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第1話

 空を仰ぐと、美しく澄み渡った青が広がっていた。心地の良い風が吹く。アルスは目を閉じて、今日は神様の機嫌が良いなあと、まるで他人事のようにそんなことを考えていた。  とある湖には、神様が住んでいる。とても穏やかな神様で、優しくて、だけど少しだけ変わった、どこか掴みどころのない神様だ。 「神様、今日は何か良いことがあったんですか?」  湖のほとりにある小屋の裏。洗濯物を干していたアルスが顔を出すと、湖の真ん中の岩に腰掛けていた男が、遠くで緩やかに視線を上げた。 「……なぜそう思う?」 「今日はとても心地が良い気候なので」 「そうか。……自分では分からんものだな」  不思議そうな顔をして、神様は静かに首を傾げた。  神様はたいそう美しい。中性的な顔立ちと、それを助長する長めの襟足がなんとも言えない色気を演出している。さらに雰囲気もどこか荘厳で、加えて表情も変わらないものだから近寄り難さすら感じられた。  さすがは「神様」と言うべきか。  アルスはそんな神様を見るたび、湖に映る平凡な自分がみっともなくて、胸の奥が切なくなった。  特別美しいわけでもない。華奢で愛らしいわけでもない。アルスは普通の「男」だ。その現実がなんだか苦しい。 「アルス、顔色が悪い」  いつの間にやってきたのか、気がつけばアルスの側には神様が立っていた。  アルスよりも頭ひとつ分大きい。おずおずと見上げると、神様は冷静にアルスを見つめていた。  何かを考えているようにも見える。しかし諦めたのか、軽く息を吐き出すと、神様はようやく口を開く。 「食の必要があるな」 「え、あ……えっと……」  本当はそんな必要はない。けれど神様に提案されると拒否できなくて、アルスは静かに目を閉じた。  神様の顔が近づく。呼吸が触れたのを感じると、二人の唇は重なった。  ——アルスにとって、神様とのキスは食事だ。だって神様は人間の「食事」を知らない。アルスが何を食べるのかも分からないから、アルスはずっと、神様からキスをされることで「神気」を与えてもらっている。  舌を絡めるのは、より多くの神気を渡すためだと神様が言っていた。どうやら効率がいいらしい。  角度を変えて深くなるキスに、アルスの思考がとろけていく。 「あっ……かみ、様……」  甘い声がささやく。神様はじっくりとアルスの様子を見つめていたけれど、アルスの声に応えるように噛み付く角度で口腔を犯す。  唇を吸われても、舌が絡んでも、歯列をなぞられても、上顎を擦られたって気持ちがいい。この行為に「快」を覚え始めたのはいつの頃からだっただろう。 (体が熱い……)  知らない感覚だ。アルスは持て余すそれに耐えるように、もじもじと膝をすり合わせていた。 「アルス……」  じっくりと唇が離れると、神様が小さくアルスに呼びかける。  熱っぽい瞳がアルスを映す。神様は本当に美しい。毎日見ていても飽きないほどである。アルスが神様に見惚れているうちに、唇はあっさり遠ざかっていく。途端に寂寥に襲われた。 「……ありがとうございます」  もっとしてほしいなんて、そんなおこがましいことは言えなかった。だってアルスは神様の「寵愛」を得ているわけではない。アルスはしょせん神様にとって家族でしかなくて、愛すべき相手ではないのだ。  神様が優しくアルスを抱きしめた。そんな温もりにさえ切なくなりながら、アルスは甘えるように神様の背に腕を回した。  アルスから見ても、神様は少々過保護だ。幼い頃からアルスを見ていたから仕方がないとはいえ、なかなかいきすぎている。たとえば神様は、アルスが一人で山に入ることを認めない。いわく、山賊にでも会ったら危険だろう、とのことだ。そもそも神様の湖があるこの山にそんな人間は居ないとは思うのだけど……アルスにはあまり分からなかったから、そんなものなのかとひとまず受け入れている。  だからアルスは外を知らない。ずっと閉じた世界に二人きりで、それが「狭い」ということも知らずに生きているのだ。  神様が例の岩に戻ったのを見て、アルスは一人そそくさと小屋に戻った。扉をしっかりと閉めて、ベッドに腰掛ける。  視線を落とすと、主張する自身が下穿きを押し上げているのが見えた。 (……なんでこんなことに……)  アルスに性の知識はない。どうしてこんなことになるのかも分からない。ただ神様にキスをされると体が熱くなって、気がつけばみっともない状態になっている。  けれどこれが「眠ればおさまるもの」であるということもアルスはよく分かっていた。だから今日も、まだ明るい時間だけれど、頭までシーツをかぶってベッドに横になる。アルスはぎゅっと固く目を閉じた。  ——湖の神様が「若くて美しい男が好み」ということは、村の連中にはずいぶん有名な話だった。  だいたい十五歳から十八歳の男が捧げられると、五年で次の生贄を差し出す。生贄はその間神様に目一杯愛されて、五年を過ぎても恩恵を受けて街で幸福に生きられるらしい。  誰もがこぞって生贄になりたがった。しかし当然、そんなスパンで「若くて美しい男」が必ず居るなんてことはありえない。  とある年、とうとう村にはそんな状況が訪れた。一番若くて二十歳。そもそも美しい男ではない。  だから村で、その当時もっとも"若かった"アルスが選ばれた。生まれて間もない、まだどう育つかも分からない赤子の頃である。  美しくなる保証はなかったが、それの判別を待ってもしも美しくなかった場合、次の生贄を捧げるまでに時間がかかってしまう。村の連中は焦ったようにアルスを差し出すことで、時間稼ぎを考えた。 『神様、こちらが次の生贄でございます』  そんな書き置きと共に湖に置いてけぼりにされたのは、生まれて間もない赤ん坊だ。神様はそれに驚いていたが、意外にもとても大切にアルスを育てた。  アルスが少々鈍感で素直で正直に育ったのは、神様と二人で生きてきたからだろう。アルスは人間の「汚い感情」にまったく触れてこなかった。  二人は二人だけの世界の中で、存外のんびりと生きていた。誰に邪魔をされることもなく、外に出ようとすら思うこともなく、神様も、生贄のことなど考えなくなるほどにはアルスとの穏やかな生活を受け入れていた。 「アルス、眠っているのか」  声がして、アルスはすぐに目を開ける。窓から見えた空はすでに赤くなり、日は傾いていた。どうやら長い時間眠ってしまったらしい。起き上がって下を見ると、自身のそこはもう膨らんでいない。  近くに神様は居なかった。いつもこうだ。声はするけれど離れたところに居るから、なんだか不思議な感覚である。 「少し寝ていました」  小屋を出ると、やはり湖の真ん中の岩に神様が座っていた。アルスをじっと見つめている。 「そうか。静かだったからどこかへ行ったのかと思った」 「神様は、僕がどこかへ行ったならすぐに分かるじゃないですか」  困ったように笑うアルスに、神様は何かを言いかけた。はて、おかしなことを言ってしまったのか。少し考えたけれど分からなくて、だけど神様が何も言わないから、アルスからも何かを言い出せない。 「……外は危険だ。一人では出るなよ」 「はい」 「……食事をするか」  遠目にも、神様の目がアルスの唇に落ちたのが分かる。アルスは少しばかり居心地が悪くなってつい目を伏せた。 「……はい。少し、欲しいです」 「少し?」  言いながら、神様は湖の上を渡る。優雅に歩いて波紋を広げた。それはどこか幻想的な光景だ。  とうとう近くにやってくると、神様の手がアルスの頬に触れた。撫でるような動きに、アルスはうっとりと目を細める。神様は綺麗だ。近くで見ればよりよく分かる。目をそらしたくなるほどの美しさに、アルスはため息でもついてしまいそうだった。 「塩梅が分からない」  そう言ってすぐ、神様はアルスにキスを落とす。容赦なく舌が探る。口腔をうごめくそれに、アルスは応えることで精一杯だった。 (あ、また……)  ようやくおさまったと思ったのに、体の奥が熱くなる。神様に抱きしめられてキスをされていると、もっと触れてほしいなんて、そんな理解し難い欲求が溢れてくるのだ。 「ん、はぁ……んぅ」  神気が流れ込んでくる。ずっとそうやって育ったからか、アルスの肌艶は同年代の者よりもうんと良い。特別「美しい」というわけではないのだが、童顔であるのは、神様から神気をもらっているからかもしれない。 (気持ちいい……)  神様の舌の感触を楽しみながら、アルスは目を閉じていた。神様は絶対にアルスの顔を見つめながらキスをする。分かっているから、アルスがキスの最中に目を開けられたためしはない。単純に恥ずかしいのだ。以前に目が合ったとき、どうすれば良いかが分からなくて目をそらすと、少しだけ笑われた。きっと慌てたアルスに呆れたのだろう。 「アルス」  神様はキスが終わると、それの合図として名前を呼ぶ。  そっと目を開くと、いつもと変わらない無表情の神様が居た。瞳はどこか優しい。気付いていたから怖くもなくて、アルスはぎゅうと神様に抱きつく。  このままずっと二人きりで居られたらいいのに。アルスは最近、そんなことばかりを考えている。  アルスがここにやってきてもう二十五年が経つ。「美しい男」がすでに生まれて、十五という年齢になっていてもおかしくはないだろう。新しい生贄がくればお古のアルスは不要物だ。神様から愛されたこともないから恩恵も受けられず、きっと路頭に迷うことになる。何よりアルスは、神様がほかの誰かに触れるということを考えたくなかった。 (どうして僕は、神様が好いてくれるほど美しくなかったんだろう……)  せめて誰もが振り返るほどの美貌があれば、一度だけでも触れてもらえたかもしれないのに。  ——そこまで考えて、ふと気付く。  これではまるで、アルスは神様に触れてほしいと思っているみたいではないか。 (違う違う。僕はただ、神様の側にいたくて……) 「アルス?」  抱きしめたままで反応のないアルスを心配したのか、神様が不安そうに名を呼んだ。  アルスはすぐに神様から離れる。 「すみません。少しぼんやりしていて……」 「ぼんやり? どこか悪いのか?」 「いえ、僕は元気です」  浮かべた笑顔は弱々しい。アルスのそんな様子には気付いていたけれど、神様はやっぱりじっくりとアルスを見るばかりで、何かを言うことはなかった。  アルスが続けて口を開きかけると、神様がとっさにアルスを背に隠す。素早い動きだった。 「……人の気配がする」  神様の目つきが変わった。 「人、ですか?」 「あそこに」  神様は茂みを見つめていた。その視線を追いかけると、そこに到達したと同時に、茂みから少年が現れた。  身長はアルスよりもうんと低く、細身でしなやかな体つきをしている。目はぱっちりとした二重だ。鼻も小さく、唇はぷっくりと桜色に色づいている。  華奢で愛らしい、まさに「美少年」とも呼べる、アルスが憧れたままの人物だった。  少年は驚いたような顔をして神様を見つめていた。隣に居るアルスには一瞥もくれない。ただ神様をじっと見つめて、ほんのり頬を赤く染める。 「……あ、あなたが、神様、ですか……?」  緊張しているのか、どこか固い声音である。しかしそんな声すら愛らしい。 「貴様は何だ」 「あ、ぼ、ぼくはその……このたび神様に捧げられた、あなた様の生贄でございます」  少年の言葉に、アルスは鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を受けた。  生贄とはこれまで、アルスの役割だった。しかし次の者が来たということは、自分はお役御免になったということである。  それも、こんなに美しい人間が来てしまったら……。 「ラズと申します。歳は十五」 「ほう」  神様の視線が、まるで値踏みでもするようにラズを這う。  アルスはなんとなく嫌な気持ちになって視線を伏せた。きっと神様はラズを気に入るだろう。だってラズはあんなにも美しい。庇護欲をそそる華奢な体だって、味わえば美味いに違いない。神様がラズを選ばない理由がない。  目の前でラズが選ばれるところを、アルスは見ていたくなかった。 (僕は、美しくない……)  ラズとは正反対だ。アルスは無意識に胸元をぎゅうと握りしめる。神様はラズを見つめたまま、目を細めるばかりだった。  

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