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第1話
「女の人」というものが、いつからか凄く苦手なものになってしまった。
最初に事件が起きたのは小学生の頃。
夏休み明け、楽しかった出来事をクラスのみんなに発表するというもので、
人前で話すのが苦手な俺にとっては嫌で仕方なかった。
緊張すると、どうしても口ごもってしまうのだ。うまく話せなくてもごもごしている俺に向かって、クラスのリーダー格の女子が
「瀬波稲雅《せなみ いなまさ》くーーん、全然聞こえませーーーーん」とでかい声で言ったのだ。
それに反応して皆笑いだす。友達だと思ってたやつも、担任までも。
俺は体がひょろひょろで、女子よりも力が無い。
そういう事でも馬鹿にされ続けてきた。体育の授業で跳び箱を動かす時にひいひい悲鳴をあげながら作業していると、「なんでこのくらい持てないの?」
かっこわる、と吐き捨てられてしまった。
皆、スポーツが出来る男子に黄色い声をあげる。サッカーの授業で盛大な空振りをかました俺は、男子からは非難の嵐、女子からはダサイの囁き。
スポーツが出来る奴はそんなに偉いのかよ、と俺が怒鳴ったら、皆どんな顔をするんだろう。ビビりの俺に、そんな勇気は無かったけど。
しくしく痛む心と体を包んでくれたのは、いつだってお父さんだった。
俺の家はじいちゃんの代から続くパン屋で、玄関の扉を開けるとバターと小麦粉に火が通っていく優しい匂いがふんわりと漂う。
ささくれた心を甘く包んでくれる。
じいちゃんが現役を引退してからはお父さんが切り盛りしていた。
今まで会社員として働いていたけど、婿養子としてこの家にやってきてから、結婚を期に脱サラしてパン屋の道を選んだ。
しわくちゃにしょぼくれている俺を見て、お父さんは何も言わずに抱っこしてくれた。抱っこされているうちに、涙がじんわり溢れてくる。
不器用だけどちゃんと優しい、そんなお父さんの事が、俺は大好きだった。
近所に住む人たちに、味が落ちたと言われないようにいつも一生剣命に働くお父さんを見て、俺もぶきっちょなりに洗い物の手伝いをしていた。
お父さんは俺の仕事をちゃんと褒めてくれる。
「綺麗に洗ってくれたな」「パン生地を丸くするのがうまいな」「ちゃんと片付けできたな」と
言葉少なでも、頑張ったことをちゃんと認めてくれていたのだ。
クリームパンみたいな、大きなふっくらした手。
その手で頭を撫でてもらえるのが、凄く嬉しかった。
太陽が昇るずっと前に、お父さんは仕事を始めている。下の階から聞こえてくる、パン生地を台に叩きつける音。俺にとって、その音はとても心地がいいものだった。
中学に上がってからも、女の人に対する苦手意識は変わらなかった。
むしろ加速したような気もする。
体が大人に近づき始め、男女の体格差というものが顕著に表れてくる。
男だったら声変りしたり、毛が濃くなったり。女子だったら体つきがやわらかくなったり。
そういう生物としての差がはっきりしてくる事に謎の不安感を覚えた。
俺はクラスの片隅でいつも静かに過ごしていた。それだけで、なんでダサイと言われなきゃいけないんだろう。「なんか瀬波に睨まれたんだけどー」と名前も知らない女子が言う。えー、きも、とまた誰かが呟く。
俺がお前に何かしたか?と言いたくなった。
人間とは悲しいもので、どんなに辛い事でも慣れてしまうのだ。
モテる男のステータスが、筋肉や、運動神経や、優しさなのだとしたら、俺はそのどれもが欠けている。周りの男子は、女子にモテたいとかバレンタインは決戦だとか盛り上がっていたけど、俺には全然分からなかった。
なんでチョコを溶かして固めただけで手作りになるんだよ、とバカバカしく思っていたからだ。
食べ物を作って美味しいと食べてもらうことを、軽く見ているようでとても腹が立っていた。
俺はパソコン部に入った。そこにいたのは、俺と同じ悩みを持った人が多くいた。クラスになじめない辛さ、ただゲームが好きと言っただけでオタク扱いされる事の理不尽さ。これがクラスのイケメンと言われてるやつだったらサブカルな事も知ってて素敵、とかギャップ萌えだとかなんとかもてはやされる。運動が出来ないことをみんなの前で馬鹿にされた経験。皆が打ち明けるつらい過去すべてに、俺は共感した。
パソコン部と言っても、ずっとパソコンに向かうわけじゃない。
皆でトランプしたり、勉強を教え合ったり、昼寝する人もいたり。
自由で、唯一心が休まる場所だった。
ここでなら、自分は普通に話すことが出来た。ゆっくり話しても誰も怒らない。少し口ごもっても馬鹿にしない。俺の家のパンの話をしてくれる人もいた。
「あのパン、このあたりで一番おいしいよね」と言われると、お父さんの事を褒められてるみたいで嬉しかった。
そこで俺は、インターネットというものに触れた。チャットで皆と話したり、ゲームしたり。次の日にはゲームの攻略の話をしたり。俺は初めて「楽しさを共有すること」を覚えた。
部屋で友達とやり取りする俺を見て、お父さんがパソコンを買ってくれた。「新しい方がいいだろ」家にあった古いパソコンで皆とやり取りしていたのを見かねて、
新しいものを俺にくれた。「…高かったでしょ」「いつも手伝いしてるからご褒美」そう言って俺の頭を撫でた。
俺の学校生活は、少しだけ楽しいものへと変わっていった。
それでも、女の人に対する恐怖心は消えなかった。
それはすべて、母親のせいだと思っている。
母親が、お父さんの仕事を手伝うことは一切なかった。粉だらけになるのなんて嫌、と知らんぷりを決め込んでどこかにでかけてしまう。
パン生地をこねるときの感触が気持ち悪いらしい。俺はそんなの
思ったことない。
家にいてもご飯も作らないし洗濯もしない。掃除なんてもってのほか。
ただ横になって携帯を触っている。そんな母親を見ていると無性に腹が立った。「なんでなにもしないの?」と言っても無視される。
家にいても寝てるかなにかお菓子をつまんでいるかのどっちか。
凄く幼稚なのだ。嫌なことは絶対やらない。
仕事もしないし家事もしない。思い通りにならないとあからさまに不機嫌になる。
ある晩、居間で勉強をしながらうっかり寝てしまっていた俺のうなじに熱い液体が降り注いだ。急なことで何が起きたかわからず飛び起きると、母親が電気ポット片手にへらへら笑っていた。「お茶飲もうとしたらさー、手が滑ってさー、」呂律が回っていない。酷く酔っているようだった。俺の声を聞きつけたお父さんが飛んできて、びしょびしょの床と母親が手に持ってる電気ポットを見て瞬時に状況を理解したようだった。
「何してるんだ!!」お父さんは大きな声で怒鳴った。それでも母親は、ごめーん、とにやついている。母親を無視して、お父さんは俺を抱えて病院に連れて行った。
先生が鏡で俺のうなじを見せてくれたけど、酷いものだった。真っ赤に腫れ上がった皮膚の下で、大きなミミズがのたうち回っているように見える。
帰りの車の中で、お父さんは「ごめんな」と半分泣きながら謝った。何も悪くないのに。
それから俺は、うなじを隠すように髪を伸ばし始めた。
クラスの人からは、不潔と罵られたけどどうでもよかった。
お父さんに、どうしてあの人と結婚したの、と聞きたくなることがあったけど、なぜか禁句のような気がしてどうしても聞けなかった。
手伝いを終えて部屋に戻ろうとした時、「じゃあ、今度の日曜日ねー」と母親の弾んだ声が聞こえてきた。口にしている名前は、お父さんの名前じゃない。
浮気しているのだ、と瞬時に理解した。
くるくるにまかれた髪の毛。真っ赤な口紅。大きく胸元が開いた服。
全てが不愉快だった。何もしないくせに、自分の身を飾るアクセサリーはお父さんが頑張って働いているから買えるのに、大した身分だと思った。
それから母親は、夜遅くにふらふらに酔っぱらって帰ってくることがさらに増えた。
靴が脱げていても、ろれつが回っていなくても、お父さんがお母さんを責めることは無かった。
どうして怒鳴らないの。どうして注意しないの。言いたいけど、どの言葉もお腹の底に沈みこんでしまう。
婿養子としてこの家にいることは、お父さんにとって辛いことなんだろうか、と思った。
母親が何人かの男の人と関係を持っていることに気づくのは簡単だった。
電話の向こうに呼びかける名前が日によって違うから。猫撫で声で約束を取り付け、ヒールを鳴らして街へ繰り出す。
人生というものを舐め腐っている、最低の人間だ。
一度だけ、母親の後を付けていったことがある。
暗い色の服を着て、ばれないようにこっそりと。母親は、古い平屋の中に入り込み、中からは楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
俺は裏手に回って、窓の隙間からこっそり中の様子を伺った。
すると、そこに見えたのは、母親の裸だった。上半身裸になって、体がゆらゆら揺れている。耳障りな高い声で喘いで、凄く楽しそうに笑っていた。
何をしているのか、すぐわかった。
水風船みたいな胸がふたつ、生き物みたいに揺れる。
強烈な嫌悪と、吐き気と怒りと、言葉にできない感情が口から吐瀉物と一緒にこぼれ出る。
お父さんが汗水流して働いている間に、この女は、自分にとっての気持ちいい事ばかり追っている。
そして自分も、ああいう行為の果てに出来た子供なのだ。
その事実が心底嫌だった。悔しくて悔しくて、
涙があふれて止まらなかった。
もう二度と帰ってこなければいいのに、と眠りにつく前に思った。
まさか、それが現実になるとも知らずに。
母親は、他人の赤ちゃんを妊娠していた。
それを聞いたとき、口の中にすっぱいものがこみ上げた。保健体育の授業で見た、性の仕組み。
卵子と精子が結びつき、分裂を繰り返し、人間になっていく。
そういう行為を、この女はよその人間と交わしたのだ。
この前見たあの男だろうか。それとも違う男だろうか。
全身に鳥肌が立つ。神に永遠の愛を誓ったうえで、お父さんの妻になったんじゃないのか?そのくせ支えることもせず、この女は、どこの誰かも知らない男の人とセックスして挙句の果てに子供を作ってしまったのだ。
目の前でうすら笑いを浮かべている人間を、母親と認識できなくなった瞬間だった。
「お金、ないんだよね」ぽつりとつぶやいてにやにや笑っている。
また吐きそうだ、と思った。俺が席を離れるよりも早く、お父さんが母親の頬を叩いた。
じっとり重たい空気を裂く、バチン、という鋭い音。
「稲雅に謝れ」そういうお父さんの声は震えていた。泣いているのだ。
母親は言葉にならない悲鳴を上げ、暴れまわる。
灰皿が、コップが、新聞が、いろんなものが部屋の中を飛び交う。
俺は自分の部屋に閉じこもった。
もう出てってくれ、と叫ぶことも出来ない。息が苦しくて、早くこの嵐が去ってくれることだけを願っていた。
あんなのもう、母親でも何でもない。
「忙しさを理由に、見ないふりをしてた」お父さんがそうつぶやいたのは、
荒れ放題の部屋の片づけがひと段落着いた頃だった。
「気づいていたのに、怖くて、言えなかったんだ」穴が開いた障子から差し込む光は凄く弱弱しい。
「お父さんは、この家で凄く弱い人間なんだ」
ポツリとつぶやかれた言葉を信じられなかった。
お父さんはいつだって強かった。
雷に怯えて泣く俺をなぐさめてくれて、運動会には誰よりも豪華なきらきらのお弁当を作ってくれて、
いじめられたら向こうの親が謝るまで学校に繰り出して、どんなときも守ってくれて支えてくれた。
「稲雅が生まれる前のお父さんは、ダメ人間だったから」この家に拾ってもらったようなものなんだよ、と言った。
「ごめんな、だめなお父さんで」お父さんがまた泣いた。
「そんなの思ったことないよ」俺も泣いた。
あんなに頑張って働いていたお父さんが、なんでこんなに泣かなきゃいけないんだろう。
あんな、ばかな女一人のせいで。
俺の複雑な家庭の話を、パソコン部のみんなは親身になって聞いてくれた。
学校に行けないときは、チャットにメッセージをくれて、宿題のことや連絡事項を伝えてくれた。
傷つく辛さを知っている人たちだったから、俺の事を気遣って時には積極的に話しかけたり、適度に距離を置いてくれたりした。
あの日から、俺にとって女という生き物は敵だ。害悪なものだ。
それが体の芯まで刻み込まれている。
ようやく普通に学校に行けるようになって、
クラスの女子が、俺を見て「瀬波ってさー、陰キャだよね」と言った。
言われた言葉の意味は何となくわかる。周りの女子も同調してわかるー、とけらけら笑う。嫌な声だ。あの女と同じ、耳障りな笑い声。
「だったらなんだよ」自分でもびっくりするくらい冷たい声が出た。
これには女子も驚いたようで、「なにそんなキレてんの、」と言い返してきたけど、途中で言葉を飲み込んだ。多分、今の俺は凄く怖い顔をしているんだと思う。
シャレにならないほどに。女子たちの顔には、やばい、という感情が透けて見えた。
「稲やん、あっちいこうよ、」パソコン部の友達が俺の腕を引く。
腕をひかれながらも、俺は女子たちをにらみ続けていた。
「びっくりしたー、稲やん、あのまま殴るんじゃないかと思ったよ」
俺を連れ出した友達の三上は胸をなでおろしていた。俺たちは今部室にいる。狭い、チョークの粉の匂いで充満した空間にいると、自然と胸のざわめきは静かになっていく。「ごめん…」「いや、稲やん悪くないよ。ああいう風に、他人の容姿とか馬鹿にする方が変だから」三上とはパソコン部に入ってから親しくなった。もともと頭が良くて、パソコンにとても詳しかった。
ふっくらした体が食パンみたいで可愛い、ゆるキャラみたいな奴だった。
「ねぇ稲やんさぁ、新しいゲームのジャンルを開拓する気はない?」三上が空気を変えようと話題を振ってくる。「どんなの?」「んー、恋愛ゲームみたいなやつ」
そう言って三上はパソコンの画面を開く。
そこに並ぶ文字を読んだ。「BL?」「そう、ボーイズラブのゲーム。俺も今までやったことなかったんだけどね、知り合いが教えてくれたの。結構面白いよ。なんでもやってみるもんだねー」三上はカチカチと色んなページを見せてくれる。
今までやって来たのは、アクションとか、RPGばかりだった。
知らないものに触れる、という興味もあったけど、どちらかというと男性同士の恋愛、という部分に興味があった。
女というものを毛嫌いしていることを知っているから、三上はあえて教えてくれたのかもしれない。
家に帰ってから、三上に教えてもらったゲームの中から一つ選んでやってみた。
俺は衝撃だった。
何故なら、セックスは男同士でも出来ると知れたから。男の人同士が体を重ねて言葉をささやきあっていた。
俺は、こういう事は必ず女としないといけないと思っていた。
だけど、もともと抱いていた恐怖心と、そこにさらに嫌悪が重なってしまった。子孫の繁栄とかそれ以前に、愛し合うのは女とじゃないといけないとばかり思っていた。
凄く安心した。
相手が女じゃなくても、俺はセックスできるんだ。していいんだ。
大きく揺れる水風船が二つ、弾けて割れて、水があふれた。
その晩、少し泣いた。
それからというものの、俺の性癖はどんどんおかしい方へ曲がっていく。
最初はピュアな恋愛ものをやっていたはずだった。なのに、いつの間にか成人指定の物ばかりやっていた。
ただ抱くだけでは物足りない。鞭やろうそくでは手ぬるい。
ただやってるだけじゃつまらない。辱めがもっとほしい。
どのタイミングでどんなスチルが出てどんな台詞が出てくるかまで覚えてしまった。出演している声優の源氏名まで網羅している。
もっともっと見せてくれ、と思った。
どんな風に愛し合うのか教えてほしかった。
男同士で、どんな風にセックスするのか、見てみたかった。
勿論フィクションだから、こんな風に事が進まないだろうとは思っていても、
俺の脳みそは馬鹿みたいに興奮する。
登場人物の口から飛び出す台詞がとんでもなくいやらしい意味を持つと知った時の高揚感。
部屋に敷き詰められた、ハレンチなパッケージ達。いやらしい言葉と、ほとんど裸のイラスト。
俺にとっては教科書だった。知らないことを教えてくれる教科書。
ネットで知り合った人が、更に色んなものを教えてくれる。
そうして得た知識で、俺は誰かを抱くんだろうか、それとも抱かれるんだろうか。
よこしまな妄想で上を向く色んなもの。
はは、と乾いた笑いが込み上げる。
性癖なんて、歪んでなんぼなんだよ。
一番お気に入りのゲームの台詞を頭で反芻しながら、俺は下着の中に手を入れた。
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