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第15話
なにかひとつ古いもの、なにかひとつ新しいもの
なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの
そして靴の中には6ペンス銀貨を……。
翌朝、スティーブは帰らなかった。
先生も子どもたちも、誰もスティーブの行方には触れない。
彼の消息を問えない、張り詰めた空気が全体に漂っていた。
食堂に行く途中、窓の前に立ち止まり裏庭を覗く。新しい盛り土が一つ増えている。当事者の先生ふたりも何も言わなかった。二日酔いのせいかどす黒く顔が浮腫み言葉も少ない。
そうしてスティーブはいなかったことにされてしまった。
彼もまたいつのまにか孤児院から消えている子どもたちの一人に数えられ、在籍する院生のリストから抹消された。
スティーブは手癖の悪い問題児で窃盗の常習犯、おまけにここにきて間もない新入り。
消えたところで誰も哀しまないし心配しない、いわんや労力を費やし行方をさがそうだなんて思わない。孤児院ではよく子供が消える。皆激しい体罰や粗末な食事、息苦しく監視される日常に嫌気がさして、大人になる前にとっとととびだしていく。スティーブもお仕置きにこりて逃げ出したのだと、皆はそう思い込んでいる。本当の事などどうでもいいし、誰も知りたくないのだ。
マザーグースの戯れ歌を口ずさみ、ポケットの宝物をいじくりまわしがてら殺風景な裏庭を眺める。
立ち枯れた木々や石くれが点在し、草も疎らな寂しい庭。
物心ついた時から見慣れた……そして昨晩、スティーブの最期に立ち会った瞬間に、僕の魂がやがて帰る原風景として刷り込まれた場所。
ここには恐怖と哀しみ、そして憎しみの感情の残滓が染み付いている。沢山の子どもたちが穴に落とされ、一晩中立ちんぼで泣き明かした。その慟哭の残響が幻聴となって響き渡る。裏庭を埋め尽くす盛り土は無名の墓標、誰も顧みることない子どもたちの無念の記録。
一歩間違えれば、僕もあの中の一つになっていたかもしれない。
真っ暗い穴の底と安全な外を分け隔てる境界線は、ほんの僅かな選択の違いでしかない。
運命の匙加減がちょっぴり狂えば、閉ざされた穴ぐらでひとり寂しく死んでいたのは僕だった。
「Something old, something new,something borrowed, something blue,and a sixpence in her shoe……」
窓ガラスに片手を添えて掠れた鼻歌を口ずさむ。
あの時スティーブが話しかてこなかったら?
6ペンスコインを取り上げなかったら?
僕が苦汁を呑んでやり返さなかったから?
先生に連行される道中、スティーブが出来心を起こしてオイル切れのライターに手を出さなかったから……そして僕がベッドを抜け出して、怖いもの見たさの好奇心に導かれて裏庭に行かなかったら。
あそこに埋められたのは僕で、あくる朝窓辺に立っていたのは彼だった。
|名無しのカラス《レイヴン・ノーネーム》。
僕の墓標に刻む名前。
あの夜、僕は一度死んで生まれ変わったのだ。
それまでの名前を捨て、それまでの人生を捨て。
今を生きる子どもたちの無邪気な歓声と足音が、廊下の真ん中で忘我する僕を避け、二手に分かれ遠のいていく。
今回の出来事でひとつ学んだ。
生前のスティーブとは友達になれなかったけど、彼の一部を手に入れることに成功し、実に寛大に満ち足りた気持ちだ。ポケットの中で安らぐ彼はもう汚い言葉を吐かないし悪いこともしない、他人を妬んで殴りかかったりもしないし盗みも働かない。
病める時も健やかなる時も僕たちは永遠に一緒だ。
生まれて初めて友達ができた。
6ペンスに懐く憧憬の念とも違う偏執的な愛情が湧き上がり、本体を離れた銀歯に人格が宿るのを感じる。
何も隠し立てせず全てを打ち明けられる、本質を理解し合えるかけがえのない友達。
ずっと友達の作り方がわからなかった。その必要も感じなかった。
そんな日々にも今日でお別れだ。子供時代に終止符を打とう、古巣を捨てて旅立つ時だ。
『行こうかスティーブ』
人目を避けて俯き、ポケットの中に声音を絞って話しかける。
薄汚れた窓には相変わらず寂しい裏庭が映っている。
その上に重なる僕の鏡像は、自分でも信じられないほど無防備に、心を許しきった微笑を湛えていた。
『大丈夫、ひとりぽっちにしない。君もつれてくに決まってる、僕たちもう友達だろう』
ポケットの中でスティーブの銀歯が笑った。
なにかひとつ古いもの、顔も知らない親にもらった6ペンスコイン。
なにかひとつ新しいもの、スティーブが僕にくれた小さい銀歯。
なにかひとつ借りたもの、先生の詰め所に忍び込んでハンガーからこっそりとった真っ黒なトレンチコート。ポケットがいっぱい付いてて、増えたコレクションを持ち歩くのに便利そうだというのがその理由。
なにかひとつ青いもの……
『青いものかあ。何か思いつくかい?』
ポケットの中のスティーブは答えない、そっけなくだんまりをきめこんでいる。おいてかれると勘違いしてむくれているのだろうか。
手持ちにないのが残念だ、せっかくならサムシングフォーをコンプリートしたかったのに。口惜しい気分で舌打ち、肩を竦めて気を取り直す。まあ、それはおいおい見つければいい。幸いにして時間はたっぷりある。
僕は名無しのワタリガラス、レイヴン・ノーネーム。
友達の銀歯と旅にでる男。
身を翻して窓から離れ、ポケットの中の銀歯を愛おしげになでてほくそえむ。
『歌では6ペンス銀貨になってるけど、僕は6ペンスと銀歯だね』
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