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第1話

 波の音と錆の香り。その中に混ざる甘い匂い。  幸福は何かと問われれば、篠原槙は迷いなくそう答えるだろう。  海と山に囲まれた小さな町、海鳴町。槙が暮らす場所だ。  住んでいる人間は殆ど昔からの顔見知りで、外部から移り住んだ人間はとても少ない。それでも閉鎖的というわけではなく、訪れる人間を町人は決して拒まない。気が付いたら顔見知りになっている、そういう穏やかな町だ。  町民がみんな基本的にお人好しなのは、どこまでも広がる青い海のおかげなのだろう。海は、晴れの日も雨の日も嵐の日だって変わらずそこにじっと在り続けている。まるで、彼等を見守るように。海に見守られているから、きっと町民は悪い事をしないし言わない。  今日も海は黙したまま、波を鳴らす。空はペンキを溢したみたいに青一色で、時々思い出したように雲が流れている。風が吹けば、乾いた熱で頬を擽った。  海鳴町は、夏を迎えていた。一歩でも外に出ればじりじりと太陽が容赦なく肌を焼きにくる季節だ。  町の少ない子供達は上機嫌にもうじき訪れる夏休みの予定を立て、町の年長者達は去年よりも今年の方が暑くなったと地球に文句を垂れている。子供でも老人でもない中間の年齢の人間は、もうそんな時期なのかと時の早さに目を見張る。  まだ町の雰囲気に馴染みきれていない槙は、特段夏に思うところはない。ただただ、今日も今日とて寂れた商店街で黙々とソフトクリームを売るだけだ。  顔見知りになったマダムに容姿を大層に褒められたらカップのソフトクリームにチョコレートをおまけして。お小遣いを握りしめて走ってきた子供達には内緒でソフトクリームを多めに巻いて。  商店街の仲間に挨拶をしたら、店長と共に暮らす家に帰って行く。それが槙が二十一年間の人生で初めて得た一番安全な日常だった。  今年の夏も、去年と同じように過ぎていくのだろう。槙は理由もないのに当ての無い確信を持ってそう思っていた。  この穏やかで単調な日常に変化が訪れたのは、ある一人の青年がこの町に引っ越して来たのが始まりだった。    *  カモメの鳴く声がする。ぎゃあぎゃあと騒いでは遠くに消えていく姿に想いを馳せ、槙は手元の文庫本に視線を落とした。  閑静な商店街は、今日も薄っすらと懐かしの歌謡曲が流れている。最も、聞いているのは呑気に店番をしている槙のような店員だけだろうが。灰色に染めた髪に、黒いTシャツと黒いエプロンを身に付けた店員。それが槙だ。  平日の昼間、丁度正午過ぎ辺り。この時間帯に牧瀬牧場を訪れる人は少ない。みんな昔ながらの喫茶店だったり老舗の中華料理屋に行って昼食を摂るからだ。ソフトクリーム屋である牧瀬牧場が混むのは三時過ぎのおやつ時と学校帰りの子供が集う四時過ぎだったりする。  槙は早めの昼食を済ませ、いつものように欠伸を噛み殺しながら本を読んでいた。咎める人は誰もいない。店長は別の店にアルバイトに行っている。最も、店にいても怒りはしないだろうが。  この商店街は緩い。それは例えば接客態度だったり、雰囲気だったりに現れている。だが、それでいて仕事が適当というわけでもないから不思議だ。  この息のしやすい緩い空気を、槙はとても気に入っていた。  がらがらという音が響き、槙は視線を文庫本から上げる。扉を開けて入ってきたのは、最近常連になった青年だ。  彼は今日も今日とて肩甲骨辺りまで伸びた鬱陶しい黒髪に、飾り気のない黒縁の眼鏡をかけている。少し皺の寄った白いシャツに黒いジーンズ。いつもと変わり映えのしない、すっかり見慣れた服装だ。  槙と目が合った途端嬉しそうに微笑む青年を見て、呆れ混じりに槙は息を吐く。 「先生、今日も来たの」 「そりゃあ来ますよ。今日もいつものでお願いします」  こんなに格好のつかない「いつもの」があるだろうか。そのセリフはバーだとか居酒屋で言うべきものな気がする。少なくとも、田舎のソフトクリーム屋で「いつもの」と注文するのは目の前の彼ぐらいだろう。  先生と呼ばれた青年はカウンターに小銭を置いた。百円が三枚に五十円が一枚。きっかりソフトクリームひとつ分の値段である。  金額を支払った以上、どんな人間でも客は客だ。例え、毎日のように同じソフトクリームを買いに来る変人でも。  ぱたん。文庫本を仕舞い、レジスターの置かれたカウンターの前に立つ。  開け放しの扉から店に夏の風が吹き込んだ。海の匂いと、彼の髪から仄かに香った匂いに槙は眉を顰める。 「……先生、甘い匂いがする」 「先程祭り屋でおやきを二つ頂きましたからね」 「食べすぎ」  確かに祭り屋のおやきは美味しい。店先で焼かれる香ばしい匂いに惹かれてついつい足を止めてしまうのも分かる。槙だって祭り屋のカスタードクリームのおやきは好きだ。  けれど、目の前の青年はほぼ毎日のようにそのおやきをぺろりと二つもたいらげ、更にそのデザートと言わんばかりにソフトクリームを食べに来るのだ。 「糖分中毒に売るソフトクリームは無いよ」 「そんなこと言わないでくださいよ! お願いですから! 頭脳労働には糖分が必要なんですよ!」  こうも甘いものばかり食べていては栄養も偏るだろうに。この人は普段甘い物以外をちゃんと摂取しているのだろうか。今の所、彼が商店街の甘い物を置いていない飲食店で見かけたことはないのだが。  突き返そうとした小銭を手のひらで温めながら、ちらりと彼の様子を伺う。彼は、まるでお預けをされた犬のように黒色の瞳を潤ませていた。とうに二十歳を超えた大人だというのに、その情けない顔が不思議とよく似合う。庇護欲をそそるというか、ちょっとしたわがままなら許してしまう雰囲気を持っているのだ。  結局、槙はその小銭をレジスターに収めることにした。 「……しょうがないなぁ、先生は」  慣れた手付きでレジを打つ。レシートだけを先に渡し、コーンを手に取って機械のレバーを引いた。がこん、という機械音に次いで絞り口からソフトクリームがゆっくりと出てくる。年代物の機械だからか、いつも動作は鈍い。  槙は手慣れた様子でコーンを握った右手を動かし、ソフトクリームの山を作っていく。とぐろを巻いていくソフトクリームを眺めながら、ついでのように口を開いた。 「ねぇ先生、毎日毎日おんなじものばっかり食べて飽きないの?」 「飽きませんよ」  間髪入れずに返ってきた答えに、槙は灰色の瞳を見開く。ちょっとした悪戯のつもりの問いかけだったのだが、青年の声は冗談にしては真面目すぎる声色だった。  手元が狂い、ソフトクリームが斜めに傾く。慌てて機動修正を試みるも、一度傾いてしまっては完璧に直せない。結局、なんだか少し不恰好な見た目になってしまった。しかも、量を増して誤魔化したことで普段のソフトクリームよりも一段多い。  作り直すべきか否か、密かに迷う槙に気が付かないまま青年は口を開く。 「だって、槙さんの作ってくれるソフトクリームはなにより美味しいですからね」  さっきの言葉の続きを紡ぎ、青年は穏やかに微笑む。  彼が嘘を言うようなひとじゃないのは、付き合いの浅い槙だって知っている。だから、きっとその言葉も本心で、だからこそ困るのだ。  別に槙がこのソフトクリームの原液を調合しているわけではない。槙はただソフトクリームが上手に巻けるだけのアルバイトだ。牧瀬牧場のソフトクリームが美味しいのは、槙の功績ではない。  それでも、褒められて嬉しくなってしまうのはもうどうしようもないだろう。 「…………ちょっと多めに巻いといた」 「ありがとうございます!」  結局、槙は不恰好なソフトクリームを青年に渡した。  青年は見た目を気にしないままソフトクリームを頬張り、笑顔の花を咲かせる。  その顔を見ないと落ち着かなくなってしまうようになったのはいつからだろうか。  やっと手にした槙の安全で穏やかな日常に、青年は容易く入り込んできた。まるで夏の海に訪れる嵐のように。  退屈な日常に刺激が訪れたと変化を喜ぶ人がいれば、平穏を壊さないで欲しいと変化を嫌う人も居るだろう。槙はどちらかと言えば後者だった。実際、必要以上に自分から誰かと親しくなったりする事はこの町に来てからも避けている。  なのに、彼は毎日のように店に来てはソフトクリームを食べ、ついでのように槙の心を擽る言葉を吐いて返っていくのだ。  友人とは違う、けれどただの常連とも言い難い関係。少なくとも他の客は、槙と世間話や外見に関しての軽口なんかは言うことがあっても、本心から褒めてくる事はまず無い。  むず痒い気持ちは日に日に増し、どうにも出来ないまま積もっていく。この感情をなんと言うのか、槙にはまだ分からなかった。 「先生、座って食べなよ」  槙が口に出来たのは、溶けてきたソフトクリームを立ったまま一心不乱に口に運ぶ青年を叱る言葉だけだった。

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