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第2話

「槙ちゃん、お疲れ様」 「店長」  最後の客を見送り、店を閉める準備をしていた槙の耳に甘い声色が飛び込んでくる。  静かな手付きで扉を開けて入ってきたのは、緩く巻かれた栗色の髪を一つに結び、牧瀬牧場と書かれたエプロンを身につけた女性だった。彼女は裁縫箱を片手に、にこにこと人当たりの良い笑みを浮かべている。  彼女の名前は牧瀬結衣。この店の店長で、槙の恩人でもある。  結衣は家を出て行く宛のなかった槙を拾い、仕事と家を与えてくれたのだ。お人好しにもほどがあると最初は困惑を通り越して心配したが、槙は結衣の優しさに救われた。  彼女は普段は店を槙に任せ、商店街の手芸屋で裁縫教室を開いている。いつだって笑顔を絶やさない彼女のファンは多く、裁縫教室は中々の人気だそうだ。  店の片付けを終え、結衣と共に外に出る。シャッターを下ろして鍵をかければ、今日の仕事は終わりだ。  ゆっくり、結衣と二人並んで自宅まで歩く。  結衣は元々父親と二人暮らしだった。五年ほど前までは結衣の旦那も一緒に暮らしていたのだが、彼は亡くなったらしい。槙は既にいない彼のことを詳しくは知らない。聞いてはいけないような気がして、結衣に彼のことを尋ねたことはないのだ。  だから今、牧瀬の家に住んでいるのは三人だけだ。唐突に住み着いた居候だというのに、結衣も結衣の父親もとても良くしてくれている。時々、その優しさが苦しくなることもあるが。  槙と結衣のなかでは家までの約十分の間、他愛のない話をしながら帰るのがお決まりになっていた。今日もまた、結衣が弧を描いた唇を開く。 「今日はお客さん来たかしら?」 「いつも通りですよ」 「あら、それじゃきっと先生は来たのね」  結衣の言葉に、槙は思わず言葉を詰まらせた。言うまでもなく、昼間訪れた彼の姿と言葉を思い出した為である。  先生と町のみんなに呼ばれる彼は、一条要というそこそこ売れっ子らしい小説家だ。年齢は二十四歳で独身。商店街の近くの一軒家で一人暮らし。猫が好きで犬は少し苦手。  何故槙がこうも要の事情に詳しいのかといえば、狭い町ではあっという間に噂話が広がってこんな辺鄙な店までも舞い込んでくるからだ。だからべつに自分から聞いたわけでもないのに、槙はぼーっとソフトクリームを作っているだけで商店街の面々が要についてあれこれ話しているのをよく耳にする。  噂話というと一般的に良いイメージはあまりないかもしれないが、槇は要についての噂話を特段不愉快に思っていない。  何故なら、町の人たちの噂話は驚くほどにあたたかいからだ。彼等は揃いも揃って要のことを悪く言うのではなく、一人でちゃんとご飯食べてるかしらだとか、犬が怖いらしいから散歩コースを変えようかしら、だとかどこか要のことを心配しているような噂話しか口にしない。普通、有名人が引っ越してきたら黒い噂のひとつやふたつは耳にしそうなものなのに。なんというか、この町の人は基本的にのほほんとしていると思う。 「先生はもう町に馴染んだんですか」 「ええ。でも、この商店街の周りしか知らないみたい」  槙から尋ねると、結衣は頬に手を当てながら頷いた。どこか心配そうな仕草だ。  それもそうだろう。商店街には飲食店なんかは多くあるが、病院や郵便局なんかの生活に必要な建物は少ない。このままではいざというときに困るのではないか。槙も密かに心配している。  すると、結衣は何か思いついたように軽く手を叩いた。細められた茶色の瞳はきらきらと輝いている。 「槙ちゃん、時間がある時にでも案内してあげたらどうかしら」  唐突な提案に、返す言葉が思い付かなかった。うぐ、と呻きにもならない音が喉で鳴る。 「なんで俺が……。店長が案内したらいいじゃないですか」  努めて冷静を装ってそう言うと、結衣はふんわりと微笑んだ。 「だって先生、槙ちゃんのことが好きじゃない」  至極当然のように告げられた言葉に、槙は再度喉を鳴らして呻いた。  結衣の言葉を否定するのは容易いはずなのに、槙は咄嗟にそんなことはないと言えなかった。  結局、槙自身がこの小さな町の中で要と一番仲が良いと思っていたいのだろう。子供じみた独占欲を自覚させられて、頬が熱くなる。この熱は夕方になってもまだ暑い夏のせいだと言い訳して、槙は結衣から顔を逸らした。  Tシャツの襟を指先に引っかけて伸ばし、風をより多く取り込もうと健気な努力をする。だが、そんなことで冷めるほどの熱ではない。  槙はまだ暑い頬を持て余しながら、ぽつりと呟いた。 「……考えておきます」 「ええ。先生がこの町に馴染んだら、きっともっと賑やかになって素敵だと思うの」  結衣は、口元に手を当てて嬉しそうにふわふわ笑っていた。微笑ましそうな目で槙の顔を覗き込むのは正直やめてほしい。  そうやってじゃれあっているうちに、あっという間に家に着いた。二階建ての古びた一軒家が今の槙の住処だ。慣れた手付きで引き戸を開けて、家の中に入る。 「……おかえり」  居間に座っていたのは筋骨隆々の大男、結衣の父親である幸雄だった。幸雄は二人の姿を見ると、いそいそとちゃぶ台の上に散らばっていた裁縫道具を片付け出す。裁縫好きな彼は最近とあるテレビ番組の影響で羊毛フェルトにはまっているらしい。見た目に反して、彼は可愛らしい趣味を持つシャイな人なのだ。初めはギャップに震えたが、今はもうすっかり慣れたものだ。  結衣と槙は声を揃えて挨拶をする。 「ただいま、お父さん」 「ただいまです、親父さん」  幸雄は硬い面持ちを僅かに緩めて、台所に向かう。結衣と槙は手洗いうがいを済ませて席に着いた。  料理は基本的に幸雄の仕事になっている。人に食べさせて喜ばせるのがなによりも好きなのだと口下手な幸雄に代わって結衣がこっそり教えてくれた。槙は、これほどでもかと言わんばかりに愛情がたっぷり入った幸雄の料理を食べるのが好きだった。今まで味気ない食事ばかり食べてきたせいだろう。ついつい食べ過ぎてしまう。この町に来てから体重計に乗ったことはないが、絶対に以前より五キロは増えているような気がする。  今日の晩ご飯は幸雄お手製の冷やし中華だった。新鮮な野菜と幸雄お手製の中華麺に濃厚な胡麻ダレが絡んでいて、言うまでもなく美味しい。 「お父さん、今日のごはんもおいしいよ」  結衣がそう言えば、幸雄は照れ臭そうに髭を掻いた。次いで槙も「おいしい」と褒めると、幸雄はお茶のおかわりを持ってくると台所に逃げていった。照れちゃったね、なんて結衣と顔を見合わせて笑う。  本当に、驚くほどに幸福な日々だと思う。過去との落差に涙が出そうになるくらいだ。  槙は、この町に来るまで一般的な両親は無条件に子供を愛するものなのだとは知らなかった。思い出したくもないため詳細は省くが、とにかく最低の人生だったような気がする。  だが、二十歳になったその日にとある出来事がきっかけでこの町に逃げ出してくることが出来た。何も気にすることなく半袖のシャツを着れることが嬉しくてたまらない。  結衣も幸雄も町の住民も、槙の過去について深く詮索しない。なのに家族として、町の一員として扱ってくれる。それが、どれだけぼろぼろだった槙の心を救ってくれたことか。  願わくば、すっかり常連になった青年にもこの町で幸せでいてほしい。そう思うこの感情は、ただのお節介なのか。はたまた違うものなのか。  夏にぴったりな爽やかな味を口いっぱいに詰め込みながら、槙は先程の結衣の言葉について考え続けていた。  

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