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第8話
「ファッキンシットビッチゴートゥーヘル!」
およそ思いつく限りの罵倒をぶちまけ町をのし歩くスワローを通行人が遠巻きに避けていく。
とばっちりをくうのを恐れてか出歩くつど色目を使ってくる街角の娘や稚児好みの男たちも今日ばかりは近付こうとしない。賢明な判断だ。スワローは一度キレると手がつけられない、荒れ狂う怒りを抑制できない。
今よりずっと昔、ほんのちびの頃からそうだった。
物心ついた時からつまらないことで癇癪を起こしては兄やモノにあたり散らし破壊してきた。
きっかけはごくささいなこと。ちょうど自分の番が回ってきた時に紙パックの牛乳がからっぽになったとか、力の込めすぎでクレヨンが半ばからへし折れたとか……
列挙しただけでも愛想が尽きるくだらない理由の数々で、スワローはそれはもうあっけなくブチギレた。
『スワロー、あなたってトースターみたいね。パンを入れるとこんがり焼けてとびだしてくるの』
トレーラーの壁に落書き中にクレヨンが折れ、手足をぶん回しそれを踏みつける息子を、母は笑いながらそうたとえたものだ。
『笑ってないで止めてよ母さん!』とスワローを羽交い絞めにしながらピジョンが叫んでたっけ。
被害を受けるのは大抵彼の一番近くにいる兄で、裏を返せば兄が防波堤になってくれるからこそ、母やその他の人間は無傷でぴんぴんしてられるのだ。
スワローが憂さ晴らしを兼ねて繰り出した町は人口三百人程度。
大きくも小さくもなく、それなりの店をそろえてほどほどに栄えている。
母が運転するトレーラーが廃墟のガソリンスタンドに間借りして早三か月、丘を越えたところにある町に週一の頻度で買い出しにいくのが兄弟に課された役割だ。一度に大量の食糧を買い込む為、一人で持ち運びするのは大変だ。
トレーラーに直接詰めこめばいいと思われるかもしれないが、母の生業を考えると悪目立ちは避けたい。できるだけ車は使いたくない。今のご時世車もガソリンも貴重品だ、前に立ち寄った町ではちょっと目を離した隙にガソリンとエンジンを盗まれた。
以来手癖の悪い泥棒を警戒し、わざわざ歩いて街とトレーラーハウスとを往復しなければならなくなった。おかげで足腰が鍛えられる、いい運動になるよと兄はぼやいた。
「………ちっ」
すっかり舌打ちが癖になってる。ため息が癖の兄貴とは正反対だ。
ズボンのポケットに両手を突っこみ、喧嘩を吹っかける対象に飢えて尖った目であたりを見回す。
シケた街だ。
家々の壁には猥雑なスプレーアートが踊っている。
表通りを一本逸れたら急に活気がなくなり、低層のアパートとバラック小屋が犇めくスラムの景観が広がる。
今しもスワローが通り過ぎようとしたアパートの玄関口、段差のてっぺんと上から二段目に幼い少年たちが腰かけている。
片方は継ぎをあてたネイビーのオーバーオール、もう片方はタンクトップ。ふたりとも肘や膝、身体のあちこちに擦り傷を作り絆創膏を貼っている。兄弟だろうか、貧乏くさい顔立ちがよく似ている。神経質に下がった口角のせいで弟のほうが癇が強そうな印象を受けた。
「ばか、そうじゃないって。こうするんだよほら」
「わかんないよ、もう一度」
「また?ちゃんと覚えろよ」
「むりだよ、にいちゃん早いんだもん。口で言われただけじゃわかんない」
「しょうがないなあ、もう一度しかしないからちゃんと見てろよ。こーやって紐を引っ張って穴に通して……っと」
「えっと……こ、こう?」
「ちーがーうって、何度言えばわかるんだよもーぶきっちょなんだから!」
どうやら兄が弟に靴紐の結び方をレクチャーしてるらしい。
薄汚れたスニーカーをまっすぐ突き出し、慣れた手つきで器用に紐を交差せる。
弟は熱心にそれを見てまねをするがうまくいかず、今にもべそをかきそうに目を潤ませる。つたなくもどかしい手つきで紐をぐちゃぐちゃにこんがらがせては、兄のお叱りを受けてしょげかえる。
ピジョンはとんでもなく根気強い。
スワローがどんなに暴れて喚いても絶対に手を上げなかった。
あれは五つか六つの頃か、トレーラーハウスの登り口に並んで腰かけ、兄に靴紐の結び方を習った。
ピジョンは七歳か八歳か……まあそんなところだ。自分にも教えろとさんざんごねる弟に、兄はとても丁寧に結び方を教えてくれた。スワローの手を持って、指をやさしく折り曲げて、次はどこに通して引っ張ればいいか辛抱強く教え諭してくれた。
背中に回ったピジョンがスワローの右手に手を重ねて、そっと包んで正しい方向に導く。
『いいぞスワロー、いい調子だ。輪っかを作ってそーっと通して……飲み込みが早いじゃないか、さすが俺の弟だ』
たっぷり三十分はかかったろうか、不格好なちょうちょ結びをやっと完成させた弟をピジョンは手放しでほめた。
モップのように跳ねた髪に手を通して、ドヤ顔でふんぞりかえる弟を可愛くてたまらないといった調子で盛大になでくりまわした。
『えらいぞ、最後まで投げ出さずやりとげた!世界一の頑張り屋さんだ!』
あのどうしようもないお人よしのマヌケ野郎は、とてつもなく飽きっぽい弟が正しい靴紐の結び方をマスターしたことよりも、最後まで諦めず投げ出さず真剣に取り組んだことにこそ喜んだ。
そういう奴なのだ、アイツは。
そんな頃もあった。
乱暴に首を振ってしみったれた回想を断ち切る。
兄貴に褒められるのがちょっとでも嬉しかったなんて、あの頃はどうかしてた。
ご褒美めあてにしっぽを振りたくる犬かってんだ。
『いやだ、全然気持ちよくなんかない』
『普通の兄弟はこんなことしない』
「言ってろばーか」
じゃあ何で感じてんだよ、しっとり目に水膜張らせて腰浮かせてんだよ?
ヤッてることイッてること正反対で説得力ねえよ、アイツがご執心のフツウってなんだよ、フツウって何か知ってるのかよ?心の中で兄を罵倒し殴りまくる。母は十代前半で身籠ってスワローとピジョンを産んだ。父親は知らない。きっともう会うこともない。スワローの家族は優しく美しい母とグズでのろまで心配性の兄だけで、母が客とねんごろになってるあいだも兄だけはずっとかまってくれた。絶頂に上り詰める母の喘ぎやベッドの軋みが小さい弟に聞こえないよう、行為中ずっとトレーラーハウスの壁によりかかって、両耳を塞いでくれたのも兄だった。
スワローの耳を塞ぎ続けたから、自分の耳は素通しだった。
当時は耳栓を詰める知恵もなかったのだ。
スワローは普通という言葉が嫌いだ。大嫌いだ。欺瞞と偽善の匂いがぷんぷんする。理解の範疇外の出来事を常識の型に嵌めて安心するクズどものおためごかし、刷りすぎて価値が暴落した大量生産の免罪符。
いつからだろう、ピジョンが自分を見る目に濁りが生じたのは。
あいつは俺の眼をまっすぐ見なくなった。
恥じるような妬むような、屈折した翳りを含んだまなざしが上っ面をなでていくたびアイツをめちゃくちゃにしてやりたくなった。
張り倒して組み敷いて頭突いて、土壇場でもまだ背けようとする目を意地でも覗いてやりたくなった。
思えばもう随分兄に頭をなでられてない。
あたりまえだ。お互いもうガキじゃない、頭をなでてもらいたがる年じゃない。
「兄ちゃんのばか!死んじゃえ!」
足元にスニーカーが片方飛んできて、跳ねる。
振り向く。アパートの入り口、階段に腰掛けた子供がギャン泣きしている。さんざんに手こずってとうとうキレたらしい。
「教えてほしいって言い出したのそっちじゃんか!」
「だってできないんだもん、兄ちゃんの教え方がへただからちっともわかんないんだ!もっとちゃんと教えてよ!」
「自分がへたっぴなの棚上げするなよ、いちからちゃんと教えてやってるのにそっちが全然聞かないんじゃないか、よそ見してばっかでさ!わがままばっかいうならもう教えてやらないぞ!」
「いいよもう頼まないもん、お姉ちゃんに教えてもらうもん!」
「姉ちゃんだってお前の尻拭いなんかしたくないさ、おしめのとれない赤ん坊と一緒だな、ハイハイしてりゃ靴なんて履かなくていいもんな!」
スワローがつまらなそうに離れて見守る中、口喧嘩はヒートアップしていく。癇癪を起してスニーカーを放り投げた弟が兄を突き飛ばし、今度は兄が弟の肩を押し返す。カッと見開いた目にまじりけない憎悪が爆ぜ散る。
「もうやだ、お前なんかいらない、どっかいっちまえ!」
弟が愕然と立ち竦む。
「最初っから弟なんてほしくなかった、強くてかっこよくて俺のかわりにブロック組み立ててくれるおにいちゃんがよかったんだ!母さんや姉ちゃんまでお前の面倒押し付けるから友達と遊びに行けないし、お前がうちにきてからやなことばっかだ!」
よっぽど鬱憤がたまってたのだろう、ほんの数分前まで傍観者が感心するほど面倒見よく靴紐の結び方を教えてやってたのに……オーバーオールの兄が地団駄踏んで喚き立て、弟が泣きじゃくる。うるさい。目障りなうえに耳障りだ。ポケットに手を突っ込んだまま方向転換、街路を大股に突っ切って幼い兄弟に詰め寄る。
「おい」
「「え?」」
頭上を覆う不吉な影に言い争いも忘れ、ユニゾンして顔をあげる。階段の下段に立ったスワローは、片手に弟のスニーカーをひっかけ退屈げに揺らす。わざわざ拾ってくれたと勘違いした兄が、自分のオーバーオールをひしと掴み、背中に隠れる弟のかわりに前にでる。
「あ、ありがと……」
人懐こい笑顔を浮かべ、スニーカーを受け取ろうと手をさしだす男の子にニッコリ笑いかけ―
指を鉤にして弾みをつけ、力いっぱい放り上げる。
「「ああっ!?」」
呆然と立ち竦む幼い兄弟の眼前、垂直に放り上げられたスニーカーがすっとんで軒先にのっかる。玄関先のアーチに投げあげられ、視界から完全に消滅したスニーカーにあっけにとられる兄弟だが、弟の方が一足先に正気に戻り、先程の比ではないヒステリックさで号泣する。
「なにするの、ジミーの靴返してよ!!うち貧乏だから靴買うお金もないんだよ、いちばん新しいヤツだったのに!!」
「じゃあテメェでとってきな。犬だってそれ位の知恵は回るぜ」
甲高い声を張り上げ大泣きする弟を庇うよう片手を広げて仁王立ち、憤怒の形相で喰ってかかる兄を軽くいなし、スワローは耳垢をほじる。
人さし指に付着した耳垢を唇を窄めて吹き散らし、道端の犬の糞でも見るような目で、タンクトップの弟を見下す。
空気が帯電したように張り詰め、異常を察した弟が泣き止む。
すっかり怯えきって兄の背に逃げ隠れ、スワローとはけっして目を合わず卑屈に俯く男の子に、嘗ての自分と今のだれかを混ぜ合わせた面影がだぶる。そのだれかをとことん傷付けてやりたい、叶わなぬなら間に合わせの身代わりでもいいと胸に巣食う悪意が尖り、口の片端を歪に釣り上げる。地獄で悪魔と出会ったような絶望が、気圧されてあとじさる兄弟の顔を覆っていく。
「どうなったっていいんだろ?『コレ』」
用は済んだ。靴をうっちゃって満足したあと、スワローはあっさり踵を返す。そのまま幼い兄弟の事は念頭から消し去って街路へ戻り……
「あなた、こないだのお客さん?」
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