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第12話

 話を聞き終えた後、槙はぱちぱちと驚きに瞳を瞬かせた。 「あれ先生だったの?」 「気付いてなかったんですか?」 「だって眼鏡してなかったし……」 「汗でずり落ちるから外してたんですよ」  じっ、と目の前の要と記憶の中の青年を照らし合わせる。言われてみれば、確かにあの青年の面影があるのかもしれない。何故今まで気が付かなかったのかと気恥ずかしくなってしまう。ただ、槙はあの時町に引っ越してきたばかりで怪我が治っておらず、視界が悪かったから仕方ない。そう自分に言い訳をして、気まずい気持ちを誤魔化すことにした。 「そっか。先生だったんだ、あれ」  てっきり誰か町の人の家族が地元に帰ってきているのだとでも思っていた。当時の槙はまだ町の人達のことを把握していなかったのだ。  改めて考えると、要はあの状態の槙に一目惚れをし、あまつさえ引越しまでしたのだという。なんというか、それは、随分と愛されていると思うのは自惚れだろうか。 「なんか、恥ずかしいんだけど」 「僕はようやく槙さんが思い出してくれて嬉しいですよ」  要の手が槙の頬に添えられる。思わず顔を逸らそうとした槙の仕草は、優しい手付きでしっかりと防がれてしまった。  要はよっぽど嬉しいのか、にこにこと上機嫌に笑っている。花でも周りに飛んでいるんじゃないかと錯覚してしまいそうなほどだ。 「いやぁ、思い出してくれないことにはどうやって口説いたものかと悩んでいましたからね」 「……もしかして先生、毎日ソフトクリーム買いに来てたのって」 「槙さん目当てが七割ってところですかねぇ」 「なにそれ……」  ばかじゃないの、そう照れ隠しに言いかけた言葉を呑み込む。要の緩んだ表情を見てしまったら、憎まれ口なんて到底叩けっこなかった。 「ソフトクリームは確かに毎日食べたいくらい美味しいんですけど、毎日通ってれば思い出してくれるかなぁっていう下心は勿論有りましたよ」  そんなの、全然気が付かなかった。知らなかった。  自分はどれだけ鈍感だったのだろう。穴があれば埋まりたいとはまさにこのことかもしれない。 「店長に言いつけてやる……」 「後生ですから止めてください」  羞恥やら喜びやら自己嫌悪やらの複雑な感情に、もうどうしていいのか分からなくなった槙はふいと顔を逸らす。そんな槙を見て、要は声を漏らして笑った。機嫌を取るように槙の頭を撫でながら、要は訥々と話し出した。 「僕ね、あの時眼鏡してなかったからぼんやりとしか槙さんの顔分かってなかったんです」  指先は額に滑り落ちてくる。顔の輪郭を確かめるようにあちらこちらをそっと恭しいぐらい優しい手付きで触れられた。少しくすぐったい。 「でも、この町に引っ越してすぐにあの時の彼が貴方だって分かりました」 「……なんで?」 「この優しい声は、間違えようがないですよ」  最後に、要の手は槙の頬を包み込んだ。要の黒い瞳が少し潤む。それがレンズ越しにきらきら輝いて、海面のようだと槙は目を奪われた。  要は、瞳を愛しそうに細める。 「……傷が治って、良かった」  頬が、熱い。もう感じない痛みすらぶり返してしまいそうなくらいに熱かった。  剥き出しの優しさに触れる度、槙は火照るような感覚を覚える。夏の太陽よりももっと暑いその感情が、槙の固まったままだった心を溶かしていくのだ。  最後の一欠けの氷は、今、要の言葉でどろりと溶けた。 「ねぇ、先生」  この人は、自分の暗い過去も傷跡もぜんぶ分かった上で癒そうとしてくれる。愛そうとしてくれる。嬉しいなんて言葉では言い表せない幸福を、槙は噛み締めた。  ふと、目の前の人ならこの幸福をどうやって紡ぐのだろう。それが知りたい、と強く思った。きっとこれもまた愛なのかもしれない。胸の中は次々溢れてくる愛でいっぱいで苦しくて、気が付いたら口が勝手に動いていた。 「俺も、先生のことが好きだよ」  口にしても尚、愛は枯れることなく溢れてくる。このままでは窒息してしまいそうだ。どうしたらもっと愛を伝えられるのだと考えた槙は、ふと思い付いたように顔を上げた。 「ねぇ。キス、していい?」  恋人といえばキス。そんな短絡的な思考から結論を出した槙は、首を傾げながら尋ねる。要は目をこれでもかと見開いて固まった。今更なにを驚く必要があるのか。返事を強請るように、槙は要の目を見つめた。 「ま、待ってください! 普通こういうの年上の僕がリードするもんじゃないんですか⁉︎」 「うるさい」  背伸びをして要の首に腕を回す。唇が触れるか触れないかぐらいの距離で、槙は囁いた。 「いいの、だめなの、どっち」  要の目はあっちこっちに泳いでいる。それはもう見事なバタフライかクロールかといったところだ。流石に動揺しすぎじゃないかとも思ったが、槙が要に迫られる立場だったらきっと同じ態度を取っていただろう。吹っ切れたせいか、自分から迫るのは然程恥ずかしくはない。相変わらず心臓はばくばくと騒いでいるけれど。  やがて要は大きく息を吐き出すと、意を決したように槙の目を見つめ返した。 「……いい、です」  頬に手を添えられる。その途端、さっきまでの度胸は何処へやら、槙は急に逃げ出したくなってしまった。迫り来る要の顔に耐えられず、慌てて目を固く瞑る。息を止めて、ただじっとキスを待った。  柔らかい何かが唇に触れる。かと思えば、すぐに離れてしまう。ぱちりと目を開ければ、照れたように明後日の方向を向く要の顔が見えた。その表情を見て、自分は本当に好きな人とキスをしたのだと理解した。  そっと自分の唇に触れる。なんの変哲もない、いつもの少しかさついた唇。なのに、要とキスをしたというだけで特別に感じられるから不思議だ。触れ合うだけの軽いキスだったが、それでも槙の心は満たされていた。 「あの、槙さん」 「なに?」 「お誕生日、おめでとうございます」  改まって告げられた言葉に、そういえば今日は自分の誕生日だったことを思い出した。怒涛の展開のせいですっかり頭から抜け落ちていた。 「すみません、プレゼントとかはないんですけど……。後日必ず用意しますので」 「いらない」  もう充分すぎるほど貰っている。だから、プレゼントなんていらないと首を横に振った。けれど要は「そういうわけには」と困ったように笑っている。  だから、槙はプレゼントの代わりにと、ひとつだけわがままを言うことにした。 「ケーキ」  ぽつりと呟いた槙の言葉の続きを拾おうと、要が耳をそばたてる。槙はぼそぼそ、続きを口にした。 「店長がケーキ焼いてくれてる。親父さんも腕によりをかけてちらし寿司を作ってくれるんだって。三人じゃ食べきれないくらい、いっぱい」  ぐい、要の手を引く。それから、ちらりと上目遣いで黒色の瞳を覗き込んだ。 「先生も来て」 「え、でも、いいんですか?」 「いいの」  結衣にも幸雄にも、もしかしたら要を連れて帰ってくるかもしれないとは伝えてある。二人で仲良く帰ったら、きっと喜んで迎えてくれるだろう。  それに、なにより。 「今日はもう、離れたくないから」  恋人になった瞬間から欲が出てしまうものなのだろうか。槙は、要と一緒にいたくてしょうがない状態になってしまっているのだ。  本心からの言葉を伝えると、要は「うっ」と喉に何かが詰まったような声を上げた。そして、要はさしてズレてもいない眼鏡の位置をやたらと直しながら大きな溜め息を吐く。 「…………槙さん、他の人にそういうこと言わないでくださいね」 「言うわけないでしょ」  ふん、と拗ねたようにそっぽを向いて見せる。それから、イタズラっぽく笑った。 「先生にだけ」 「…………だから、そういうところですよ……」  耳まで赤くなった要がおかしくて、可愛くて、槙はくすくす笑う。その時、びゅう、と強い潮風が吹いた。まるで早く帰れと言っているみたいだ。 「ねぇ、帰ろう」  海の助言に従って、槙と要は手を繋いだまま二人並んで歩き出す。気が付けばすっかり太陽は夕焼けに変わり、帰り道をオレンジの光で照らしていた。  横目で海を眺めた要が、「そういえば」と思い出したように口を開く。 「槙さん、あのね。実は僕、この商店街を舞台にした小説を出すんです。売れるかどうかは分からないですけど、もし売れたらきっと今までよりもこの商店街が活気付くと思うんですよ」  そしたら槙さんも忙しくなりますかねぇ、なんて気の抜けた声で付け加えて要は笑う。  そんなことを考えていたなんて初めて聞いた。槙は驚きに目を丸くしながらひっそり小声で尋ねた。 「……どんな内容? 俺、この商店街で人死には嫌だよ」 「違いますよ! 今回は小説家一条要としては異色のジャンルです!」  それは、いったいどんな作品なのだろう。わくわくした気持ちを隠しもせず、続きを促す視線を要に向ける。  要は照れたように頬を掻き、槙の手を握る力を強めた。それを合図に、「あのね」と前置きをしてからゆっくりとした調子で話し始める。 「人生に悩んだ男が、ソフトクリーム屋の店員に優しくされてうっかり恋に落ちる話です」  そう言うと、要はすっきりとした晴れやかな笑顔をみせた。  槙はというと、どんな顔をしていいのか分からない。嬉しいけれど恥ずかしいような、むず痒い気持ちだった。けれど、それがとびきりの誕生日プレゼントだということは理解した。  やがて槙は、「楽しみにしてる」と苦笑と共に返した。 「ねぇ、一番最初に読ませてくれる?」 「それはもちろん。槙さんがモデルですからね」 「変に書かないでよね」 「大丈夫ですよ。そこはもう任せてください」 「本当かなぁ」  笑い合いながら帰り道を歩く。そんな小さな幸せさえも、もしかしたら二人は得られなかったのかもしれない。ほんの少し会話しただけのあの夏の日のおかげで、要の人生も槙の人生と大きく変わった。それはいったい、どれほどの偶然で奇跡なのだろう。   並んで帰る二人の後ろ姿を、いつまでも海が優しく見守っていた。

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