16 / 61

第16話

「知ってるかいスティーブ、この街の名前の由来。カクタスタウン……サボテンって意味なんだ、オアシスにうってつけじゃないか」 心の友に語りかけつつカーテンを開け放てば、昼下がりのまどやかな光が射し込んで室内を漂白する。 光のトンネルを微細な埃が舞う中、室内の至る所に嵩張る画架やキャンバスの輪郭がくっきりと照らし出され床に影を引く。 窓枠に手をついて身を乗り出し、ガラスを隔て猥雑な往来を心ゆくまで眺める。 どこにでもあるスラム街の一角、低所得層が何世帯も居住する安アパートが立て込む区画。 夫婦喧嘩や酔っ払いの小競り合いが絶えず、路地では麻薬の売人と男が値段交渉している。今日もまたどこかでだれかが発砲している。 「爽やかな朝……いや昼だ。昼だね」 褪せて所々敗れた壁紙と天井の隅に貼った蜘蛛の巣。お世辞にも掃除が行き届いてるとはいえないが仮の住み家ゆえ仕方ない、贅沢を言ってはバチが当たる。逃亡者の悲哀だ。 テーブルの上にはテイクアウトのベーグルとコーヒーが放置されてる。 先日知り合って懇意になった親切な少年に買ってきてもらったものだ。日持ちするベーグルはともかく、コーヒーは酸味が強烈でとても飲めたものじゃないが最近は味覚が麻痺してきた。 アパートの二階角部屋からは正面の通りがよく見渡せる。 平らに均された道をじゃれあい駆けていく子どもたちとすれ違う所帯窶れした主婦や風采の上がらない男たち、数か月も滞在すれば大体街の様子がわかってくる。 数々の街を渡り歩いた僕の経験から述べると、旅行者に程々に無関心なここは長期の潜伏に適した環境といえた。 びっこをひきつつテーブルへ向かう。 椅子を引いて腰をおろし、ぱさついたベーグルの残りをぱくつく。まずいコーヒーを一口嚥下、事務的に咀嚼を再開。 「でもその割にはサボテンを見かけない、名前に偽りありだね。街はずれにはたくさん生えてるって、こないだ知り合った子が言ってたよ。サボテンって便利だよね、葉っぱはぽってり肉厚でかわいいし茎を切れば水分補給もできる旅の貴重な栄養源だ。僕もよくお世話になったよ……マスタード塗りすぎかな、ごちそうさま」 一日中通りを眺めて人間観察をするのにも飽きた。安楽椅子探偵の開業は隠居後で十分間に合う。退屈は人を腐らせる。 こういう時は計画を立てるに限る。 ベーグルを包んでいたナプキンを裏返し、純銀の万年筆で素早く書きつける。 「次はどこへ行こうか。いい街だけどちょっと長居しすぎちゃったね、そろそろ追っ手がかかる頃合いだ」 もともと時間稼ぎのつもりで立ち寄った、滞在の延長を余儀なくされたのは不測の事態が重なったからだ。 この街は悪い所じゃないがとりたてて面白みもない。 人口はせいぜい数百人、事件が起きればすぐ噂が広まるから仕事がやりにくい。どうせ街を去るなら一仕事したい。 「ああごめんよアンドリュー、君もベーグル食べたかった?もっと早く言ってくれたら分けてあげたのに、相変わらずシャイなんだから。出会った時からそうだったね、煙草一箱とおなじ値段で自分を安売りして……ふふ、妬いてるのかいスチュアート?嬉しいよ。僕はみんなを平等に愛してるんだ、みんな僕の大事な友達、だれか一人を依怙贔屓なんてしないよ。なんだいその疑いの目は、僕が信じられないのかいレオナルド。傷付くなぁ……長い付き合いじゃないか、もう十年と八か月だよ。そりゃ一番はスティーブだけど……仕方ない、彼は古株だ。孤児院時代からの付き合いでずっと一緒に旅してきた仲、比べられないさ」 アンドリューとスチュアートとレオナルドとスティーブが一斉に話しかけてくる。同時に喋られると聞き分けるのも大変だ、僕にしかできない芸当だと自負している。アンドリューは内気なはにかみ屋でスチュアートは嫉妬深い情熱家、レオナルドは猜疑心が強く人間不信気味。そしてスティーブは十数年来の幼友達、隅々まで互いを理解した理想の親友だ。他にもいるけど長くなるので割愛しよう。 沢山の個性的な友人に囲まれて、僕はいつもしあわせだ。ひとりぽっちの子ども時代が嘘みたいに人生は充実してる。一か所に根を張らない旅ガラスもまんざら捨てたもんじゃない、常に新たな出会いを求め渡り歩くのは性に合ってる。 「完成。なかなか上手に描けた」 輪郭に一筆足して、できあがった似顔絵を皆に見せる。 万年筆でラフスケッチしたのは、甲斐甲斐しく僕のもとへ通う少年の顔。年の頃は十代前半、頼まれたら断れない柔和な顔立ちをしている。僕の代わりに買い出しに行ってくれる優しい性格…… 「礼をしたいと部屋に上げて、お茶でもごちそうしてあげたらいちころだ」 それは僕がよく使う手口の一つだった。 ある町を訪れ、スラムの安アパートの一室をアトリエ兼住まいとして借り、体の不自由な画家だと隣近所に名乗る。 足の障害のせいで気軽に外出できず、消耗品の買い出しにも難儀すると同情を訴え、親切な少年に駄賃をくれて使い走りに仕立てる。 親しくなってしまえばあとは簡単だ。ぜひともアトリエを見学させてほしいと、期待と緊張に初々しく頬を染め、自ら進んで申し出たのはアンドリューだったか。実は画家志望なんです、うちが貧乏だから学校にも行けないけど……将来は絵で身を立てて、家族にらくをさせてあげるんだ。 「可哀想な可愛いアンドリュー。僕が用意した偽物をすっかり信じ込んで」 僕は売れない画家として周囲に通してる。 まんざら嘘でもない、絵を描くのは光り物を集める以外の唯一の道楽で子供の頃から6ペンスコインの肖像を模写して時間を潰していた。 大人になった今では趣味と実益を兼ねた副業としていくばくかでも報酬をているのだから、人生なにがどう幸いするかわからない。 「部屋に引き込んでしまえばあとは楽勝、飲み物に薬を混ぜて体の自由を奪えばいい。ああ、でもそのままじゃだめだ。起きてくれなきゃ面白くない、君たちも楽しめない。僕はね、『見られる』ことで初めて興奮するんだ」 あの晩、窓越しに衝撃的な情景を目撃したように。 今も夜毎の夢の中に表れる裏庭に蠢く影、底なしの穴ぐらに降り注ぐ砂利の豪雨、瞬きすら惜しみ僕を凝視するスティーブの目に膨れ上がる透明な涙。 あの目に浮かぶ恐怖と絶望が忘れられない。 あの目に穿たれた虚無の深淵に魂ごと吸い込まれる。 生きながら埋葬されるスティーブの凍りついた顔を回想すると、下半身が昂っていくのがわかる。 ナプキンの端と端をそろえて丁寧に折り畳みながら、テーブルに居並ぶ友達にむかって辛抱強く語り聞かせる。 「物事には準備が肝心だ。この部屋は裏で手回しして漸く借りたんだ、汚してしまうのは心が痛むけど仕方ない。知ってるかい?逃亡中の賞金首を手助けして便宜を図ってくれる組織があるんだよ。安全な隠れ家の提供、闇の整形外科医の紹介、車やバイク、バスや列車の切符の手配……あはは、いい線言ってるよレオナルド。そうだね、ファンの組合みたいなものさ。頭のネジが外れた賞金首の追っかけたち……僕が今の今まで逃げ延びられたのも彼らのおかげさ」 各方面における組織の支援がなければ、十数年にわたる逃亡生活の実現はとても不可能だった。 組織の正体については知らない。こちらからの連絡手段は限られており、むこうからの|接触《コンタクト》を待つしかなく、実態は謎に包まれている。本当にただの道楽なのかなんらかの利害が絡んでくるのか、犯罪者を手引きする真の動機も不明なままだ。 保身を第一に考えるなら深入りと深追いはしないに限る。 この世には知らない方が幸せなことがたくさんあるのだ。 少し声をひそめ、周囲を窺うそぶりをする。これから先は地雷原に踏み込むデリケートな部外秘だ。 「好奇心猫を殺すっていうだろう、僕はカラスだけど。その組織の連中本当にイカレてるんだ、マジにマジでヤバイって評判さ。だってね、賞金首が望みさえすれば|犠牲者《ヴィクテム》までどこからか調達してくれるんだよ。髪の色、瞳の色、身長体重年齢血液型出身地家族構成エトセトラエトセトラ……その組織はシリアルキラーの好みと照らし合わすリストを持っていて、長期の逃亡・潜伏を強いられて欲求不満の殺人鬼にデリバリーしてくれるんだ」 角を揃えて小さく折り畳んだナプキンの上に、紙コップを傾けてコーヒーを数滴たらす。 茶褐色に濁った液体がポタポタと染みて、ナプキンに斑点ができる。 乾いた血痕のように薄汚い斑模様が。 悪意に蝕まれた皮膚病。 改めてナプキンを開く。 今さっき描き上げた少年の顔は、コーヒーが染みてすっかり変貌している。 顔の中心に斑に滲み広がる茶褐色の染み……いたいけな子どもを毒す不吉の兆し。 「僕から言わせればとんでもない怠慢だ、そんなクズからは|殺し名《マーダーネーム》など剥奪してしまえ。犠牲者は自分で選ぶからこそやり甲斐がでるんじゃないか」 僕の崇高なライフワークはけっして邪魔させない、興ざめな横槍など入れさせるものか。 「そう、いいことを言うねアンドリュー。さすが芸術家志望は見る目がある。自分の目で見て、手で触れて、舌で味わう。そして初めてコレクションに加えるに値する犠牲者か否かわかるんだ」 ナプキンを握り潰して屑籠に捨てる。 彼とは数日に一回会って短い会話を交わすだけ、赤の他人以上の交流はあるが親密な間柄にまで熟成しきれてない。最低限の信頼関係が築けてなければ部屋に誘った時点で怪しまれ目論見が破綻する、経験則でわかる。 急いては事を仕損じる、機が熟すのをじっくり待たなければ…… でももう時間がない、悩み所だ。些か賭けになるが、実行のタイミングを切り上げるか? 「……悩んでも無駄か。散歩にいこう」 こういう時は気分転換に限る。左足のリハビリもかねて近くを歩いてくるか。ハンガーからとったトレンチコートに腕を通し順番に「友達」を収納、扉の横に立てかけておいた杖をつく。 部屋を出る前、ドアの手前で室内を見回す。 必要最低限の簡素な家具調度のほか額縁にも入れてない未完成のキャンバスが乱雑に壁際に寄せられ、中央に立つ画架には制作途中の静物画と新品の油絵具のチューブがのっかっている。 描きかけの絵はありふれた花瓶と果物。ひとの記憶に残らないことを最優先した何の面白みもないモチーフが、三分の二ほど彩色した状態で放置中だ。 貧乏画家のアトリエとして最低限の体裁を整えてあるのを確認、満足げに一つ頷く。留守中に隣近所の住人が訪ねてきて、うっかりノブを壊して中を覗いてしまうおよそありえないハプニングがおきてもなんとかごまかせるだろう。室内を一巡した視線が壁際に立ち戻り、目立たぬよう押し込められたキャンバスの一枚に吸い寄せられる。 それは僕が育った孤児院の裏庭を描いた風景画。 いつともつかぬ陰鬱な曇り空の下、土が所々掘り返され起伏だらけの荒涼とした裏庭が広がっている。木々は葉を落とし立ち枯れ草も疎らな裏庭の背景には石造りの回廊が巡り、殺風景な棟へと続いている。 あそこにスティーブが眠っている。 この絵と共に旅をするから、何度引っ越しをくりかえしても自分の居る場所と帰る場所を見失わずにすむ。 しっかりと戸締りをし隠れ家を後にする。 手すりに片手を添え、杖の先端であぶなっかしく下方をさぐりつつ階段をおりていく。 「Something old, something new,something borrowed, something blue,and a sixpence in her shoe……」 いつもの癖でサムシングフォーを口ずさみつつ、左足を引きずりがちに階段を下りれば入り口で住人とでくわす。 噂好きで知られる一階の主婦だ。 赤ん坊をおぶった中年女は、不器用に杖を突く僕を見るなりさっそく愛想笑いで挨拶をふってくる。 「あらおでかけレーヴェンさん、珍しい。足の加減はいいの?」 「ええ、今日は調子がいいんです。軽くそこらを一周してこようかと……いくら家でできる仕事だからって、ひきこもってると体がなまってしまいますからね。少しは運動しなきゃ」 「それはよい心がけだこと。ええとその足、確か事故だっけ。屋根から落ちたか馬車に轢かれたか」 「いえ、コイツは生まれつきでして……」 「あら、嘘ばっかりじゃないの!うちの旦那ってばまいっちまう、大ボラ吹きでてきとーなことばかり言って……レーヴェンさんもただで似顔絵描くとか安請け合いはやめてちょうだい、うちのときたら世辞を真に受けちまって、毎日髭を剃ってお呼びがかかるの愉しみにしてんだよ」 大した興味もなく殆ど忘れかけていた彼女の旦那の顔を思い出す。 たしかアルコール依存症の弟夫婦と同居していたはずだ、どうにも家庭円満とは言い難くどうかすると真昼間から物が割れる音や怒号が響き渡る。 急にぐずりだした赤ん坊を揺すってあやしながら、主婦が顔を近付けてくる。 「道草もいいけれど、近頃なにかと物騒だから気を付けなよ」 「というと?」 「札付きのワルどもが徘徊してんだ。集団で店を襲って金品ぶんどったり、女の子をさらって輪姦したり、気に入らないヤツを袋叩きにしたり……みんな迷惑してる」 「自警団は何をしてるんですか?この街にもいるんでしょう」 「一応はね。でもまあヌケサクの集まりにゃ期待できないよ、街の治安を守るだなんだ威張りくさってるけど要は職にあぶれたゴロツキの群れ、権力嵩に着た愚連隊に毛が生えたモノ。うちの自警団はとくにタチが悪い。ここだけの話、裏で愚連隊と繋がってんじゃないかって噂があるんだ」 「自警団と愚連隊が?」 「よくある話さ。愚連隊のシノギをかっぱいで……賄賂をとって見逃したり、連中のおいたを揉み消したり、いろいろ便宜をはかってやってるんだとさ。極めつけは自警団のカシラ、なんと街一番のワルの種親だってんだから笑っちまう、親子二代でボス猿気取りだ。テメェのバカ息子使って街の悪ガキどもをシメてんだ」 憤懣やるかたなく唾棄する主婦の背中で赤ん坊が号泣する。 「トップの地位を利用して息子を庇ったり……?」 「とんだ能無しの集団だよ、街に逃げ込んだ賞金首一匹捕まえられないくせに」 「えっ、賞金首が?本当ですか」 素で驚く演技をする。好都合にも、主婦は赤ん坊をあやすのに夢中で僕のお粗末な芝居に気付かない。舌を突き出しおどけた百面相をする主婦、不機嫌から一転はしゃいだ笑い声をあげる赤ん坊。平和な情景だ。 「旦那が読んでる雑誌でちらっと見たんだよ。名前はたしかレベン?レボン?あード忘れしちまった、ほらあれだよ黒いやつ、オセロだっけ」 「離れてません?」 当たらずとも遠からずだけど。 「まあとにかくそんな物騒なのがうろついてたらおちおち出歩けないよ、最近はよそ者の出入りも激しいし……ああ、アンタは別さ。名の売れたアーティストなんだろ。引っ越してきた時にきちんと挨拶入れたし」 そういうふれこみで部屋を借りた。今に至るも真相はバレてない、これも組織の綿密な手回しのおかげだ。この街の住人がいくら保守的といえど、入居に際して一軒一軒丁重に挨拶回りをし、足が悪く迷惑をかけてしまうかもしれないからと、ドアの隙間から輪ゴムで巻いた札束をもぐらせた男を無碍にできない。 人の心は金で買える。 金払いのいい隣人にひとは優しい。 主婦が疑い深く眉をひそめ、僕の耳元で早口に囁く。 「よそ者といえば……アンタが最近付き合ってるあの子、よく買い物頼んでるんだろ。大丈夫?中身をくすねたりは」 「まさか。彼はとってもいい子ですよ、頼んだモノはちゃんと買ってきてくれるし……ああ、でもこないだは転んだとかで、あちこちボロボロのひどいありさまで帰ってきましたが」 「紙袋の中身は?」 「缶詰の類はへこんだだけですが果物と野菜は全滅ですね」 「いわんこっちゃない。街はずれの丘むこうのガソリンスタンドに泊まってる娼婦の息子だろ?親に似て手癖が悪いんじゃない、人の物を平気で横取りするんだ。あのアバズレにゃうちのもすっかり入れあげちまって……一体どんなテクを使ったんだか」 「赤ん坊に汚い言葉を聞かせちゃいけませんよ。まだ喋れなくても悪意に敏感に反応します」 一呼吸おき、さらに僕しか知らない事実を付けたす。 「彼は袋の破けた箇所を手で塞いで、片手の痺れにも耐えて、ひどく苦労して持ち帰ったんです。結構な重量で、自分だってあちこち怪我してキツかったのに……到底悪い子だとは思えません」 やんわりと窘められ、主婦が反省する。 そして言おうか言うまいか右に左に目を泳がせ、赤ん坊に背中を蹴られたことで意を決し向き直る。 「……その悪ガキどもがね、あの子にちょっかいかけてるんだとさ」 「へえ?」 「今に始まったこっちゃないけど、連中のよそ者嫌いは有名だからね。露店を蹴散らす程度なら可愛いもんさ……転んだって言ったね。ホントかどうか怪しいよ、連中の仕業じゃないかい。前にそれでよそ者を半殺しにしてるんだ。ヒッピーの身ぐるみ剥いで放置したり、ジプシーの婆さんの水晶玉をぶんどったり、被害者が街の住人じゃなきゃ野放しさ……アンタ、あの子と仲いいんだろ?気を付けてやんな」 口と品行は悪いがけっして悪人ではない。子を持つ親として、よそからきた他人の子どもを気にかける善良さの持ち主だ。 夫を寝取られた嫉妬も相まって悪し様に罵りながらも、その息子に迫る危機を親しい間柄の僕に告げて注意を促す。 ひょっとしたら彼女自身、買い物を詰め込んだ紙袋を抱ええっちらおっちら階段を上る後ろ姿を見かけていたのか。当時は腑に落ちなかったが、僕の説明を聞いて少年への好感度が上がったのか。 「事情は把握しました、彼に会ったら十分気を付けろと伝えておきます」 「いってらっしゃい」 「いってきます」 「あだぁ」 ご機嫌な赤ん坊に小さく手を振り、主婦に見送られ表通りにでる。さて、どこへいこうか。 「「助けて!」」 頭上に降り注ぐ切迫した声音。反射的に空を仰ぐ。正確には道を隔てた向かいのアパート、トタン屋根のアーチの上だ。そこに幼い少年がふたり呆然と立ち尽くしている。両者とも半泣きだ。兄弟らしく顔立ちがよく似ている。 知らない顔ではない。暇な一日窓越しに人間観察を続けるうちにすっかり記憶に馴染んでしまった、このアパートに住む母子家庭の兄弟だ。上にもう一人姉がいるはずだが見当たらない。玄関口の段々に腰かけて、兄弟同士遊ぶ情景をよく目にする。 「面白い遊びだね。日なたぼっこかい」 「違う!降りられないんだ!」 「どうやって上がったんだい」 「あそこ!部屋の窓から!」 「なるほど策士だ」 兄が指さす方角、アーチに面した窓が開け放たれている。子ども一人ならラクに出入りできるサイズだ。 「俺がコイツを肩車で先にいかせて、続けて窓枠を掴んで飛び乗って……」 「アーチにでて靴を拾ったの。ちゃんとあったよ、猫にべろべろなめられてたけど」 「鳥の糞が付かなかっただけマシだ」 「それで、それでね。帰りも同じことしようとしてね、だめだった」 弟がたどたどしく訴えて、片手にぶらさげた青いスニーカーを哀しげに揺らす。 「……よくわからないな。帰りも同じようにすればいいじゃないか、弟を肩車してのぼらせて」 「だからだめなんだって、見てよコレ!」 兄が憤然と指さす屋根に目をやる。 兄弟の体重を支える屋根が脆くも撓み、子ども一人すっぽり落ち込みそうな破れ目が生じている。安普請のトタン屋根はそもそも人が乗るのを前提に作ってない。従って子どもふたりを支える強度がなく、立った箇所が不安定に歪んでいる。 「少し歩いただけで穴が開いた。なんかべりっずぼって事故った。肩車なんかしたら二人分の体重でどうなるか……」 「屋根ごと落ちるかも」 「人生に落とし穴は付き物だね」 墓穴を掘るのはごめんだけど。 「ええと、兄さんが先に脱出して引き上げるんじゃだめなのかい?窓枠に手は届くんだろう」 ごく常識的かつ初歩的な解決法を提示してみる。それが地雷だった。 「コイツが一人ぽっちはやだっていうんだ!!」 「おいてけぼりはいや、ひとりぽっちはいや!!兄ちゃんは意地悪だから意地悪するんだ、弱虫泣き虫ドチビはずっとそこにいろって閉め出すんだ!」 「まだ根に持ってンのかよさっきのこと、お前がごねるから一緒に靴をとりにきてやったんじゃないか!」 「僕が先じゃなきゃいや、一番は譲らないぞ!服だって靴だって兄ちゃんのおさがりなんだ、なんでもかんでも後回しはいやだ!」 「そこから飛び降りるのはどうかな。運が良ければ捻挫で済むよ」 「運が悪ければ?」 「死ぬよ」 弟が火のついたように泣き出し、兄が慌てて宥めにかかる。 兄弟仲が良くて微笑ましい、彼らの言い争いを見ていると心が和む。失われし子供時代への甘やかな郷愁だ。 「行きはよいよい帰りは怖いか……帰途も考えて計画を立てなければね。ねえスティーブ、あのエゴ剥き出しの幼稚な口喧嘩子供の頃を思い出さないかい?あの孤児院の子たちは口が悪かったね」 不規則に杖を突き、再び巻き込まれる前にその場を離れようとして……。 建物の隣の路地から甲高い悲鳴が上がる。女の子の声だ。 「姉ちゃん……!?」 兄弟の顔が一瞬で強張る。路地から響くヒステリックな悲鳴は音量を増す一方、ガラスが割れる騒音やモノが崩れる音が連鎖して修羅場をうかがわせ、何かを殴打する音が乱闘の気配に重なる。 どうやら彼らの姉が現在進行形でトラブルに巻き込まれてるらしい。 「……」 僕の素性から単刀直入に言うと厄介事には極力関わりたくない。冷たいようだが、今すぐこの場を離れて知らんぷりをきめこみたい。屋根の上の兄弟がお互い寄り添いあって、怖々と路地の方角に視線をとばす。 「兄ちゃんどうしたの、見えない。今の声お姉ちゃんでしょ、なにかあったの?」 「こっからじゃわからない……さっきも変な音したけど。様子見てきてよおじさん」 「おじさんって僕?消去法で僕しかいないけど。まだギリギリお兄さんでイケない?」 「アパートの裏口が直接路地に通じてるんだ、そこを抜ければすぐだから」 「裏口を使えばバレないよ」 「敵のシカクを突けるんだ」 「「おねがいおじさん!」」 泣きっ面の兄弟は、どうかすると建物の壁に遮られた死角で喚き続ける少女よりパニックをきたしている。見捨てれば転落すら危ぶまれる。 僕の片腕で状況を静観していた「友達」が遠慮がちに訴える。 一瞬目を丸くし、それからやれやれと首を振る。 僕は友達をなにより大事にする男だ。友情の証明がかかっているなら手段を選ばない。 「……アンドリューがそう言うなら。子供好きだものね君は。その正義感、好ましいよ」 生前のアンドリューは貧乏家庭の長男で、下に七人の弟妹がいた。そのせいで子どもに肩入れしてしまうのだ。優しい子なのだ、彼は。そんな彼に惚れこんで新しい友達にスカウトした僕が言うのだから間違いない。 呼称の訂正は諦めて、アパートの玄関口から廊下を歩いて裏口へ抜ける。とはいえ、どうしたものか。かわいいアンドリューにお願いされて、いざ死角から登場したものの、路地で乱闘を繰り広げる少年たちは誰もこちらに注目しない。血なまぐさい殴り合いに夢中なあまり、だれ一人として闖入者の存在に気付かない。 とりあえずドアの裏に隠れ、しゃがんで事の成り行きを見守る……。 いた。 見つけた。 壁際に追い詰められ、数人がかりで押さえこまれた痩せた少年は、スティーブとよく似た綺麗な金髪の持ち主で。 ゴミ溜めにひっくり返り、胸板を踏まれた彼の耳朶では、左右合わせて合計七個の安全ピンが光る。 腐敗した生ゴミに全身塗れても、包囲する年嵩の少年たちに唾吐かれ嬲られても、その眼光は衰えを知らず危険な輝きを増す一方。 ゴミ溜めで光るモノが好きだ。 彼こそまさにゴミ溜めで光るモノだ。

ともだちにシェアしよう!