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第3話

 ふと、誰かの気配を感じた。  誰かが俺のすぐ近くにいる。そんでもって、両肩を掴んで無遠慮に揺さぶっている。両手の力が思いの外強くて肩が痛い。何か叫んでいるようだけど、頭がガンガンしていてよくわからない。  目を開けるのが億劫だ。気持ちよく昼寝しているだけなのに、こんな乱暴な扱いをされる謂れはない。  いい加減にしろよ、と怒鳴りつけてやりたいけど、どうしてか体がうまく動かない。声を出すことも出来ず、ちょっとした焦りがむくむくと湧き上がってくる。俺の体、どうしたんだ? 「すみません!後で殴ってもいいんでちょっと我慢してください!」  は?と疑問が浮かんだ。殴る?なんで?とやっと言葉が理解できるようになってきた頭で考える。その直後、薄くて柔らかいものが俺の唇を塞いだ。感じた柔らかさと真逆の強引さで唇がこじ開けられる。 「んっ!?」  吐息が漏れると同時に、口内に液体が流し込まれ、俺は驚いて目を開けた。目の前に、閉じた瞼と長い睫毛があった。  それだけでパニック寸前だった。俺今見知らぬ男に、口移しで水を飲まされているんだ、と理解した。頭が働き出すと簡単なことで、昼寝していたところを熱中症で倒れていると勘違いされたんだろうと検討はつく。  あながち間違いでもないかも。頭が痛いのも、気分が悪いのも熱中症の症状だ。やっぱり水分を持ってこなかったのは致命的なミスだった。  なんて考えている間に、目の前の男は再度水を口に含み、躊躇うことなく俺の唇を塞いだ。  正直冷たくもないし、相手は男だし、なんとも言えない気分だった。初めてのキスだ、とも思った。  でもそれ以上に、そいつが口移しで飲ませてくれた水に驚いていた。  甘かったのだ。そいつが手に持っているのは確かにどこにでも売っているミネラルウォーターで、一瞬、長く味覚を感じなかったせいで、水の味も忘れてしまったのかと思った。  そんなわけないだろと自分に言い聞かせる。水は水だ。正常だった頃だって、水は水だった。そのはずだ。  そういえば、なんとなくだけど甘い匂いがする。ほとんど風のない日だから、その匂いはすぐ近くから漂っているはずだ。そう、すぐ近く、目の前のその男から。 「大丈夫?」  呆然とする俺に、そいつは心配そうな顔で言った。その時気付いたが、俺はそいつの腕に抱えられていた。 「ん…平気だ」 「本当に?まだ顔色わるいですよ、先輩」  そう言って覗き込むように見下ろされると、更に甘い匂いが強くなった。もう間違いようがない。甘い匂いはそいつから漂っている。 「先輩?」  心配げな表情が徐々に険しくなっていく。これ以上迷惑をかけまいと、俺は慌てて体を起こした。が、眩暈がしてうまく起き上がることができなかった。  結果として、よろけた俺を慌てたそいつが抱き留め、胸に顔を埋める形でさらに密着することになってしまった。もう間違いようがない。まるで甘いお菓子みたいな匂いがする。忘れかけていた空腹が蘇ってくる。 「平気じゃないでしょ。もう少し横になっててください。それか、俺が抱っこして保健室に連れていきましょうか?」 「それは嫌だ」  間髪入れずに答える。そいつはちょっと残念そうな顔でアハハと笑った。 「先輩、こんな暑い日に屋上でひとりなんて、危ないことしないでください。せめて飲み物くらい持ってくるべきですよ」 「ん」  全くの正論だ。後輩に嗜められるなんて、情けない先輩だ。情けないついでに、膝をかりて横になったまま目を閉じた。 「あ、俺、2年の倉敷悠真(くらしきゆうま)って言います」 「俺は、」 「知ってますよ。凪沙先輩、俺の学年でも有名だから」  思わずため息が漏れる。有名だ、とは決していい意味じゃないに決まっている。  俺は自分が同学年からなんて言われているか知っている。  人付き合いの悪い陰キャ、面白くないヤツ、幽霊みたい、宇宙人……などなど、ほとんど悪口だ。当たっているからなんとも反論しずらいが。 「先輩女子から人気なんですよ。確かに綺麗な顔してますもんね……近くで見ると余計にそう思います」 「はぁ?そんなわけあるかよ……こんな不健康そうな人間がモテてたまるか。それよりお前は見るからにモテそうだよな」  パッと見た感じ、倉敷悠真は勝ち組だ。薄い茶髪もピアスもよく似合う明らかな陽キャで、顔もいいし体格もいいし背も高いだろう。少し焼けた皮膚も健康的でアウトドア好きそう。  それに、躊躇いなく(本人は人命救助だと思っているとしても)キス(ではないが)できるのだ。きっと普段からやり慣れているんだろう。 「まあそれなりに、ですかね」 「否定しないところは嫌いじゃない」  ハハハ、と爽やかな声が聞こえて、頭を乗せていた脚が揺れる。同時にフワフワと甘い香りが漂う。お腹が空いたなと思った。  しばらく他愛のない会話をした。俺は倉敷の足に頭を預けたまま目を瞑り、倉敷が提供してくれる話題に答える。倉敷の雰囲気が柔和だからか、なんとも言えない甘い匂いがするからか、どちらにせよ倉敷はいいヤツだった。  爽やかな印象に違わず内面も嫌味のない後輩だ。  気分が落ち着いたころ、そっと体を起こして改めて倉敷を見やった。どうしても唇に目が吸い寄せられる。何を意識しているでもなく、ただ何故甘かったのかが気になっていた。  しかし、もう一回口移しで水を飲ませてくれ!というわけにもいくまい。そんなこと言えるか。俺の内心の葛藤など知らない倉敷は、無邪気な笑顔を向けてくる。 「先輩、明日もここにいますか?」 「もちろん。ボッチだって言ったろ?ここしか居場所がない」 「偉そうに言うことじゃないですよ。あと、明日はちゃんとお昼ご飯持参してくださいね。一緒に食べましょ」  ああ、とか、うん、とか適当に返事したところで、昼休み終了のチャイムが鳴った。俺たちは慌てるでもなくそれぞれの教室へ戻った。

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