姿が思い浮かんだけれど、ただ中佐を見かけただけで何かあったわけじゃない。だから僕は首を振って、なんでもないと答えた。
「……うーん、そうは見えないんだけど。……そうだ、ツバキ、これから時間ある?」
「あ、はい。僕、今日も暇ですけど」
「じゃ、僕の部屋においで」
「えぇー、ヤナギさんの部屋に行ったってみんなが知ったら、また何か言われちゃいそうだなぁ」
そう言ったらヤナギさんがふわりと笑った。
人気者のヤナギさんの部屋にお呼ばれしたなんて知られたら、間違いなくみんなに羨ましがられる。嫌味を言われたりするのは困るけれど、なんとなく一人になるのが嫌で、僕は誘われるままヤナギさんの部屋についていった。
ヤナギさんの部屋は高級娼館の一階の奥にあって、そこは暗黙の了解で主人以外は絶対に近づかない。僕は手ほどきを受けていたということもあって、これまでも何度か部屋に入ったことがあった。久し振りに入ったヤナギさんの部屋は相変わらず物が少なくて、でも落ち着いた雰囲気で、少しだけいい匂いがした。
「お茶いれるから、ちょっと待ってて」
奥に消えたヤナギさんを待ちながら、ぼんやりと庭を眺める。ヤナギさんの部屋からは高級娼館の中庭がよく見えた。真ん中あたりには大きくなった藤の蔓が木陰を作っていて、そういえば昔、あの下でよく泣いたなぁなんてことを思い出す。
「藤の木、大きくなりましたね」
「そうだなぁ。これでも毎年あちこち切ってはいるんだけどね」
「そうなんですか?」
「藤の蔓って、気をつけないとどんどん伸びちゃうからね。きちんと手入れしないと、屋根まで伸びたら大惨事になる」
「そっかぁ、大変なんですね。いっそのこと、切っちゃったりはしないんですか?」
「さすがにそれはかわいそうでしょ。それに、ジュッテンが許さないだろうし」
「へ? 主人が?」
「うん、一緒にあの下で遊んだ思い出の花だからね。そうそう、泣いてたツバキとの思い出もあるし」
「うわぁぁ、ヤナギさん、それもう忘れてくださいよぅ」
高級娼館に来たばかりの頃、鈍臭かった僕は仕事でよく失敗した。それでも頑張ろうと努力したけれど、どんなに頑張っても失敗ばかりが続いた。そんな自分が情けなくなった僕は、こんなに失敗ばかりしていたら別のところに売られてしまうんじゃないかと思って、厠 や風呂場でこっそり泣いたりしていた。
「ツバキが努力家なのは、ジュッテンも僕もちゃんとわかってる。いまは失敗しても、そのうちできるようになるからね」
そう言って声をかけてくれたのがヤナギさんだった。「泣きたくなったら、ここで泣いていいよ」と言ってくれたのを真に受けた僕は、泣きそうになるたびに藤の木の下に隠れて少しだけメソメソした。そんな僕の頭をヤナギさんが撫でてくれて……なんてことがあったあの頃が、とても懐かしい。
「あの頃のツバキは純粋な子どもって感じで可愛かったなぁ。あ、いまも十分可愛いよ?」
「……僕が可愛くないことは、僕が一番知ってますよー……」
「あははは、そりゃあ見た目はグングン大きくなったからね。でも中身はあの頃のままで可愛い。まぁ、中身が子どものままっていうのは、心配な部分でもあるけど」
「僕はもう子どもじゃないですってば」
「うんうん、体は立派な大人になったな」
うぅむ、どうもヤナギさんは僕を子ども扱いしすぎるような気がする。そりゃ五歳のときから面倒をみてくれているヤナギさんからすれば、いつまでも子どもみたいに見えるのかもしれない。それでも僕だってもうすぐ二十五歳になる。体だって主人くらいの大きさになったし、それに見た目が決して可愛いものじゃないこともよくわかっていた。
それなのに「子ども」だとか「可愛い」だとか言われることに納得できなくて、つい口が尖ってしまう。そのままふぅふぅと息を吹きかけてから、ヤナギさんがいれてくれた温かいミルクティーをちびちび飲んだ。
「で、ツバキ、何かあったでしょ」
「いいえ? 別に何もないですよ?」
本当にそんなことを言われる心当たりがないから、僕は首をかしげながらそう答えた。
「じゃあ、アララギ中佐と何かあった?」
「へ!?」
急に中佐の名前が出てビックリした。同時に噴水のところで見かけた姿を思い出して、またキュウッと胸が苦しくなる。
「……何もないですよ? 中佐がずっと来てないのは、ヤナギさんも知ってるじゃないですか」
「うん、そうだな。じゃあ、街で会った?」
「会ってはないです。……チラッと、見かけはしましたけど」
「ふむふむ。じゃあ、そのときの中佐が、いつもと違ったとか?」
ヤナギさんの優しい声に促されるように、気がついたら僕は噴水のところで女の人と一緒にいるアララギ中佐を見たことを話していた。
「そっか、女性と一緒だったのか」
「中佐は上級士官だし、恋人がいても、おかしくないですよね」
「恋人」って単語を口にした途端に、今度は胸がキリキリと痛くなった。同じくらい苦しくて、ちょっと息がしづらい。
「うーん、どうだろうなぁ。アララギ中佐は中佐だけど、ちょっと違うからな」
「ちょっと違う……?」
「うん、そう。もちろんツバキが言うように中佐っていうのは上級士官なんだけどね。でも、アララギ中佐は貴族出身じゃないからな」
「……へ?」
「アララギ中佐は軍曹から叩き上げで中佐になった人だと言われているんだけど……。結構有名な話なんだけど、その様子じゃツバキは知らなかったのか」
そんな話、まったく知らなかった。というか、僕はアララギ中佐のことは中佐だっていうこと以外、何も知らない。
昔から僕はお客さんへの興味が薄いというか、行為以外のことはあまり話さないようにしていた。好きな食べ物や飲み物を聞いたりはするけれど、家族のことや仕事のことを聞いたりはしない。お客さんから話してくる場合も聞き役に徹するだけで、深く聞いたり知ろうとしたこともなかった。
だって、もしお客さんのことを詳しく知ってしまったとして、そのお客さんから指名されなくなったらすごく悲しくなると思ったんだ。深く知ってしまったぶん、必要とされなくなったときの悲しみは大きくなる。そんな思いをするくらいなら、最初から何も知らないほうがいい。
だから、アララギ中佐のことも何も知らないままだ。中佐も自分のことを話すほうじゃないから、お酒は辛いほうが好きということと、意外と甘いものも食べる、なんてことくらいしか知らない。
「貴族出身じゃない場合の上級士官の最高位っていうのがあってね。准将って言うんだけど、アララギ中佐はそれより上の大佐のさらに上、少将にって話が持ち上がっているらしいよ」
「少将って……、え? それって、三番目に偉い人ですよね……?」
「そうだね。少将ともなれば、特権中の特権階級だ。異例なことだけど大将直々の命令らしいし、そうなったらその辺りの貴族でも叶わないくらいのお金持ちになるねぇ」
ヤナギさんの言葉に、僕は頭がクラクラした。
この娼館街随一の高級娼館でも、そんな偉い人がお客さんとして来ることはまずない。少将なんて言ったら、仮に娼婦や男娼を必要としたとしても自分のお屋敷に呼ぶのが普通で、呼ばれる側もほんのひと握りの選ばれた人だけだ。
まさか、自分のお客さんがそんな偉い人になるなんて思ってもみなかった。それはとても嬉しいことなんだろうけれど、胸がズキズキしてますます息苦しくなってくる。
「いやぁ、アララギ中佐がそんな大出世するとは思わなかったな」
「……僕も、すごく驚いてます。そんな人が僕のお客さんだったなんて、ビックリしすぎて現実じゃないみたいです……」
「なに言ってるの。中佐はツバキの上客中の上客じゃないか」
「そうですけど……。あ、でも、きっともう指名はされないと思います。っていうか、少将になったら高級娼館に来ることもなくなるだろうし」
「さて、それはどうかな。僕は、ツバキを指名しに来ると思うけど」
「ヤナギさんたら、なに言ってるんですか。さすがに少将に昇進したら来ませんって。それに恋人がいるのに、わざわざ男娼に会いに来るとか、おかしいじゃないですか」
「あはは」と笑いながらも、どんどん胸が痛くなってくる。ギュウッと苦しくなってきて、こうしてヤナギさんと話しているのもつらくなってきた。
これ以上ここにいるのもしんどいなぁと思っていたところに、下働きの子がヤナギさんを呼びに来た。なんでも主人が呼んでいるとかで、「ごめんな」と言ってヤナギさんが部屋を出て行く。
僕は内心ホッとしながら、自分の部屋に戻ることにした。部屋に入って、ベッドにぽすんと座ってから、ぼんやりと窓の外を眺める。
「そっかぁ。アララギ中佐は、アララギ少将になるんだ」
少将は王宮に呼ばれるくらいの地位だから、僕とはまったく別の世界の人になるということだ。
「……そんな偉い人になるなら、奥様がいないと困るんじゃないかな」
偉い人たちは、王宮に呼ばれるときは奥様同伴だと聞いたことがある。ということは、今日見かけたあの小柄な女の人が未来の奥様だったのかもしれない。チラッと見ただけでも、パッチリした目が可愛らしい若いお嬢様のように見えた。
「中佐の歳はわからないけど、お似合いだったなぁ」
僕なんかが隣にいるより、絶対にお似合いだ。
「……って、なんで僕が中佐の隣に……あはは、変なの」
笑いながら、胸が痛くて苦しくてどうしようもなくなった。どうしてこんなに苦しいのかわからないけれど、この感じは僕にとってあまりよくないような気がする。
「……そっか、中佐が少将かぁ……。軍服姿、かっこよかったなぁ」
あれが最初で最後に見かけた中佐の軍服姿になった。僕はそう思って、何度もくり返し思い出した。思い出すだけでつらくて苦しくなるのに、忘れないようにと思って何度も何度も思い返した。
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