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第11話 僕の気持ち
「さてツバキ、どういうことか説明してもらおうか」
「……ごめんなさい」
「謝って済むなら警備兵はいらねぇ」
「…………すみません」
僕は主人の前で小さくなるしかなかった。そうならざるを得ないことを、しでかしてしまった。
指名したお客さんをほっぽり出して隠れてしまうなんて、男娼として絶対にしてはいけないことだ。お客さんに会いたくないのなら、きちんと主人に話をして指名を取り消してもらう手続きが必要なのに、僕は勝手に逃げて隠れてしまった。
「まぁまぁジュッテン、そんなに怖い顔してたらツバキは言い訳もできないだろ？」
「あぁン？ 言い訳だと？ てめぇのやらかしたことで言い訳なんかする奴は、この娼館にはいらねぇ」
「あぁほら、また口が悪くなってるって」
主人はものすごく怖い顔をしている。隣にいるヤナギさんは苦笑いを浮かべているけれど、たぶん主人と同じくらい怒っているはずだ。
僕は言い訳もできなかった。というか、どうして逃げたのか自分でもよくわからなくて、何も言えなかった。
「で、ツバキはどうして隠れたんだ？」
「…………急に、会うのが怖く、なって」
「怖い？ ……もしかして、アララギ中佐に何かされてたのか？」
ちょっと低くなったヤナギさんの声に慌てて頭を振った。アララギ中佐は見た目は怖そうだけれど、本当はとても優しい人だ。まぁ、行為のときはちょっと意地悪なこともするけれど、それだって気持ちがいいから問題ない。
「ツバキ？」
ヤナギさんが優しい声で僕の名前を呼んだ。昔、メソメソ泣いていた僕に話しかけてくれていたときと同じ声色だからか、少しずつ気持ちが落ち着いていく。逃げてしまった理由はよくわからないけれど、わかることはちゃんと話そうと口を開いた。
「中佐はとてもいいお客様です。優しいし、……その、気持ちいい、し」
「そりゃいいことだ。それで、なんで逃げる必要がある」
「ジュッテン、おまえが口を挟むと怯えるから、ちょっと黙ってろって。……アララギ中佐はいいお客様なのに、ツバキはどうして逃げたりしたんだ？」
「…………会うのが、急に怖くなって」
「怖いことはされないのに？ 何が怖いんだ？」
「中佐とは、本当に気持ちいいだけなんですけど……気持ちいいのが、なんだか怖くなってきて……」
そうだ。僕は少し前から中佐と気持ちいいことをするのが怖くなっていた。中佐としかできなくなりそうなくらい気持ちいいのが怖かった。でも、どうしてそう思うのかはわからない。
今回だって、顔を見るのが急に怖くなった。何か変なことを言いそうな気がして、「それなら会わないようにすればいい」なんて安易に考えて逃げ出した。でも、冷静に考えると逃げ出すほど怖いと思ったのが何だったのかよくわからなかった。
「ふむ、気持ちよすぎて怖いってこと？」
「ちょっと前から、中佐としか気持ちよくなれなかったらどうしようって、怖くなったりしてたんですけど……」
「まぁ、ツバキのお客様は中佐だけというのが続いたからね」」
ヤナギさんの言葉に、こくりと頷く。
「じゃあ、中佐とするのが怖くて逃げ出したってこと？」
「……よく、わからないんです。中佐に会うのがこれで最後かもって思ったら、急に怖くなったっていうか……」
「なるほどねぇ。……ツバキは、この先もずっと中佐に会いたいんだ？」
ヤナギさんの言葉に、そうなんだろうかと考えた。お客さんだから来てほしいとは思うけれど、それなら中佐じゃなくてもいいはずだ。
それなのに僕は、どうしてか中佐にだけ「もっと会いたい」という気持ちを抱いた。ずっと会いたいと思っていたのに、いざ中佐が来るってわかったら……怖くなった。
（……会えなくなるのが、怖い。中佐から最後だって言われたくない）
「……中佐に、会いたいです」
「会って、ずっとそばにいたい？」
「……ずっとそばに、いたいです……」
言葉にして、初めて自分がそう思っていることに気がついた。
（そっか……僕、中佐とずっと一緒にいたいと思ってたんだ）
でも、それは叶わないことだ。だって僕は男娼で、中佐はお客さんの一人にしか過ぎない。しかも中佐は少将に昇進する。僕みたいな男娼が簡単に会える人ではなくなってしまう。
「……ヤナギ、おまえも大概じゃねぇか。なにツバキ泣かせてんだよ」
「えぇー、僕のせい？ ううん、こりゃ参ったなぁ」
気がついたら、僕の目からはボロボロと涙がこぼれていた。どうしてこんなに涙が出るのかわからないけれど、胸がギリギリと痛くて苦しい。思わずギュウッと胸を押さえて、椅子に座ったまま屈みこんでしまった。
「……まったく、ツバキは子どものままだな」
そう言ってポンポンと頭を撫でてくれたのは、さっきまで怖い顔をしていた主人だ。小さく笑っているヤナギさんの声も聞こえる。
「ツバキは、アララギ中佐が好きなんだな」
「……へ？」
何を言われたのかわからなくて、胸を押さえて前屈みになったまま顔を上げた。
「なに豆鉄砲食らったような顔してんだ？ 中佐に会いたい、ずっとそばにいたいってことは、中佐を好きってことだろうが」
「…………いやいやいや、中佐を好き、って、なに、言っちゃってるんですか」
主人の言葉にビックリしすぎて、涙がぴたりと止まった。
お客さんである中佐のことを好きになるということは、特定のお客さんに入れあげるのと同じことだ。それは娼館にとっても男娼や娼婦にとってもよくない。それなのに、主人のほうから「中佐が好きなんだな」と言い出すなんて、どういうことだろう。
「……はぁ。ツバキはここに来たときから、そうだったな。努力するってのはいいことだが、自分の気持ちを置いてきぼりにしてまで頑張るってのは、俺は好きじゃねぇ」
「……えぇ、と？」
「自分から売ってくれと言った手前、追い出されたら行く当てがない。高級娼館 に留まるためには、ちゃんとした男娼にならなければいけない。だから、何があってもどんな目にあっても気にしちゃいけない、そう思ってきた。そうやって自分の気持ちを押し殺し続けた結果、おまえは男娼としての自分しか見なくなった。本来感じるいろんな感情がねじ曲がって、男娼としてしか見えなくなっているんだ」
主人の言葉は難しくて、僕にはよくわからなかった。ウンウン唸っていたら、ヤナギさんが「難しく考えなくていいから」と、ポンと頭を撫でてくれる。
「つまりね、ツバキは何においても“男娼だったらこうだ”って思いが強すぎるんだよ。結果、貪欲に男娼らしさを求めてきた。だからツバキは、何よりも“気持ちいいこと”が好きだろう？」
ヤナギさんの話も、やっぱり難しかった。でも、僕が“男娼として頑張ろう”と思ってきたことは本当だから「はい」と頷く。
「それは、この商売をするなら持っていたほうがいい感覚ではある。ただ、本来はそう簡単にはいかないんだ。自分の気持ちや思いは消せないし、人はすべてを諦めることなんてできないからね」
「……よく、わかりません」
やっぱり僕には難しい。僕はこれまで男娼として困ったことはないし、気持ちいいことが好きでよかったと思っている。僕にはこの仕事しかないから、こういう僕でよかったと思っていたし、そんな自分は運がいいと思ってもいた。
「そうだねぇ……。ツバキは、お客さんに深く思い入れるのはいけないと思ってるよね？」
「僕は男娼ですから、入れ込むのはよくないです」
「まぁそうなんだけど、普通はどんなに頑張ったって好きになったら抑えきれないものなんだよ」
「えぇと……」
「好きになったらずっとそばにいたいと思うし、最後なんて来てほしくないと願う。そんな結末は怖くて、誰だって逃げ出したくなる」
ということは、僕はそういった意味で中佐に会うのが怖かった、ということなんだろうか。でも、僕は別に中佐を好きだとは思っていない。
「たしかに、これで最後だって言われるのが怖いとは、思いましたけど……。でも、それで好きなのかは、よくわからないです。それに中佐のことを考えると、こう、胸が痛くて苦しくなるっていうか、だから考えたくないっていうか……」
好きになるとドキドキするものだと本に書いてあった。娼婦の姐 さんや男娼仲間たちも「好きになるとドキドキして甘酸っぱい気持ちになる」と話していた。
もし僕が本当に中佐のことが好きなら、もっとドキドキするはずだ。でも、ドキドキよりも痛くて苦しいほうがずっと強い。会えなくなってからは、とくにそうだった。
「あはは、それは“恋煩い”だな」
「こい、わずらい……？」
ヤナギさんの言葉に首をかしげた。
「前に中佐が女性と一緒にいたって話してくれただろう？ もし中佐がその人と結婚したらどうしようって思わなかった？」
言われて、噴水のところで見た二人を思い出した。それだけで胸がギュウッと痛くなったけれど、二人が結婚したら……そう考えるとますます痛くて苦しくなる。
「…………思ったかも、しれません」
「うん、それが普通なんだ。好きな相手が知らない誰かと一緒にいたら、誰だって気になる。もしかして結婚相手なのかも、なんて考えるだけで不安になるものだよ」
だからあのとき、あんなにも胸が苦しくなったんだろうか。
「男娼としての気持ちが強いツバキは、お客様を好きになっても結ばれないと信じている。だから、無意識に中佐のことを好きだと思わないようにしていたんだろうね。でも、いつまでも心を誤魔化すことはできない。それが人ってやつだからね」
「……難しいです」
「あはは。じゃあ、ツバキが大好きな甘い物のことを考えてみようか。ツバキは、嬉しいことがあったときに甘い物を食べるだろう？」
「はい」
「でも、元気がないときも食べたくなる。気分転換したいときも食べたい。わざわざ少し離れたお店に買いに行ってまで食べたくなる。お金を貯めることが一番なのに、そのぶんが減っても食べたい。つまり、どんなときでも大好きな甘い物を食べたい気持ちは抑えきれない」
「はい。僕はそのくらい、甘い物が大好きです」
「じゃあ中佐はどうかな？ 上客だから会いたい。気持ちがいいから会いたい。中佐のことが忘れられなくて、毎日でも会いたくなる。考えると苦しいのに、やっぱり会いたい。そんなことを考える自分がおかしくなったのかと不安になるのに、やっぱり中佐のことを考えてしまう。気がついたら中佐のことばかり思い出す」
「……そんな感じでした」
僕の言葉にヤナギさんがニコッと笑った。
「それが好きってことだよ。ま、甘い物と一緒にするのは本来違うんだろうけど、いまのツバキにはこれが一番わかりやすいだろうからね」
僕はヤナギさんに言われたことを頭の中でくり返した。くり返すたびに、そのとおりだと思った。
（……そっか。僕はアララギ中佐のことが好きだったんだ……）
そう思った途端に、どうしようもないくらい顔が熱くなった。
「……僕、初めて誰かを好きになりました」
「好き」と口にするだけで、胸がドキドキしてくる。「そっか、これが好きってことなんだ」と言いながら、熱くなった頬を両手で覆った。
「やれやれ。まさかツバキがここまでだとは思わなかったぞ。ヤナギ、おまえどんな育て方したんだ？」
「うーん、特別なことはしてないんだけどなぁ」
「……特別なことをしなかったから、こうなったってことか」
「やだなぁジュッテン、目が座ってるよ？」
「そう見えるってんなら、そうなんだろうなぁ？ 危なっかしいからってツバキのことはおまえに任せきりだったが、どんだけ偏った男娼に育てやがったんだ、あァ？」
超絶美人の主人が凄むと、ものすごく怖い。頬を押さえたまま思わず「ヒィッ」と肩をすくめてしまった僕と違って、正面から睨まれているはずのヤナギさんは、どうしてかニコッと笑っていた。
「ここまで拗らせるとは思ってなかったんだよ。だってツバキ、おまえにそっくりだったからさ。おまえと同じように扱ったし、アッチのほうも、もちろん同じくらい丁寧に仕込んだんだけどねぇ」
「…………ヤナギ、てめぇ」
ドスの利いた声にビクッとした。美人すぎる主人の怒った顔が怖すぎて、僕は目をウロウロさせながらオロオロする。
「まぁまぁ。それに自分を守るための思い込みを取っ払うのは難しいからね。売られてきた子たちの大半は、程度の差こそあれツバキと似たり寄ったりだ。それはジュッテンだってわかっているだろう？」
「……そりゃあそうだが、それじゃ人として生きていけなくなるじゃねぇか」
「だから、僕たちは彼ら彼女らを人として大事にしてくれる身請け先を見極めるんだ。厳しく丁寧に見極めるから、ここを出て行った子たちの多くはちゃんと生きていけている」
また難しい話に戻ってしまった。気のせいでなければ、主人が少しだけ寂しそうな表情をしている。
「さて、ツバキ。ここからは大事な話になる」
そう言って僕を見たヤナギさんは、少し笑っているものの真面目な顔をしていた。僕はグッと唇を噛んで、しっかりとヤナギさんを見た。
おそらく中佐のことを放り出して隠れてしまったことへの罰が言い渡されるに違いない。男娼として絶対にやってはいけないことをしたのだから、それ相応の罰が下されるのは覚悟している。ここで甘い顔をしたらほかの男娼や娼婦たちに示しがつかないし、僕が悪いのは明白だから、どんな罰でも受けるつもりだ。
そう思って覚悟を決めた僕の耳に、意外な言葉が聞こえてきた。
「ツバキの身請け先が決まった」
「…………へ？」
「身請け先だよ。おめでとう」
「身請け先、って……」
ヤナギさんの顔は冗談を言っているようには見えなかった。つまり、こんな年増男娼である僕にも、本当に身請け先が見つかったということだ。
まさか、いまさら身請け先が決まるなんて思ってもみなかった。いや、身請け先が決まることは男娼や娼婦にとっては万々歳なことだ。そういう意味では嬉しいけれど、同じくらい胸がズキズキ痛んで息が苦しくなる。
（身請け先が決まったってことは……中佐とは、もう絶対に会えないってことだ）
結局、中佐から「最後だ」と言われなくても、今回の指名が最後だったということだ。こんなことなら逃げ出さずに、ちゃんと中佐に会っておけばよかったと後悔する。
（それに、せっかく初めて好きになった人だったのになぁ）
いや、まだ好きだという実感はない。きっと好きだと自覚してから中佐に会っていないからだ。もし自覚した後に会っていたら大変なことになっていただろう。本当に中佐から離れられなくなったかもしれない。
それなら、このまま中佐に会うことなく身請けされるほうがいい。会ってしまえば、絶対にもっと苦しくなる。
「あ、ツバキ、勘違いしてるだろう？」
「勘違い……？」
中佐のことを思い出しながらヤナギさんを見たら、少しだけ笑っていた。
「僕はそんな人でなしじゃないよ。それじゃあ改めて話すけど、ツバキの身請け先はアララギ中佐だ」
「…………へ？」
いま、アララギ中佐と聞こえた気がする。
「本当、に……？」
「もちろん。おめでとう、ツバキ」
今度は満面の笑みを浮かべながらそう告げられた。僕はぽかんと口を開けたまま、少しの間息が止まったような気がした。
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