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The Happy Prince
「町の真ん中には王子様の像がありました。王子様は美しく、みんなから愛されました」
窓から斜にさしかかる天使の梯子が、床の日だまりに座り込み、おっとりと絵本を読み上げる男の子を照らしだす。
ピンクゴールドの猫っ毛に艶めく天使の輪を冠した男の子は、感受性の豊かすぎる瞳で活字を追っていく。
「宿を貸してくれたお礼に、ツバメは王子様にいろんな話をしてあげました。ある日王子様は言いました。世界中を自由に飛び回れるツバメさんにお願いがあります。ここを動けないぼくのかわりに、街のひとたちに困りごとがないか見てきてあげてほしいのです……」
ぽかぽかの陽射しに背中をぬくめ、たどたどしくも真心こめた朗読が続く。
トレーラーハウスの中は小さい子供がいる家庭特有のごった返した生活感に満ちている。床にはちびたクレヨンや未完成のらくがき、ボロい絵本や脱いだ服が散らばり、生活の場と母の仕事場はカーテンで仕切られている。
壁一面には白い画用紙に白いクレヨンで描いたため、目の位置の黒い点以外なんだかわからなくなったハトやでかい耳で空を飛ぶピンクのゾウ、擬人化した踊る花の絵などが所狭しと飾られて、ホームメイドのキンダーガーデンの趣を呈す。
ぶかぶか気味のオーバーオールの胸元に母お手製の小鳩のアップリケを縫い付けた男の子は、何がそんなに嬉しいのか、にこにこと語りかける。
「スアロとおんなじ名前だね、ツバメさん」
男の子……ピジョンが向き直った先。まだ赤ん坊の弟はしらんぷりでなにかを頬張っている。
「なにしてるの」
「だあ」
「あ〜またママのブラジャー食べてる……勝手にだしちゃいけないんだよ」
大袈裟なあきれ顔で、お気に入りのブラジャーをもにゅもにゅ甘噛む弟を叱る。
「ピジョのお話ちゃんと聞かなきゃだめだよ、せっかくスアロのために読んであげてるのに」
「だーぅ」
兄の言葉を理解してるのか否か、二歳児が首を傾げる。
「だーめ」
「あー?」
「ブラジャー食べたらお腹壊すよ、おいしくないでしょ」
「あ゛ー!」
「ぺっして」
わざとおっかない顔を作り、ヨダレまみれのブラジャーを横にとりのける。
スワローは大きな瞳をぱちくりし、まじまじと兄の顔を凝視。
「おいしくないでしょ」
「あー」
「おいしいの?」
「ん」
「…………」
ほかにだれも見てないのを確かめたのち、ブラジャーを素早くぱくり。
その顔がみるみる情けなさそうに崩れていく。
「おいしくない……」
「だー」
「しまっちゃうよ」
食いしん坊な弟が間違って飲み込まないようにブラジャーを丸めて隠し、それを追って回りこむまんまるい頬に、自分の頬っぺたをぴったんこする。
「スアロはかわいいねえ」
スワローは愛くるしい極みの赤ん坊だ。一目見れば誰も彼もが口をそろえ、本当に美しい赤ん坊だと褒めそやす。
日なたの匂いがする頭皮にはたんぽぽの和毛のような柔い金髪が貼り付き、血色のよい頬は健康的なピンクに染まり、赤茶に澄んだ大きな瞳は吸い込まれそうに神秘的。
ピジョンはまだ見たことないけど、天使さまがいたらきっとこんな感じのはずだ。
じっとしてられない幸せがこみ上げて、くすぐったげに名前を呼ぶ。
「スアロ―」
「あ゛ー?」
「スアロ―」
「う゛ー?」
「いなーいいなーいばいばーい」
右から左からのぞきこみ、両手で顔を隠してばっと出し、おもいっきり頭を低めて視界から消失。
スワローはきょとんとしている。
ピジョンはにへらと笑み崩れる。
「本当にかあいいねえ」
「だーむ」
下半身はオムツ一丁、上は褪せたTシャツを羽織っただけのスワローを膝の間に無理矢理だっこし直し絵本を開く。
「もっかいする?」
「だ!」
「今度はちゃんと聞いてね」
膝の間に固定されたスワローが元気にお返事するも、今度は言った本人が挿絵に見とれて手が止まる。
ヨダレと涙を吸って波打ち、見苦しくふやけたページには、ゴミの如く打ち捨てられた王子の心臓とみすぼらしいツバメの亡骸が横たわっていた。
ピジョンは食い入るように挿絵を見詰めてから最初に戻り、ポツポツと読み上げる。
「……幸福の王子は決してなにかを欲しがって泣いたりしないのよ、とお母さんはいいました。この世界のなかにもほんとうに幸福な人がいるというのはうれしいことだと男のひとは言いました。天使のようだね、と孤児院の子どもたちはうっとりしました」
ここからは町のすべての醜悪なこと、すべての悲惨なことが見える。
故に黄金の王子は涙をながし、足元で安らぐツバメをびしょぬれにした。
惚れっぽくて遊び人のツバメは、文句を言いながらあと一晩、もう一晩だけと旅立ちを延期して王子に尽くし、やがて冬の訪れに体力を使い果たして息を引き取った。
嘗て街の皆の自慢であり、風見鶏とおなじくらい美しいともてはやされた王子の像は、貧しいひとびとに両目の宝石と金箔を分け与えたせいで乞食のように落ちぶれはて、それを恥じた市長の指示により土台から引きずりおろされたが、鉛の心臓だけは溶鉱炉でも溶かせず、星明りと街明かりが降り注ぐごみために投棄された。
「……かわいそうだね」
「スワローにお話してあげてるの、ピジョン」
「ママ!」
「まぅあー」
ピジョンがぱっと笑顔になり、はずみでバンザイしたスワローがすりぬけていく。
キッチンから歩いてきた母の手にはマグカップが一個、ピジョンの大好物のお砂糖入りホットミルクが入っている。
「やったあ!」
両手でくるむようにカップを受け取り、口を窄めて息を吹く。
母は愛情深く微笑みながら、舌を出しては引っ込めて、ちびちびミルクを啜る息子を見守っている。
「絵本増えたわね」
「教会の箱に入ってたのもらってきたの。あそこに入ってるの、好きに持ってっていいんだよね」
「他の人に使ってほしいものを入れておくのが救貧箱だもの、遠慮なくもらっちゃいなさい」
救貧箱とは主に教会に設置されている箱で、着なくなった服や靴、ちょっとした生活用品などを回収し、貧しいひとびとに分け与える制度のこと。もとは慈善活動の一環としてはじまり、世界中に普及していった。
基本早い者勝ちで取り尽くされてしまうのだが、生活苦に喘ぐ人々に無用の烙印を押された絵本は、最後まで貰い手が付かず残りがちだ。
どんくさく出遅れがちな上に、気が優しく争いに向かないピジョンにはかえって有り難い。
知らない誰かのおさがりの本を、ピジョンはそれはそれは大事にしていた。
「こんなに面白いのに、なんでみんないらないのかな」
「キレイな絵なのにね」
もったいながるピジョンに母も同意を示す。
救貧箱の絵本があまるのは全国的な識字率の低さだけが理由にあらず、荒廃した世情では子どもも家計の担い手に数えられ、食い扶持を稼ぐだけで磨り減る日々の中、親が子に絵本を読み聞かす心の余裕など育むべくもない。また、親世代が文盲で朗読を行えないケースもある。
「ピジョね、スアロにご本読んであげてた」
「えらいわね」
「うん、ピジョもスアロもこのご本大好きなんだよ」
大好きな母に褒められピジョンはご機嫌だ。
寄り添うようにピジョンの隣に座り、息子がお行儀よく膝に広げる絵本をのぞきこむ。
そこには全身に金箔を貼られ、剣の柄と両目に宝石を嵌め込んだ凛々しい王子の像が描かれていた。
「幸福の王子ね」
「ピジョこのお話好き」
「なんで?」
「スアロがでてくるもん」
見開きの一点、王子に傅くツバメを指さす。
ピジョンは絵本が大好きだが、なかでも弟とおなじ名前の鳥がでてくるこの物語を特別愛していた。
「ひとりで読めるなんてピジョンはおりこうさんね」
「ママがおしえてくれるもん。あと、お客さん。ママはどこでお勉強したの?」
「ママの街に教会があって、そこの神父様が教えてくれたのよ」
「教会で字を教えてくれるの?」
純粋な疑問。
母は少し迷うも、誠実に話しだす。
「ずっとずっとむかし、大きな戦争がはじまる前は学校っていうものがあって、子どもはみんなそこで読み書きを教えてもらえたの」
「ほんと?」
「国がそういうきまりごとを作ったんだけど、ママが生まれた頃にはすっかりご破算。戦争で土地が荒れて、大勢の人が怪我したり死んだりして、ごく一握りの都会のお金持ちを除いて子どもを学校にやる余裕なんてなくなっちゃったの。自分の名前のスペルを覚えるよりサボテンから水を蒸留するほうが先、知識より知恵が優先される世の中の到来よ。ママが生まれた街の神父様はね、とっても物知りでちょっとばかり変わり者だったの。必要ないって大人たちの反対を押しきり、日曜日だけって条件付きで、町中の子供たちを集めて勉強を教えてくれた……」
虚空へ逸れた眼差しが、郷愁に凪いで過去へと遡る。
「親のいる子もいない子も、小さい子も大きい子も。病めるものも健やかなるものも、富めるものも貧しいものも、だれだって望みさえすれば学べたのよ」
「立派な人だったんだね」
「すごーく」
たっぷり一拍強調し、興味津々顔を火照らすピジョンに近付く。
「ママもすご―――くお世話になった。神父様の授業を受けたい一心で、おいてもらってるお店に無理言って抜け出したわ。神父様は聖書にでてくるお話だけじゃない、滅びる前にこの世界で起きたいろんなこと、これから起こり得るいろんなことを本当にわかりやすく教えてくれた。一年を巡る十二の月の正しいスペル、帳簿付けやお釣りをごまかされないためのかけ算割り算、海の向こうから上陸した入植者の群れに開拓された国の成り立ち、お日さまが上がる理由と月が満ち欠けする理由、夜空の星座が秘めたロマンチックな神話、塩の湖で体が浮かぶ仕組み……大人たちは役に立たないっていうけど、知ってると人生がよりよいものになるたくさんのヒミツ。女将さんにバレたらキツくお仕置きされるのはわかってたけど、コレだけはどうしても譲れなかった。だって自分で本を読めたり書けたらすてきじゃない、ここじゃないどこか、好きな物語の世界に行けるのよ?」
「ピジョ、ママの言うことわかる」
「でしょ」
さすがは私の息子。
悪戯っぽく含み笑い、もったいぶって人さし指を立てる。
「あの人にとっては、前に座ってる全員が教え子だったの」
どうやら神父様とやらは母の恩人であるらしい。ピジョンの知らない過去へ言及する横顔は、青春の華やぎを取り戻している。
「新しいことを知るのは楽しかった、世界がどんどん広がっていった。毎週送り迎えしてくれるお友達と、行き帰りに他愛ないおしゃべりするのも」
「お友達?ママの?」
穏やかに微笑み、ピジョンの頭をひとなでする。
「一緒に神父様のところへ通ったひとがいたの。優しいひと……」
息子の中に嘗ての想い人の面影を見い出して、眩げに目を細める。
「ママのいた街は危ないところでね、若い女の子が出歩くとさらわれたり、もっとひどい目にあうこともあったの。そのひとはママを心配して付いてきてくれたんだけど、授業中も立ちっぱなしで……ああじゃないこうじゃない、そんなのデタラメだってよくケチを付けてたわ。まわりの子よりずっと賢くてちょっと年上だったせいかしら、反抗的だったの。すっごい目で睨み付けてたから最初は神父様を憎んでるんじゃないかって思ったくらい。当たらずも遠からずね……」
「?」
頑なに腕を組んで神父を睨み付ける少年を懐かしさと共に回想、ひとりごちる。
「……ピジョンはあの人にそっくり」
「ピジョ、座るよ?足くたびれちゃうもん」
「ふふ、そうね。人のお話を聞く時はちゃんとお座りしましょうね」
困惑顔の長男に頬ずり、ブラジャーを引っ張り出しフリーダムにぶん回す次男に視線を送る。
「スワローは相変わらずだんまりさん?」
「うん」
「そっか」
スワローは言葉が遅い上、表情の変化も乏しくあんまり笑わない。かと思えば凄まじい癇癪を起こして一日泣き通すこともある。
ピジョンが育てやすい子どもだったのとは対照的に、大変に手がかかる。
「スワローはしずかなのが好きなのね」
無表情な我が子を膝に抱っこしてあやす。
彼女の秘された心は、スワローが無口な原因を過去の惨劇に求めてしまうのをやめられない。出産時の事件が息子の心身に及ぼした深刻な影響を案じ、どうか杞憂で済みますようにと狂おしく願っている。
どんな子でも愛せるし、全身全霊で受け入れる。
だけどもし、自分の落ち度で成長を妨げてしまったのなら。あの時為すべきを為さなかったせいで、あるいは刺し違えるのを覚悟で胎児を守らなかったせいで、この子の成長に影を落としているのだとしたら……
『成長すれば精神面に影響がでるかもしれません。集中力の欠如、多動性、著しい自己本位や情緒不安定などといった……』
『この先数年のスパンで見た場合、母子ともに副作用ないし後遺症がでる可能性だけは覚悟してください』
「あ゛―――――」
「もにゅもにゅしちゃだめよ食いしん坊さん」
生えかけの乳歯が疼くのか、執拗にブラジャーをしゃぶる次男を嗜める。
「そんなに噛んだらゴムが伸びちゃうよ」
心配そうに注意するピジョンには目もくれず、何度も床に叩き付けては噛みしだき、弛みきったブラをひっかむる息子に苦笑い。その頭からやさしく下着をとりのける。
「大丈夫よスワロー、ママがいるから」
「ピジョもいるよ」
「そうね、お兄ちゃんもいるわね」
母の脇からもぐりこむように膝に乗り上げたピジョンが、スワローのふっくらした手を表返し、ぷくぷくした甲の部分に人さし指でなにかを書く。
「ピジョとスアロ、おててでいっぱいおしゃべりするんだ」
「なんて書いたの?」
「B、I、R、D……とりさん」
スワローの手の甲をくりかえしなぞり、はにかむ。
「ピジョとスアロのなまえ、とりさんでしょ?ママがくれたおそろいのなまえ」
ピジョンの名前はまだ難しく、綴りをマスターしていない。でもバードなら四文字、なんとか書ける。
こちらを見上げてにっこり微笑む息子のいじらしさにたまらず前髪を分けてキスをすれば、くすぐったげに身をよじり、もっとしてほしそうな上目遣いで見てくる。
そんな最高に可愛い息子に、ちょっとだけイジワルをしてやりたくなる。
「大好きはなんて書くの?」
「それはね……」
スワローの手の甲に大きなハートをしるす。
まだ書けないLOVEとLIKEのかわりに、今の彼にできる精一杯で大好きを伝える。
「よくできました」
「えへへ」
ピジョンがはにかむように笑い、母の手の甲に見えないハートをしるす。
「ママもおそろいにしたげる」
「嬉しい!ピジョンも手を貸して、これでみんなおそろいよ」
母がピジョンの手の甲にハートを書く。
「もったいなくて手を洗えないわね」
「ピジョのハートは洗っても落ちないよ」
「そうなの?」
「いまは見えないけど、うんとがんばれば見えるんだよ」
「魔法のクレヨンを使ったの?」
「ピジョのなかにある、特別なクレヨンだよ」
「ピジョンが前に描いたハトさんみたいね」
「上手?」
「とっても!ママにはちゃんと見えたわよ、翼を広げてお空を飛ぶかわいいハトさんが」
「えへへ……」
三人仲良く手の甲に描いたハートを見せ合い、頬を赤らめて宣言。
「ピジョ、おそろい好き。だからスアロといっぱいおそろいするんだ」
「たとえばどんな?」
「お洋服でしょ、靴下でしょ、ご本でしょ、ポップコーンでしょ、クレヨンでしょ、ダンゴムシでしょ……ベッドも使わせてあげるしスニーカーもかたっぽあげる、ママのことはさんで半分こするの」
「まあ、世界一しあわせなサンドイッチね」
「あとね、オモチャも作ってあげる。びょーん、かしゃかしゃってするヤツ」
「ロボット?」
「お花さんのね」
指折り数えて夢を膨らませる息子の姿に、ひっそりと胸を痛める。
ピジョンがこのところ辛抱強く絵本を読み聞かせているのは、発達の遅い弟に早く言葉を覚えさせるため。
弟の言葉の遅れを、胎内にいた時にどす黒い悪意に侵されてしまったその将来を憂える母を、幼な心に気遣っているのだ。
情けない、子どもに心配させて。
私がしっかりしなきゃ、この子たちを守らなきゃ……
「スワローとピジョンは昔よくきてくれた鳥さんの名前からとったの、ママが憧れた世界へどこへでも飛んでいけるようにって」
私なら大丈夫。
スワローが一生ママと呼んでくれなくたって大丈夫、歩けなくたって大丈夫、背が伸びなくたって大丈夫、それはこの子を守る後押しはしても愛せない理由には絶対ならない。
子供の考えてることを目を見てわかろうとせずなにが母親だ。
母の胸に甘えるピジョンが、すぐ隣のスワローの頬っぺたを人さし指でちょこんと突付き、マシュマロのように指が沈む柔っこさに陶然とする。
それからスワローの手を握り締め、今さっきしるした見えないハートを浮かび上がらせようと吐息をかけて軽くこする。
「ピジョね、おしゃべりしなくてもスアロが大好きだよ。いてくれるだけで大好きなんだよ」
「……ママもよ、ピジョン」
この子はきっと知らない。
自分の存在が、どれだけ母と弟を救っているか。
「もっかい読んだげる」
ピジョンがごろんと寝そべり、はりきって朗読を再開。足を気忙しく揺らしてリズムをとる。
「ツバメは言いました。止めてもむだです、ぼくは今日こそエジプトに行くのです」
ゆっくりと目を閉じ、幸せに包まれて息子の語り聞かせに耳を傾ける。
「王子様は言いました。おねがいしますツバメさん、ぼくにはあなたが頼りです」
「ピジョ」
「「え?」」
同時に振り向く。
スワローが絵本へ這いより、兄の顔をまっすぐ見詰めている。
「いま、ピジョって……」
「スワローがしゃべったの?」
興奮もあらわに確かめ合い、挟み撃ちで畳みかける。
「今おしゃべりしたのあなたなのスワロー。ね、もういちど言ってごらんなさい」
乾いた唇を舐め、高鳴る鼓動をひた隠しに促す。
スワローは仲良く葬られたツバメと王子の絵をぺちぺち叩き、相変わらず無表情に口を開く。
「ピジョ」
「ほらピジョって言った!すごいねスアロお兄ちゃんの名前言えたねピジョのことピジョっていえるなんて天才だよ!」
「スワローの記念すべき第一声は大好きなお兄ちゃんの名前ね、録音しとかなかったのが残念だわ、待ってカセットテープあるかしら?たしか衣装棚の右上の引き出しに……」
言葉を発した弟以上に舞い上がったピジョンが、感極まった面持ちでスワローに頬ずりし、その上から二人を抱き締めた母が大はしゃぎでキスをする。
母と兄の度を越した喜び方をよそに、スワローは円らな目で兄を見据え、今度こそはっきり発音する。
「ピジョばか」
「ばかじゃない」
「ピジョのばか」
「またばかって言った!」
ピジョンが露骨にショックを受ける。
その豆鉄砲喰らったような顔が傑作だったのか、スワローはにわかに大はしゃぎし、めちゃくちゃに手を叩いて笑いだす。
「ピジョ、ばか、ばーか」
「ピジョばかじゃないからばかって言っちゃだめっ、そんなことゆースアロのほうがばかなのっ!」
スワローがきゃっきゃっと笑い転げ、むんずと掴んだブラジャーで兄の顔や頭をめっぽうひっぱたく。暴れん坊の無体な仕打ちに頭を抱えてべそっかき、ピジョンがヒステリックに喚く。
「スアロだめっ、ピジョぶっちゃめっ!」
「ばーか、ばーか」
「ブラは食べるもの、叩くものじゃないでしょ!?」
「やめなさいスワロー、お兄ちゃんが困ってるでしょ。ブラが大好きなのはわかるけどまだ早いわ、もう十年ガマンなさい」
スワローが生まれて初めて口にしたのは母ではなく、ものすごくうるさくてありえないほど近い兄の名前だった。
先を越されてしまった現実に一抹のやきもちを感じながら、それすら内包するありきたりの幸せに浸って、体当たりの勢いでダイブするジョンを受け止める。
「ああぁ―――――――――――――――んスアロがいじめる―――――――――」
「よしよしピジョン、もうだいじょうぶよ。スワローにはちゃんと言って聞かせるからかわいい顔をあげてちょうだい、そんなに泣くと真っ赤なおめめが溶けちゃうわよ」
「王子様みたいに……?」
「アレはツバメさんに突付かれたのよ」
膝に飛び付いて泣きじゃくるピジョンを宥め、スワローに噛んで含める。
「あなたは突付いちゃだめよ?」
「ピジョ、だめ?」
「お兄ちゃんにやさしくしてね、ママと約束」
「あー……」
下唇を突きだしむくれたものの、母の顔を立てて大人しく小指を絡めるスワロー。そのいかにもふてぶてしくしぶしぶな態度に神妙な表情を取り繕おうとしてあえなく失敗、スワローの成長とピジョンの思いやり、素晴らしい子どもたちに恵まれた感慨と彼らが演じるコントの面白おかしさにうっすら目尻をぬらし、誇らしげに息を吸い込む。
「愛してるわよピジョン、スワロー。私のかわいい子どもたち」
母と子がスラップスティックな一幕をくり広げるその傍ら。
床に放置された絵本の世界では、最期まで番として添い遂げたツバメと王子が幸せそうに微笑んでいた。
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