1 / 61
第1話
「よくお聞き。あんたの胎は地獄だよ」
ジプシーの占い師と向き合い、そろえた膝に手をおいてきょとんとする娼婦。
そこは砂漠の吹き溜まり、安普請のバラック小屋が傾いで立ち並ぶ治安の悪いスラム。
家々の壁には賞金首の手配書と大股開きのストリッパーのビラ、草の根布教活動として聖書のフレーズを印刷したポスターが無節操に貼りまくられている。
『汝隣人を愛せよ しかるのち犯して殺せよ』
悪戯書きも放置されるがまま、ポスターはすっかり色褪せ破かれていた。
煤けた青空と乾いた砂が広がる荒廃しきった最果ての街で、ちびで痩せっぽちの少女はジプシーの老婆に占ってもらっていた。
生成りの天幕で仕切られた手作りの小屋には、六芒星のアミュレットやドリームキャッチャー、ビーズを連ねた飾りがじゃらじゃらと吊られて香が焚き染められている。
「あんたの子宮は悪の嚢だ。そこから悪魔の申し子が生まれるよ」
それを聞いた少女はどうしたか。
まず最初にびくりと身を竦め、神妙な面持ちでおそるおそる訊く。
「ええっと……性病にかかってるってこと?赤ちゃんを産める体じゃない?」
「違うそうじゃない、今のは比喩さ。そっちは医者の専門だけど、将来的に出産はできるんだから、まあ健康なんじゃないかね」
「よかった、体に問題ないのね!元気な赤ちゃんを産めるのね!」
最大の懸念が晴れて能天気に喜ぶ少女に、今度は老婆が困惑する。
不吉な予言をして、こんな反応を返されたのは初めてだ。
「いいのかい?あんたは人様に憎まれ蔑まれる、この世に迷惑と災厄をまきちらす悪魔どもを生み落とす運命なんだよ」
それを聞いたいずれ母となる少女は絶望した?
憤激した?悲嘆した?
一生男と寝ることなく子など産まないと決心した?
実際はどれとも違う。
目をきらきらと輝かせ、老婆の意地悪い予言を指折り数えて反芻する。
「『ども』ってことは一人じゃない?やった、それって最高!家族は多い方が賑やかで楽しいもの、兄弟喧嘩もできるのね!みんなで寝るならはみ出しておっこちないようおっきなベッドを買わなきゃね、仲間外れは可哀想だもの。うーん、ちょっと固いけど床で寝ればいい?雑魚寝も楽しそうよね、家族団欒よ。寝返りの時うっかり潰さないようにしなきゃだけど。ハンモックを吊るのもいいわね!」
あろうことか、少女はあっけらかんとこうのたまったのだ。
「教えてくれてありがとうお婆さん、少ないけれどお礼よ。おいしいものを食べてね。まっすぐ行って右の角のダイナーのハンバーガーがおすすめよ、犬の肉を使ってるって噂だけど味は悪くないわ」
「私の話を聞いてたかい?その形よいオツムにゃちゃんと中身が入ってんのかい?いいかいもう一度よくお聞き、アンタがこれから産む子は世間さまから忌み嫌われ人様に唾吐かれる悪魔の申し子だよ、絶対アンタを不幸にするよ。絶対孕むんじゃないよ、避妊を徹底するんだよ。トチったら針金のハンガーで引っ張り出すんだ。どのみちこんなくそったれた世界じゃろくな大人に育たたないから産むだけ無駄無駄、手遅れになっても絶対自分で育てようとするんじゃないよ、へその緒を切ってすぐ里子にだすんだ」
「いやよ、私が自分で育てるわ。大体ハンガーはそんな使い方をするものじゃないわ、痛いし可哀想。ママはよくハンガーでぶつけどお仕置きに使うのも間違ってるわ、アレはキレイなお洋服を飾って楽しむためのモノよ、そういうプレイなら別だけど追加料金はきちんともらうもの。あ、ママっていってもホントのママじゃないのだけどね、お店じゃそう呼べって言われてるから。行くあてなく野垂れ死にかけた私を拾ってくれたんだから継ママでいいわよね?」
あっけにとられる老婆の皺くちゃの手に、ポケットをあさってほぼ一週間分の稼ぎに相当する皺くちゃの紙幣を握らせて、少女はにっこり微笑む。
痩せた頬に鼻梁に浮いたそばかす、せいぜい十代前半だろうあどけない顔立ち。
若いというより幼い。
垢ぬけない小娘だが、快活に輝く赤茶の瞳と生気に華やぐ表情が、成長と共に開花するだろう美貌の片鱗を予感させた。
しかし注意してよく見れば四肢の至る所に青黒黄の痣が痛々しく散らばっている。服で隠れた部位はなお酷い。上前をはねる元締めか、もしくはサディスティックな客の暴行の痕跡。顔にキズが見当たらないのは商売道具だから控えたのか。
栄養状態も悪い。
肋が浮く薄い胸、今にも折れそうな細腕からは、日々の食事にも事欠く劣悪な生活環境が窺い知れた。
別に珍しい話ではない。
少女が格別不幸なわけでも悲惨なわけでもない、同様に虐げられた境遇の少年少女はこの街に数多くいる。皆親に売られるか捨てられるかした行き場のないみなしごたちだ。
そんな子どもたちを利用し搾取し私腹を肥やす大人たちも、この街には数多く存在する。
少女もまたそんな腐った大人に飼い殺される一人で、用済みになればあっけなく捨てられるだろう。
この世界はとことん弱者に冷たくできている。
避妊の失敗でぽんぽん産まれる子どもなど養う余裕がないほど全てが枯渇しきってるのだ。
水も、資源も、食糧も。
愛も、平和も、良心も。
道端で膝を抱えて蹲るか、虚ろに立ち尽くす子どもたちと少女の唯一の違いといえば、表情の明るさと親切で善良な振る舞いだ。
クスリや酒に逃避しているわけでもない、今しがたの老婆の言葉がよるべない少女に希望を吹き込んだのだ。
少女は胸の前でひしと手を組み、ご機嫌麗しく歌うような節回しで、老婆に心からの感謝をささげる。
「おばあさん、私ね、それを聞いてとっても嬉しい!私には近いうちに子供ができるのね、その子は無事産まれてくるのね。ずっとずっと一人だった私に家族ができるなんて、なんてステキ!そんなラッキーニュースが聞けて今日はとびっきりのハッピーデーだわ!」
だしぬけに身を乗り出し、老婆の頬に派手なリップ音をたてキスをする。
もう何年もまともに人に触れられてない、接吻に至っては何十年ぶりだろうか?
通りすがりの人々は汚いモノでも見たかのように冷たく一瞥くれて去っていく。
こんな薄汚れた、皺くちゃに縮んだババアに好き好んでキスするなんて……
思い返せば手を握られたのも随分と久しぶりだ。
少女は一片の躊躇なく、一片の抵抗なく、人々に疎んじられる老婆の手を握りしめて感謝を伝えた。
薄く華奢な手のひらからはぬくもりと親しみ、老婆にながらく無縁だった誠意が伝わってきた。
この世界で廃れかけて幾星霜の美徳の残り滓のようなもの。
王子様のキスがお姫様の呪いを解くなら、悪い魔女の凍てついた心を溶かすのは、お姫様のキスだろうか。
邪悪で老獪な魔女の皮肉も、少女の天性の明るさの前でたちどころに霧散する。
無防備なまでに正しい。
無防備なまでに優しい。
今の時勢では生き辛いだけの稀有なる美質。
純粋無垢というか天真爛漫というか……暴力と犯罪の温床である底辺の街には似つかわしくない、童話の主人公のようなお花畑メンタリティだ。
今も路地一本隔てた暗がりで銃声と悲鳴が響く死と隣り合わせの日常で、明日をも知られない命だというのに、それでも少女はひからびて斑が浮いた老婆の節くれた手を温かく包んだ。
打算を一切含まないスキンシップ、ただしたいからそうするという直情に任せた親愛表現。
初対面の赤の他人に、それも世間の荒波に揉みくちゃにされ根性のひん曲がった老婆に、こうも素朴な善意を向けてくるとは珍しい人種だ。
名前も知らない眼前の少女は馬鹿と紙一重の馬鹿か相当な変わり者に違いなく、店でも浮いてるはずだ。
面食らう老婆へふふっと悪戯っぽく笑いかけ、少女は人さし指を立てる。
「やっぱりここにきて正解だった、毒舌だけどハズレなし、怖いほど当たるって仲間内で評判だもの」
「アンタ……頭がどうかしてるのかい?」
「幸せすぎておかしくなってるって意味ならそうかも!」
少女は有頂天だった。
終始ご機嫌に、年相応にはしゃいでいた。
老婆は大層困惑する。
常識人や理屈屋には眉唾扱いされるが、彼女の未来視は本物だった。
ジプシーの血を引く老婆には客の運命が、どうかすると死期までがある程度見通せた。
この能力を不吉と忌み嫌われ石もて追われるせいで、どの街にも長居できなかった。この街もいずれ出ねばなるまい、既に気味悪いと噂が立ち始めている。最近では客足も遠のき始めた。
幼い頃からそうだった。
親兄弟でさえ老婆の能力を気味悪がった。
一家の乗った幌馬車が強盗に襲撃されて自分以外皆殺されると口走れば激しい折檻を加えられた。その時の古傷はまだ残っている。
実際その通りになった。
馬車が横倒しになり、血の海が広がる殺戮の現場で、まだ幼い子どもだった老婆ただ一人が生き残った。
いわんや他人に疎んじられるのは仕方ない。老婆はけっして占いの結果を偽らず、客を欺かない。故意に占いを捻じ曲げたら天命に見放される。
若い頃は厄介な力を生まれ持ったと嘆いたが、一方ではこの異能頼みに生計を立ててきた。他に頼れるものはない。
たとえ身近な人間の死や悲劇を見たとして、占い師の矜持にかけて、真実のみを口にする。
故に老婆は盲いた目で視た予言がどんな災難に呪われていても率直に述べて、贔屓筋の有力者を怒らせてきた。共同体の和を乱す異分子は排斥される宿命だ。
自分の運命を察した老婆は、差別される側の弱者ならではのしたたかさを発揮し、私刑の憂き目に遭う前にまんまと逃げおおせてきた。
町で孤立し腫れ物扱いされている老婆に対し、少女は至って無邪気にふるまう。
老婆に干渉する事で立場が悪くなるとか自分まで噂の的になるとか、きっと考えもしてない楽天的な言動。
長年の迫害に荒んで心を固く閉ざした老婆にも、少女の行動はまるきり読めない。
もともと足りない子なのだろうか。
猜疑と懐疑が綯い交ぜとなった陰険な金壺眼で、じとりと少女をにらむ。
「悪魔を産む、と聞かされて怖くないのかね」
「そんなことで引くもんですか」
すっかりあきれ顔の老婆をよそに、まだ見ぬ子をそうするように両手を交差させ自分を抱きしめる。
「悪魔だろうが天使だろうが私のかわいい子どもだもの。はやく会いたい、いっぱいキスしてあげる。キュートな角にもチャーミングなしっぽにもキスをして、うーんとたくさん愛してるって言ってあげるの」
ねえおばあさん。
口元に薄く笑みを刷いたまま、妙に大人びた目で少女は呟く。
捨てられ、犯され、弄ばれ。
凄惨な生い立ちを想像させるにあまりある、達観と諦観が相半ばする瞳。
絶望を知らないのではなく、知りすぎたがゆえに淡く澄みきった目の色。
無知ではなく、無垢ではなく、いわんや白痴でもない。
無残な現実を知るが故に、無体な事実を知りすぎたが故に、彼女の目は透き通っている。
「この世界はちっとも優しくない、残酷でひどいところ。おっかない人もたくさんいる。ひとを出し抜き、だまし、裏切り。そうやって食い物にする悪党がたくさんいる。痛いことや怖いこと、汚いことがむこうからたくさん襲ってくる。でもね、私が産む子が悪魔なら……悪魔のようにしぶとくずぶとくしたたかに頭が回る子たちなら、どんな酷い世界でだって生きていける」
この世界が地獄なら悪魔になるのが正道。
外道であればあるほど生き残る「目」が上がる。
悪徳はびこるこの世界を良心で均せないなら、これからこの地獄に生まれ落ちる子には、あらかじめ悪魔であってほしい。
悪魔のように強く狡くしたたかに、どんな犠牲を払っても生き延びる術を獲得してほしい。
その犠牲のうちに自分が含まれるとしたら受けて立とう。
純粋であるが無垢ではない。
前向きであるが世間知らずではない。
「清く正しいだけの聖人君子じゃ生きていけない。無力な天使は狩り立てられる。お空の上の神様は面倒くさがりだから、きっとなんにもしてくれない」
だって何度も祈ったもの。
ママにハンガーでぶたれた時、食事をぬかれてひもじい時、たすけてと泣いて縋ったもの。
どん底でいくら祈っても、ずぅっとほったらかしだったもの。
みんながみんなほったらかされて寂しく死んでくなら、神様なんていないも一緒。
この世界がろくでもない掃き溜めとよく知る少女は、これから生まれてくる我が子が他人に殺されず奪われず、自らを殺してしまうことなく立ち回り生き延びる才覚と悪運に恵まれてることを喜ぶ。
「最悪の逆境を切り抜く才能。最悪の窮状を切り開く機転。どん底から這い上がる不撓不屈の精神。ナイフも鉛弾も爆弾もきかない、どれだけ傷付いても悪意を跳ね返し立ち上がるタフな魂。それらを兼ね備えた子なら、きっと—」
一呼吸おいて、微笑む。
「私の夢を、叶えてくれる」
老婆は絶句する。
少女は母の顔をしていた。
どこまでもずぶとく、底抜けにたくましく。
銃を持たずナイフも扱わぬ少女が、どうしてこうも強くなれるのか。
地獄で子をなす覚悟をしたからか。
その子を守り育てる存在意義を得たからか。
絶望を超克する希望。瞳に装填された強靭な意志力。傷を瑕としない美しい微笑み。
少女を脱皮して、一人の母親という生き物に生まれ変わった瞬間。
「だから嬉しいの。子供に先立たれるのはいや、私の産む子には強くなってほしい。銃で撃たれてもナイフで刺されてもへっちゃらで、どんな痛みも高らかに笑い飛ばす不死身の子なら、きっと長生きしてくれる。ホラ、あの草」
「草?」
「アレよアレ」
突拍子もない発言に老婆が目をさらにまんまるくし、脳天から素っ頓狂な声をだす。
少女は今しも風に吹かれて道端を転がっていく、丸く縺れた枯草を指さす。
「そんな強い子なら、かさこそどこまでも転がってくあの草みたいに、この世界全部が砂に帰っても太く逞しく生きてけるはずよ」
「アレは根無し草じゃないか。風に吹かれて西へ東へ、しまいにどこへ行き着くかもわからない風来坊さ」
「それでいいの」
薄汚れた頬に満ち足りた微笑み。
平らな下腹部を優しく抱え、風とじゃれあう枯草を見守る目は柔和に凪いだ光を帯びる。
全身から滲みだす豊饒な幸福感が、痩せっぽちの少女を輝かんばかりに美しく見せていた。
あるいは孕む前から兆す母性の発露か。
天涯孤独の少女にとって、家族ができるという予言は福音以外のなにものでもない。彼女はすでに母となる心構えができている。自分の産む子がたとえ悪魔であっても……あるいは健常な人のカタチをしてなくとも、心から愛しぬき育て上げるだろう。
少女の孤独は根深い。故に少女は狂おしく愛し愛される存在を欲した。老婆が何を言っても彼女はきっと産む。限りなく狂気に近い家族願望。
その子が将来悪魔のような人殺しになろうが、大陸中に手配書をばらまかれる極悪人になろうが、ずっとひとりぽっちだった自分に家族ができるのが嬉しくてたまらない。
「覚悟はできてるかい?アンタは悪魔をこの世に送りだすことになるんだよ」
「それを言うならお婆さん、私のかわいい子を地獄に送りだす覚悟を問うてほしいわ」
低く脅すように念を押す老婆の目をしっかり見据え、こっくりと頷く。
「世界中のひとが悪魔と罵っても。たとえ此処が地獄であっても。私はその子に会いたいから、私のわがままで産むわ。そのことで子どもに恨まれたら喜んで地獄におちてあげる。もういいよ母さんって音を上げる位キスとハグをしてからね」
ざらつく砂塵吹きつける過酷な砂漠を西へ東へ転がる枯れ草から、死んだように無気力に道端に蹲る傷だらけの浮浪児たちへ目を移し、はっきりと断言する。
「私は絶対に子どもを捨てない。そんなお母さんにはならない」
私が子どもを手放すときは、その子が自由を求めて旅立つとき。
その子が夢を見つけたとき。
「自由に。奔放に。風の向くまま気の向くまま、私の手をはなれて転がり続けてどこまでも遠く。なにかステキなものがある、まだだれも見たことない世界のはてをめざして……」
地平線をめざして。
夕日へ向かって。
何物にも縛られず、何ぴとにも囚われず、まるで永遠のように。
火をつけたらよく燃える、転がりだしたら止まらない、あなたの名前は―……
夕焼けの大地に影絵を引き、即興の詩を紡ぐ少女の髪を乾いた風が弄ぶ。
枯草を追う赤茶の瞳は熱っぽく潤み、終ぞ見果てぬ世界のはてが映りこんでいるようだった。
夢見がちな少女と胆が据わった母とが同居するまなざしで枯草の行方を見守る少女に、根負けした老婆は吐息に乗じた苦笑いを浮かべる。
「一応言っとくと悪魔ってのは比喩だからね。角としっぽは生えてないからキスは諦めな。悪魔のように大それたことをやらかす大悪党になるって意味さ」
「まあステキ!列車強盗かしら、無銭飲食かしら、どんな大変なことをしでかしてびっくりさせてくれるか胸がふくらむ!タブロイドの一面に載るかしら?カワイイ角としっぽが付いてないのはちょっと残念だけれど……大陸中に悪名を轟かせるアウトローなアウトサイダー……男の子はちょっとくらいやんちゃじゃなきゃ!いえ、まだ男の子って決まってないけれど……息子だったらうんとハンサムがいいわ、子種をくれる人は顔で選ぼうかしら」
「あんたの子どもはとんでもなく不幸かとんでもなく幸せか、どっちかだね」
ついでこうも付け加えた。「子どもたちは立派なマザコンになるよ」と。
結論だけ言えば、老婆の予言は見事に当たる。
ともだちにシェアしよう!