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第3話
(家族なら喜ばないといけないのに)
今日も岩場に並んで座る二人を見て、胸の奥が締め付けられる。
家族なら、理想的な生贄と出会えて良かったですねと身を引くべきだ。人里で生きていくことを選ばなければならない。
けれど行くあてもないアルスは、飛び出していくことすら躊躇ってしまっている。
神様と生きてきたアルスにとって、人里というものはまったくの「未知」なのだ。
「ねえ、あんた。いいかげん邪魔だからさ、早く出て行ってよ。行くあてないならここに行けばいいよ。『働かせてください』って言えばすぐに雇ってくれるから」
アルスが悩んでいると、苛立った様子のラズに一枚の紙を渡された。知らない場所が記されている。
「ぼくは早くあの美しい神様に愛されたいの。身も心も捧げたいのにさ」
「……ここは?」
「街に行けば分かるよ。大きくて派手な看板があるところ。同じ文字が書かれてあるから分かると思うけど」
それは、行くあてもないと思っていたアルスにとって、渡りに船だった。
これ以上仲の良い二人を見ていたくなかった。だけど行くあてもないから出ていくことも出来なかった。そんな状況からようやく解放されるのだ。アルスは心の底から嬉しくて、満面の笑顔でラズにお礼を伝えた。しかしラズは少し困った様子を見せて、珍しく嫌味を言うこともなく後味悪そうにアルスの元を離れた。
その紙に記されている場所がどこなのか、アルスにはもちろん分からない。だけど行くあてが出来てしまったということは、出ていかなければならないということである。
本当は離れたくなんかないけれど……。このままでは神様にも「邪魔だ」と言われてしまうだろう。そんな未来だけは避けたくて、アルスは沈む気持ちでもなんとか立ち上がった。
もう二十五歳になった。子どもというわけでもない。立派な大人なのだからと、無理やり自身を奮い立たせる。
アルスはさっそく、まとめた荷物を持って小屋を出た。湖の真ん中では、一枚絵のように二人が並んで座っている。誰が見てもお似合いだ。それなのに、アルスの胸はやっぱり痛い。
(……二十五年、お世話になりました)
神様は耳がいい。だからアルスは声に出さずに、心の中でつぶやいた。そんな気遣いをしなくても、ラズに夢中な神様はアルスの声になんて気付かないだろう。そんなふうに思って、自分で傷ついてしまった。
だけど、アルスだっていつまでもウジウジとしているわけにもいかない。
すぐに強気に頷くと、アルスは小屋の裏から茂みに入った。
何が食べられて、何が食べられないのか。空腹を覚えてきたために、アルスはまずそれを考えようと辺りを見渡す。
森の中は未知のものばかりだった。木からぶら下がった果実でさえ、アルスには目新しいものである。あちらこちらに視線を巡らせながら、アルスは草をかき分けて歩いていた。
『どこに行くの?』
ガサガサと強い音がして、アルスはそちらに振り返る。大きな熊がそこに居た。
「街に行くんです」
『神様が怒るよ』
「……神様には、新しい生贄のかたがこられたので」
『? でも、怒るよ?』
熊は心底不思議そうだ。
「……とにかく僕は、街に行かないといけなくて」
隣を通り抜けようとしたアルスを、熊がとっさに引き留めた。
『それならそっちじゃないよ。早く抜けられる道を教えてあげる。あと、食べられる果実も』
アルスよりも大きい真っ黒な熊は、先導するように歩き出した。
彼はたまに湖に顔を出していたアルスの友人だ。アルスよりも人間のことに詳しくて、アルスは彼の話が大好きだった。
道中、彼に教わって食べた果実はとんでもなく甘くて美味しかった。アルスにとって初めての「味」である。感動しながらも、アルスははぐれないようにと熊について歩いていた。
「わあ、すごい。こんなに早く抜けられるなんて」
野営すら覚悟していたアルスは、日が落ちる前に森を出られたことに驚いた。この時間なら看板を探すこともできるだろう。その前にまたお腹が空いてきたからどこかで食事をとらなければならないのだが……ひとまずアルスは熊にお礼を言って、熊が森に戻って行くのを見送った。
「お腹すいたなぁ……」
くきゅるるる……と力なくアルスの腹が鳴く。神様はこれまで、本当によくアルスを見ていてくれたようだ。だってアルスは今まで一度も腹を空かせたことなんかなかった。
けれどもこんなところで立ち往生している場合ではない。食事を取るにも、しっかりと休める場所に向かわなければならないだろう。
アルスはすぐに、ラズから受け取った紙を開く。文字を知らないアルスには読めないが、同じ文字が大きな看板にあると言っていたから、同じ形を探せば良いだけなのだろう。しかし、どこを見ても「大きな看板」はない。そもそもアルスは「看板」を知らないのだが、「大きな」と言われたから、とりあえず大きなものを探していた。
「あれ? きみ、ユズリハさんとこの子?」
通りかかった優しげな風貌の男が、アルスが持っている紙を見下ろして足を止めた。
穏やかに笑っているからか、雰囲気も柔らかい。声音も落ち着いていて、大きいというわけでもない。警戒心の薄いアルスには男がとても善良な人間に見えて、すぐにパッと笑みを浮かべる。
「ここを知っているんですか?」
「うん、知ってるよー。常連客だからね」
「……常連?」
「そ。でもきみ、見たことないなあ……ウブそうだし、まだ店に出る前とか?」
男は難しい顔をしていた。それでも目尻が垂れているために、恐ろしい印象もない。
常連も店も、意味がよく分からなかったためにそれを伝えようとしたのだが、アルスが口を開くより早く、アルスのお腹が再び鳴いた。
男は驚いたように目をまん丸にする。お腹が鳴るということが恥ずかしいことであるという認識もないために、アルスはキョトンと男を見上げていた。
「ふ、あはは! うん、いいね。気に入った。うちにおいでよ。俺、こう見えて料理人の卵なんだ。ご馳走振る舞ってあげる」
「……ご馳走?」
「そう。お腹空いてるんでしょ?」
男がアルスの手を引いて歩きだす。アルスは特に抵抗もなく男の後ろに続いた。
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