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第2話

「あの、あなたは……?」  ラズの目がアルスに向かう。俯いていたアルスはびくりと肩を震わせた。 「あ、僕は……あなたの前の生贄で……」 「そうなんですね」  安堵したように微笑むラズに、途端に悲しさがこみ上げた。  ラズは神様を気に入ったのだ。あれだけ美しい神様を前にして、気に入らないほうが難しい。それも「生贄」なんて名ばかりで、殺されることもなく神様と恋人のような関係になれるのだから、そんな話を知っていれば嬉しいとも思うだろう。  そう、通常の生贄は「恋人」のようなまぐわいをする。  アルスと神様の間にはそれがなかったというだけで。 「神様、これからよろしくお願いします」  ラズが健気に頭を下げた。神様は何も言わない。もう興味もないのか、眠たそうによそに視線を向けているだけだった。  ラズはよほど神様を気に入ったのか、すぐに神様の隣にやってきた。近くにいるアルスはさりげなく遠ざける。まるで「お前はもうどこかに行け」とでも言われている気分である。  アルスは一気に気持ちが沈んで、とぼとぼと小屋に戻った。  新しい生贄が来たともなれば、これまでアルスが使っていた小屋を渡さなければならない。小屋の中を見回して、沈んだ気持ちのままで片付けを始める。 「……綺麗な人だったな……」  神様はアルスが居なくなれば、すぐにラズを抱くのだろう。恋人に触れるように優しく、体の隅々まで撫でて、吸い上げ、奥深くに跡を残す。アルスを抱きしめていた優しい腕なんか比ではないほどに甘やかに、アルスも知らないような表情で笑いかけるのだ。 (僕が、知らない……)  胸の奥が鈍く痛む。片付ける手が思わず止まった。 「ねえ、あんた名前は?」  静かな空気を裂くように、強い言葉が降ってきた。声に振り返ると、先ほどの愛らしい表情がどこにも見当たらない、不機嫌そうなラズが扉にもたれるように立っている。 「あ、アルスです」  答えると、ラズの眉がピクリと揺れた。 「ふーん、全然可愛くないよね。何歳?」 「……二十五」 「はは! おじさんじゃん! 綺麗なわけでもないし、若いわけでもないんだ?」  どうして自分はこんなにも敵視されているのか。言葉に潜められたトゲを正確に感じ取ったアルスは、けれどもどうしてそんなふうに言われるのかが分からなくて、嘲るように笑うラズに恐怖を覚える。 「んー、でもぼくが生まれた十五年前にはまだ十歳? 可愛くもないのになんで生贄に選ばれたんだろ……あ、村の中でも立場があったとか?」 「いや、そういうわけじゃ……」 「体もゴツゴツしてるし、全然そそられないよね。ずーっとそんな生贄の相手させられて、神様が可哀想」  ラズの顔が歪んでいく。アルスはそんなラズを見ていられなくなって、何も言い返せないまま視線を落とした。 「でも次がぼくでラッキーだよね。だってぼく可愛いでしょ?」  アルスが一つ頷くと、ラズは勝ち誇ったように微笑む。 「どうせあんた、神様にもあんまり抱いてもらえてなさそうだし。最初の一回だけとかじゃないの」 「……僕は、その……一度も……」  小さな小さなその声は、けれどしっかりとラズの耳に届いた。  一度も。その先が分からないほど、ラズだって鈍いわけではない。ラズは驚いた様子を見せてすぐ、声を上げて大きく笑う。 「嘘でしょ!? 一度も!? 生贄なのに!?」  馬鹿にしているようだった。いや、馬鹿にしていたのだろう。ラズはそれを隠しもせずに、腹を抱えて笑っていた。 「あーあ、『若くて綺麗な男』が好きな神様なのに、本当可哀想だよね。でも分かる、あんた何一つ条件クリアしてないもん。抱きたくもならないって」  ラズの言葉の一つ一つが、アルスの胸に突き刺さる。 「とにかく早く出て行ってよね。あんたに触れられなくて溜まってた寵愛、ぼくがぜーんぶ受けるんだからさ」  ああ自分は邪魔なのかと、アルスはそのときになってようやく気がついた。だからラズはアルスを敵視しているのだ。  アルスの世界は狭すぎて、人と関わりを持ったこともないために感情の機微には疎い。ここまで言われなければ気付けなかった。  ラズはそれから何も言わず、満足げに小屋から出て行った。アルスも今はただ痛む胸を押さえて、作業に没頭することしかできなかった。    *  神様は意外とラズには興味を示さなかった。執拗に構うこともなく、むしろラズのほうが神様に構いに行っている。それもアルスがまだ居るからなのだろうかと考えてしまえば、アルスの胸はさらに痛むようだった。  ラズは湖に飛び込んで、神様が腰掛けている岩にまで泳いで向かう。アルスは泳ぎかたを知らないから、そんな行動がひどく眩しく思えた。 「神様、隣に座っても良いですか?」 「勝手にしろ」 「ふふ。ありがとうございます」  ラズは水から上がって、神様と並んで座る。アルスにはできないことである。見ていたくなくて、思わず目を逸らした。 (……やっぱり、僕が居るから……)  本当は神様も、ラズを押し倒したくてたまらないのだろうか。だけどアルスが居るからそんなことも出来なくて、ああやって会話をするだけで堪えている……?  考えればそれが正解な気がして、アルスの気持ちは沈んでいく。  だけどどこに行けばいいのだろう。アルスには身寄りもない。人里も知らない。生き方も分からないのに、どうやってここを出ていくというのか。 「アルス」  暗い顔をしていたアルスの元に、神様がやってきた。背後では岩に取り残されたラズが、恨めしげにアルスを睨み付けている。 「食事をするか?」  暗い顔をしていたから気を遣ってくれたのだろう。だけどもうラズが居るのに、神様からキスをしてもらうわけにはいかない。これからアルスは出て行くのだ。いつまでも甘えていては、出て行ったあとが大変である。  アルスはどのような食事をすれば腹が満たされるのか、それを学ぶところから始めなければならない。 「……食事はもう、大丈夫です」  アルスの拒否に、神様は珍しく表情を崩した。渋い顔だ。 「どうした」 「何がですか?」 「いや……」  これまで神様が食事をと言って、アルスが拒否をしたことなど一度もなかった。どういう心境の変化なのかと、神様はじっとアルスを観察するけれど、アルスは困ったように笑うばかりで本心は見えない。  じっと見つめるのは神様の癖のようなものだ。アルスもよく分かっている。だからいつものように笑って、アルスはただ首を傾げてみせた。 「アルス、」 「神様ー、何かありましたかー?」  背後から退屈そうなラズの声が聞こえた。アルスが神様ごしにそちらを見ると、キッと睨み付ける目と視線がぶつかる。 「呼んでますよ」 「顔色が悪い。何かあったか」 「……いえ、何も」 「私には隠すな」  ——と、言われても……アルスに言えることなんかない。新しい生贄が来たのだから、これまでと変わりなくお古はこの場を立ち去るだけである。それも、一度も寵愛を得られなかった役立たずだ。美しくもないし、若いわけでもない。何一つ神様の好みに当てはまらないのだから、この場にいる意味もない。 「え、と……神様、その、新しい生贄の方が来られて……」  思わず、口をついて出そうになった。  彼のことをどう思いますか。  続きかけた言葉は、みっともなくて飲み込んだ。それを聞いてどうする。アルスが何を思おうとも、選ぶのは神様だ。いや、もう選んでいるのだろう。  そんなことを確定させたところで、傷つくのはアルスである。 (傷つく……?)  どうしてアルスが傷つく必要がある。 (僕は別に……神様に、選ばれなくたって……)  これまでどおり尽くすだけだ。神様が誰を選ぼうとも、アルスの中の神様の立ち位置は変わらない。  傷つくなんてまるで、アルスが神様のことを愛してでもいるようである。 「生贄……? ああ、あれか」  ちらりと横目に振り向いて、神様がラズを見る。 「美しい人間ではあるんじゃないか?」  特別抑揚があったわけではない。表情もいつもと変わらない。だけどアルスには充分な衝撃で、「そうですか」とそんなことしか言えなかった。  やっぱり神様はラズを気に入っていた。それもそうだ。神様は「若く美しい人間」が好きである。すべてに当てはまるラズを嫌うわけがない。 (それならやっぱり僕は……)  胸の奥がジクジクと痛む。こんな感情は初めてだったけれど、神様がラズを気に入って、これから彼に触れるということがどうしても嫌だと思えてしまった。  神様と二人、閉じた世界で生きてきたアルスは、こんな汚い感情が自分の中に存在していたなんて知らなかった。神様に知られれば嫌われるだろう。どうして祝福してくれないのかと、幻滅されるに違いない。 (苦しい。悲しい。……これは、なんだろう……)  恋を知らないアルスは、それを恋と知らないまま、失恋をした。 「どうした、泣くな」  神様に頬を拭われて、自身が泣いていることにようやく気付く。  ダメだ。だって神様はもうラズのものなのだ。二人はこれからアルスとは違う「恋人」のような関係になって、仲を深めていく。そこに自分が居てはいけない。 「す、すみません。大丈夫です。目にゴミが入ったのかな……」  精一杯笑うアルスを、神様はじっくりと見つめている。それでもアルスは何も言わなくて、やがてため息を吐いた神様が折れたようだった。

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